アレクサンドル・プィリツィン2
―その損害という問題についてです。現代のマスコミ、あるいは「シトラフバート」のような創作物は、全ての懲罰隊員が屠殺場へ追い込まれたかのように描き出しています。そして、懲罰隊員が生き残るのは奇跡に等しいなどというわけです。これに関して、実際の出来事の目撃者であり体験者でもあるあなたのお話しをうかがいたいのですが、いかがでしょうか?
そうですね、ロシアのことわざで「一度起きたことは二度起きはせぬ」と言っている通りですよ。そもそも私は、前線で戦闘が行われている時には簡単な任務などあり得ないと思っています。普通に行進していって、行きずりに任務を遂行して一丁あがり、なんてことは考えられません。至る所で戦いがあって、安全な場所などはどこにもないわけです。それでもやはり、私たちのいた部隊[つまり懲罰隊]が前線の中で最も危険な地区へ投入するために創設されたのだという事実は動かせません。ただ、何をもって危険と考えるかは難しい問題ですけどね。
例えば、私たちがロガチョフを占拠した時、より正確に言えばロガチョフ占拠を支援した時、私たちはゴルバートフ将軍の第3軍に所属していました。軍司令官は自ら私たちのところへやって来て、大隊に任務を伝えました。
「諸君には前線を越えて[敵の後方へ回り込んで]もらう。そして、我々が正面から街を奪取できるよう支援するのだ。私は約束しよう。諸君らがよく戦ってくれた場合、活躍した者は全て、負傷したか否か、つまり血を流したか否か、自らの血で罪を贖った否か、目につくほどの功績を挙げたか否かを問うことなく、全員を自由の身とする」
そして現実に、ロガチョフ占領によってこの戦いに幕が下ろされた時、大隊員のほとんど全員が釈放されており、その一方で損害は非常に小規模なものでした。また、前線を突破した際に800人のうちの50人ほどを失っていましたから、大隊は完全に再編成を受けることになりました。もっとも、前線を越える時にドイツ軍と出くわしてしまった1個中隊だけは、他よりも大きな損害を受けたのですが。にも拘わらず、800人のうち損害は50人、もしくは60人で、それも負傷者と戦死者を合わせてこの数字です。他の隊員はみんな無事に帰ってきました。だから、損害は少なくすんだと言えるわけです。
別の例もご紹介しておきましょう。我が軍がブレスト地区の敵部隊を取り巻いて時の話ですが、この包囲環を縮めていくという任務が与えられました。ドイツ軍は打ち寄せる波のように繰り返して包囲を破ろうとしましたから、戦いは恒常的に続き、休息の時間などは1分もありません。ここで、私たちは3日の間に凄まじい損害を被りました。ただ、あの時には私たちも親衛師団も同じ戦区で戦っていました。そして、彼らも私たちも多くの兵士を失っていましたから、我が懲罰大隊が通常の歩兵部隊よりも大きな損害を出していたかどうか、私にはよく分かりません。そう言うだけの根拠がないのです。
一方で、これとはまた違った例もあります。私たちがナレウ橋頭堡でバートフ将軍の指揮下に入っていた時、非常に嫌な出来事がありました。当時の私は中隊長[註2]になっていたのですが、私の中隊がほとんど故意にと言っていいような状況で地雷原に突入させられたのです。攻勢を開始する必要があり、私たちの隊は前進したわけですが、実際は私たちの体で地雷を除去したようなものですよ。中隊にいた100人を超える兵士のうち、生きて地雷原を突破できた者はおよそ20人。そんなことがあったのです。だから、損害は80%に達したわけですね。死んだ者もいれば負傷した者もいましたが、いずれにしても損害は損害です。
オーデルでは、つまりオーデルを渡河した時の話ですが、あそこでは私の中隊が擁していた100人以上の隊員のうち、対岸に渡ることができたのはやはり20人程度でした。損害は数えなくとも分かるでしょう。どのような任務を与えられるか、それぞれの状況の中でどんな風に戦いが行われているか、全てがこうした様々な要素に左右されるのです。とはいえ、統計が示しているところによれば、全体として懲罰隊、とりわけ懲罰大隊が被った損害は、通常の部隊のそれと比べて3倍も大きなものでした。―あなたの隊が地雷原を突破させられたというエピソードについてお聞きしたいと思います。これは司令部のミスによるものか、それとも何らかの命令が出ていたためだったのか、あなたはどのようお考えでしょうか?
