アレクサンドル・プィリツィン3
―それでは、懲罰隊にとどまって指揮し続けた将校たちと懲罰隊員との関係についてですが、全体として見た場合、戦闘の際に何らかの格差はあったのでしょうか?大雑把に言えば、両者は同じような危険を味わったのか?ということを教えていただきたいのですが。
どうやってお話ししたものでしょうかね?そういえば、いつだったか「ソヴィエツカヤ・ロシア」紙に載った記事を思い出しましたよ。アメリカの新聞からの引用でした。もっとも、引用元の新聞自体は「ユダヤの言葉」という名前でしたが。かつて私の大隊で戦っていた元懲罰隊員で、後にアメリカへ移住したレフ・ブロツキーという人物が、新聞からのインタビューに答え、我が大隊の一員としてロガチョフを占拠した時のことを語ったのです。誰が指揮官だったのか、という質問もありましたよ。彼は「誰が指揮官だって?懲罰隊員たちが自ら指揮したんじゃないか!」なんて答えていましたね。まるで指揮官たちは傍観していたかのような言い種です。この人は、全大隊がドイツ軍の後方に食い込んだ時、指揮官や将校はどこにいたと思っているのでしょうか?どこかの誰かが彼らをかくまったとでもいうのでしょうか?
私はもうちょっと違う話ができますよ。つまり、小隊を突撃に向かわせる時には、[隊長が]自ら立ち上がらないとどうにもならない、ってことです。このルールは絶対でした。というのも、突撃の時には「俺に続け!」と言うのですから。「俺に続け」ってのは何を意味していると思いますか?自分自身が皆の後ろにいたら、「続け」だなんて言えないでしょう?私は先頭に立って進まなければなりません。それで、私たちは懲罰隊員と同じように死んだり傷つけられたりしたのです。例えば、そうですね、国防省中央文書館のデータによれば、中隊が前線に向かう時、将校は11人から14人で、彼らに指揮される懲罰隊員は100人くらいのものです。その後、100人のうちの50人が死傷したとすると、将校は11人中10人が戦死しているわけなんですね。どう思われますか?そういうことだったんですよ。だから、私たち中隊長も小隊長もみんな、懲罰隊員に劣らぬほどの危険にさらされていました。あの地雷原にも一緒に行ったんです。私は突破に成功しましたよ。だが、これに失敗した者もいました。
あるいは、オーデルを渡河した時の話です。私は実はかなづちで、正直に言いますが、今でも泳げないと思っています。で、ドニエプル、ドルチ、ブグ、ヴィスワ、オーデルを渡ってきました。もっとも、ヴィスワの時は冬でしたね。それからドニエプルも冬だった。それ以外は夏に渡ったんです。ブグは広い川でしたよ。でも、私は生き残ることができた。ただし、ドルチではひどい溺れ方をして、氷に囲まれた水の中へ落っこちたものだから、最早これまでと思い、生きて這い上がる望みはほとんど捨てていました。私付きの伝令兵が氷の上へ引っ張り上げてくれて、ようやく助かったのです。あの世から引き戻されたようなものですよ。
だから、私たちは皆死すべき存在でした。セミョーン・バーソフ、セミョーン・エメリヤヌィチが言っている通りです。
「俺ら懲罰隊員はまだいいよ。負傷すればそれでおしまい、解放されるんだから。懲罰大隊から出してもらえる。ところが小隊長は、負傷したって同じ大隊に戻っていくわけだ。カミカゼみたいなもんだね」
ただ実際には、全員が負傷後も大隊に帰ってきたわけではありません。そうすることを望まない者もたくさんいました。しかし私は、当時はまだ19歳の中尉で、言ってみれば若者に特有の無鉄砲さと、それから自尊心に突き動かされてたんですね。何しろ[元の]中佐や少佐を指揮できるんですよ!他では考えられない状況じゃないですか!
それに、彼らからは多くのことを学びました。みんな賢明で、厳しい実戦の試練を何度もくぐり抜けてきただけでなく、人生経験も豊かな人々でした。勿論、彼らからはいろんなことを教えてもらいましたよ。私は思うのですが、もしも通常の部隊へ移籍していたなら、あのような学校では学べなかったはずです。だから、私は大隊へ戻っていったのです。―武器や被服のこともお聞きしたいのですが、通常の歩兵部隊と比べるとどのような状況だったのでしょうか?
これに関しては、いろんな作り話を聞いています。武器も持たずに突っ込まされた、とかね。ドイツ兵を倒したらそいつの武器を奪い取れ、とか。しかし、銃がないのにどうやって敵をやっつけられるんでしょうか?で、戦友が死んだらその銃をもらう、ということにされたわけです。こんなのはみんな嘘ですよ。
私たちのところでは、全員が武器を支給されていました。当時としては最新の装備まで与えられたのです。考えてもみて下さい、短機関銃の中隊も編成されていたのですから。PPD、その後はPPSh短機関銃を使っていました。小銃はトカレフの自動小銃です。もっとも、何故か狙撃銃だけは存在せず、私はこの事実に驚いたくらいですが、大隊が最初に編成された時にはあったようです。ただ、武器はいつだって充分にあり、自分たちで手に入れろなんてことは一度もありませんでした。武装に関しては文句はありません。迫撃砲中隊も定数を満たしていましたし、大隊直属の迫撃砲隊、あるいは迫撃砲弾の数だって充分にそろっていました。
我が軍がブレストを包囲していた時、迫撃砲小隊長ミーシャ・ゴーリトシテインは私のすぐ傍にいました。彼らは、ドイツ軍が放棄した砲弾の集積所を手に入れることに成功しました。私たちの迫撃砲の口径は82ミリ、対するドイツ軍のそれは81ミリでした。つまりほんのちょっとだけ小さく、隙間があったのですが、射程だけ修正すればそのまま使用可能です。そして彼は、ドイツ軍に対し、ドイツ軍の迫撃砲を一晩中撃ち続けたのです。こういう次第で、武器はいつでも豊富にそろっていましたね。
また、手榴弾の数も充分でした。あるだけの手榴弾を、必要な分だけもらうことができます。だから、武器の補給に関してはとても恵まれていたと言えます。とても恵まれていましたよ。懲罰隊が武器なしで戦いに放り込まれたなんていうエピソードは、これは全てとんでもない、そして悪意のある作り話なのです。―もう一度、退却阻止隊についてお話をうかがいたいと思います。戦闘中に退却阻止隊を目撃することはありましたでしょうか?
一度もありません。いかなる形であってでも、です。1人だけ、特務機関の代表者であるグルホフ上級中尉が大隊に送られてきていましたが、それ以外は誰も見たことがないのです。そもそも、そんな必要は少しもありませんから。というのも、私の思うに、元将校から編成された懲罰大隊というのは最も頑強で、粘り強いと言っていいような部隊でした。「シトラフバート」で描かれているように、自分たちの背後に退却阻止隊が待ち構えているなんてことは、誰一人として思い浮かべることすらありませんでした。
私がお話ししたいのは、もっと別なことです。退却阻止隊が懲罰大隊と同じ命令で創設されたことは確かですが、この両者は1対1の関係だったわけではありません。スターリンの命令で発足した退却阻止隊は、当時の言葉で言うところの軟弱な師団の後方に配置されていました。あるいは軟弱な連隊でもいいのですが、彼らが敗走するかもしれないので、その場合はこれを押し止めるわけです。しかし現実には、退却阻止隊が友軍に向かって発砲したことを示す戦時の記録は1つも残っていません。1つもないのです。彼らは脱走兵や、戦場から逃げ出す者、怯懦な者を捕まえていました。捕まえては集め、再びどこかの部隊へ送って、前線向けの補充にするわけです。こうした部隊は、時には前線の中でも危険度の高い地区へ派遣され、他の部隊と並んで戦う場合さえありました。だから私は、退却阻止隊が本当にそのような悪魔的行為[友軍への発砲など]をする必要があったかは疑問に感じていますし、この件については何も言うことができないのです。―戦争が終わった時、あなたの部隊はベルリンまで進軍していました。その時点で大隊に残っていた懲罰隊員たちがそれからどのような運命をたどったか、お話しいただくことはできないでしょうか?
そうですね、今ではいろんな理由で恩赦が行われているわけですが、戦勝以上に恩赦の対象としてふさわしいものはないと思いませんか?勿論、全員が原隊へ戻されましたよ。もっとも、私自身は解隊の完了を見届けることはできませんでした。妻が出産を控えていたものですから、送っていく必要があったのです。その後も大隊の解散は少しずつ進んでいき、戦いの中で自らの罪を償えなかった者も、全員が元の部隊に戻り、元の階級を返してもらいました。ただ、私はよく知らないのですが、もしかしたら一部はそのまま矯正収容所へ送られて刑に服するというケースがあったかもしれません。特に重い罪で来ていた者の場合は、ですよ。しかし基本的に私が知る限り、また私の友人たちから聞いた限りでは、隊員たちはみんな戦線の人事局を経由して、その後は軍集団を経由して帰っていきました。とりわけ、私たちの大隊の本部長であり、解隊の完了につき合ったフィリップ・キセリョフがこのことを話してくれたのです。すでに大隊そのものが第1ベラルーシ戦線直属の[懲罰]大隊ではなくなっており、駐独軍集団が編成された時には、ドイツにおける駐留軍集団直属の大隊へ改組されました。その状態で解隊となったのです。それから全員分の引き渡し書類を作成し、少しずつ原隊や戦線人事局に元隊員を送っていきました。
―本日はインタビューに応じていただきありがとうございました。
(了)
(11.11.08)
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