そうですね、ミスだったのかどうかは私には分かりません。けれども、1945年5月9日、平和が訪れた第1日目、勝利の最初の日に、私たちの大隊では祝宴を開きました。その後では、みんないい具合にリラックスしていましたね。アルコールでさんざん景気をつけましたから。何しろ勝利の日ですから。私たちが4年間待ちに待ったお祭りの日ですよ。それで、大隊長もまた気が緩んだのでしょう、私を呼んでこんなことを言ったのです。
「ひとつ貴様に打ち明けておかなきゃならん。貴様の中隊を地雷原に送ったのは、あれはバートフ将軍の命令によるもので、故意にやったことだったのだ」
実際に彼が言った通りだったのか、バートフ将軍その人がそんな命令を出したのか、私には分かりません。おそらくは、彼が個人的な提案として持ちだしたものが受け入れられたのではないかと思います。しかしいずれにせよ、意図的だったことは間違いありません。あれはミスなんかじゃない、犯罪ですよ。―分かりました。それでは、懲罰隊の人員がどれくらいの頻度で入れ替わるのかについてお話しいただけないでしょうか?つまり、彼らはどれだけ勤めたら釈放されたのか、人員入れ替えの頻度はどうだったのか?ということをお聞きしたいのです。
そうですね、ヴォロダルスキーは自らの著作とドラマの中で、[大隊の]成員は3か月で完全に入れ替わったと述べています。つまり、1年に1個大隊ではなく、それこそ4個大隊がほとんどあの世へ送られたというわけです。しかし、現実にはそんなことはありませんでした。実際には、例えばロガチョフの戦いが終わり、私たちが敵の後方への突破作戦を成功させてロガチョフが奪回された後のことですが、部隊は再編のためおよそ2か月の間同じ場所にとどまりました。補充兵が来て、彼らを教育して、その後は防御戦です。防御の段階もまた1か月半以上続き、私たちは陣地を守っていました。この間に多くの大隊員が自由の身となっています。彼らは懲罰大隊で2か月をすごしたわけです。戦闘状況の中で、つまり防御戦やその他色々な状況の中での2か月です。それで無罪放免になる。だから、大隊員が解放されるのは、負傷したり手柄を立てたりした結果だけとは限りません。ただ単に、決められた期間を大隊ですごせばそれでいい。私たちのところでも、人員が大量に解放されたケースがありましたよ。
功績により自由を勝ち取った者もたくさんいました。とりわけロガチョフ作戦の後では命令が出され、私の手許にもその写しが残っているのですが、その内容は260人を戦功により期限前に解放、60人を大隊在籍期限により解放、といったものでした。だから、これこれの期間ごとに大隊の人員が完全に入れ替わるだとか、そんなことが断言できるわけはありません。成員は常に変わっていましたから。ある者は来て、別の者は去るという具合です。このように、全ては法の枠内で、懲罰隊に関する規定の枠内で遂行されていました。ちなみに懲罰隊に関する規定は、かつてジューコフが参謀総長であった時期に承認したものです。―次に、あなたの部隊にいた懲罰隊員の中で戦功を挙げた者に関してお話をうかがいたいと思います。彼らは基本的に、期限を待たずして解放されるだけでなく、何らかの勲章やメダルなどで賞されたのでしょうか?
勿論ですよ。率直なところ、そんなに頻繁ではありませんでしたが。しかし当時の現実というのは、今までお話ししてきた通りです。まず、ある人物が犯罪行為を、あるいは逸脱行為を行ったとしましょう。少なくとも、彼は祖国に対して罪あるものと認められるわけです。その同じ人物が手柄を立てた。だから、彼の罪の深さと功績の大きさとを比べてみなくちゃいけない。もしもこの2つがつり合っていたのなら、彼の罪は帳消しになり、大隊から抜けていきます。またもし功績の方が罪よりも大きく、これを差し引いてもなお表彰の価値がありそうだぞということになれば、それは当然表彰されますよ。
主な褒賞ですか?「勇敢」メダルですね。それから「戦功」メダル。さらに、兵士を対象とした勲章である栄光3級勲章もあります。何故なら、彼[懲罰大隊に送られた者]は一兵卒として戦うからです。懲罰隊員たちはたいそうこの勲章を嫌っていたものです。それ自体は立派な、美しい勲章でしたし、もしも[1級から3級までの]栄光勲章3つ全てを授与されたら、それはソヴィエト連邦英雄の称号にも等しい価値があると考えられていました。しかしながら、懲罰隊で栄光勲章を1つ与えられたとしても2つ目はあり得ないということは、皆よく知っていましたよ。懲罰大隊員は本来は将校ですから、兵隊用の勲章である栄光勲章は[懲罰大隊以外の場所では]もらえるはずがないのです。
問題は、彼が[懲罰大隊から解放されて]一般の部隊へ復帰した後のことです。多くの者が、自分は懲罰大隊にいたという経歴を隠そうとしました。実際の状況がどうであれ、いくら彼ら自身が「罪があろうとなかろうとおかまいなしさ」などと言い募ろうと、この経歴は汚点でしたし、彼らもそれを理解していました。自らの汚点が明らかになってもかまわない、と思う者ばかりではありませんよね。で、彼が原隊に復帰するか、あるいは他の部隊に移ったとします。少佐なのに、胸には栄光勲章が輝いている。誰だって疑問に思うでしょう。
「ちょっと待てよ、どうしてあの少佐は栄光勲章を授かったりしたんだろう、兵隊用の勲章だというのに?」
そうすると、彼[少佐]は自分が懲罰大隊に送られ、一兵卒として勤務していたことを話さなければならなくなります。だから、彼らはこの勲章を嫌っていましたし、嫌々ながら受け取るという風でした。しかしどういうわけか私たちの大隊長、特にバトゥーリンがそうでしたが、逆に栄光勲章を選んでは授与しましたから、もらった者は汚点[となる懲罰隊での経歴]が隠し辛くなっていましたね。[註3]
そんなわけで、表彰はされていました。ただし、そんなに頻繁にではありません。例えば、1個中隊から1人か2人が受賞者を出せばいい方です。もしも懲罰隊員が1人で戦車を撃破したり、敵機を撃墜したりすれば話は別です。そうすれば、無条件に大祖国戦争勲章[正しくは「祖国戦争勲章」]を与えられるということが規定で決まっています。勿論1級はもらえませんが、2級は確実です。そして、受勲しさえすれば彼は自由の身です。それまで持っていた勲章も、階級も、地位も、全て返してもらえるわけです。
ちなみに、部隊から何人の叙勲者が出るかで、その隊を率いる隊長自身の叙勲も左右されるものです。そういう決まりでした。例えば、もしも親衛隊だとか歩兵隊だとかに属する中隊が英雄的な戦いぶりを見せ、10人の中隊員が勲章を授けられたとしたら、すなわち彼らの中隊長もお褒めにあずかることができます。英雄的な中隊に対しては、その中隊長も英雄にふさわしく表彰しなければなりません。一方、私たちのところではどうなっていたと思いますか?中隊の中で表彰されたのは2人程度です。一体、どの中隊が選ばれるのでしょうか?全ては上の方で、本部の連中が決めるのです。「様子はどうだ?よくやったらしいな。いいだろう、あいつにメダルでもくれてやれ」なんて言ってね。あるいは、それさえくれない場合もあります。
だから、懲罰隊の隊長たちが隊員に隠れてたくさんの勲章を独り占めしてしまうだなんていう噂は、あれはみんなでたらめです。私たちに対しては、勲章は出し惜しみされていましたから。少ししかくれませんでしたよ。
註2:先に言及があった「軍直属の懲罰中隊」ではなく、懲罰大隊を構成する中隊の1つを任されたのである。従って、これを構成する隊員は全て元将校ということになる。
註3:栄光勲章の性格についてはこちらを参照のこと。(11.11.08)
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