アナトーリー・シャバーリン2


―食事はいかがでしたか?

 戦時という条件を考えれば、よかったと言うべきではないかと思う。当時の生徒たちはパン800グラム、お茶にバター、肉料理を出してもらっていた。身体的な鍛錬のためにはそれくらいが必要で、たくさんのエネルギーを消費していたし、もっと多くてもよかったかな。いずれにせよ、体力を維持するためには充分だった。何しろ若者の体だから全て消化してしまって、もっともっとと欲しがっていたがね。

―ご家族からの手紙には、銃後の生活についてどのように書かれていましたか?

 みんな、農村での仕事をしっかりこなしていると書いていた。働ける者は全て働いていたんだ。子供らは学校から帰ると穀物を刈り入れ、ジャガイモを収穫するという具合で、大人たちもみな同じくだった。

―41年から42年にかけての冬ですが、スターリンやソヴィエト政府に対する見方はいかがでしたか?

 1人の例外もなく肯定的な受け止め方をしていた。スターリンが言ったことは必ず実行される、とみんな知っていたからね。41年7月3日にスターリンの演説を聞いた時、私たちは敵が打ち砕かれると信じたよ。ソヴィエト政府に対しては、これはスターリンそのものだと理解していて、両者を区別するようなことはなかった。

 私たちの中隊はチェルヌィショフ兵舎に入ったが、これは国防人民委員部人事局が予備として持っていた建物だった。ここでも毎晩整列があり、誰がどこへ配属されるという命令が読み上げられた。部隊長が前線からやって来ては、補充要員を連れて帰った。私たちはこのようにして1週間辞令を待ち続け、その間に3~4人が前線へ送られた。
 42年5月10日、私はヴォルホフ戦線への配属が決まった。当時はまだ北西戦線と呼ばれていたが、42年の6月にこの戦線がヴォルホフ戦線とレニングラード戦線に分割されたのだ。行き先は第8軍第265歩兵師団第941歩兵連隊、歩兵小隊長としての赴任だった。前線近くまで汽車で移動している途中、外に出てみると、辺りに散乱するドイツ軍の鹵獲兵器が目に入った。それらを見に行き、手で触れてみたよ。前線での最初の思い出だ。その後で目的地に到着し、オクチャーブリスカヤ路線のジハレヴォ駅で降ろされた。辺りには何もなく、駅の施設はゼムリャンカの中に入っていた。警備隊のところへ行って食事をし、朝になると案内者をつけてもらって、第8軍の司令部へ出頭した。それからやはり案内者と共に第265歩兵師団司令部へ向かい、さらに連隊へ、大隊へという具合。みんな分散していたからね。
 連隊に着くと、農家の風呂場へ迎え入れられた。ここが連隊本部長の執務室になっていて、彼は手早く私たちの個人データを記録した後、案内者をつけてすぐに大隊へ向かわせた。中隊長が小隊の皆に引き合わせてくれたが、小隊長はおらず、小隊長補モロゾフ上級軍曹がその代わりを務めていた。彼は職業軍人だったから、この点ではついていたと言ってもいいと思う。私は彼とコンビを組んで戦場に向かったのだ。

 我が軍は攻勢らしい攻勢をかけることはなく、防御に専念していた。小規模な出撃はあったが、ドイツ軍も対抗して反撃に出るといった風で、一進一退の戦況だった。少しでも有利な陣地を占めるための戦いだ。もっと後になると、つまり42年8月頃のことだが、レニングラード包囲環の突破に向けた準備が始まった。レニングラード封鎖の解除を目標とした最初の作戦、8月のシニャヴィノ作戦の始まりだ。しかし後から知ったのだが、この作戦はドイツ軍の目を逸らすための陽動だった。敵軍は南方戦線で成功を収めていたから、私たちはレニングラード封鎖地区で圧力をかけ、当初は南方戦線に投入される予定だったスペインの「青師団」をこちらの戦区へ引き出すことに成功した。捕虜の中から得られた情報により、この師団は私たちと戦っていると分かったのだ。もっとも私自身には彼らと戦った経験はなく、偵察情報からそういうことを知っただけなんだがね。
 シニャヴィノ作戦は、入念な準備の下で行われたものではなかった。沼がちな地形で、戦車も期待された効果を発揮できはしない。当時はまだ友軍の航空戦力は数が少なかったし、そもそも前線が一番苦しかった年の話なのだ。武器も少なく、とりわけ弾薬の不足はひどかった。例えば、中隊の迫撃砲に与えられた砲弾は1昼夜あたり6発だけだ。マクシム機関銃も私たちの隊にはなく、特別な機関銃中隊だけの装備とされていた。私たちが使っていたのは小銃で、指揮官の武器はカービン銃だった。私自身もカービンと、それから個人装備としてTT[トカレフ]ピストルを所持していた。分隊には1挺のSVTが支給された。私の小隊ではどの分隊にも行き渡っていた。10発入りの弾倉がついたやつだよ。
 ファシストたちの防御陣地は非常に念入りに構築されたものだった。彼らは長期にわたってそこに立て籠もるつもりで、住民を追い立てては陣地作りに使役したのだ。レニングラードの街全体を飢え死にさせるのが敵の計画だったから、積極的に攻勢をかけようとはしなかった。ただ、ラドガ連絡線を遮断するための攻撃は行っていた。この連絡線を使って市民を疎開させ、あるいは多少なりとも食糧や弾薬を運び込んでいたから。42年、敵は東部戦線での勝利から1周年を祝うべく、6月22日に飛行機で宣伝ビラをばらまいた。私もそれを手に取ったことがあるんだが、内容はヒトラーが自らの軍勢に対して発した呼びかけだった。我々は東部戦線にて大いなる成功を収めつつあり、目標はレニングラードを二重の包囲下に陥らせ、街を奪取し、宮殿広場にて戦勝パレードを行うことである。その後は街を徹底的に破壊して地上から消滅させ、またクロンシタットも海の中に沈めて、革命揺籃の地に引導を渡すであろう、なんて書いてあったね。飛行機が飛んできて、1発ずどんとやったら、こういう紙切れが雪のように降ってきたんだ[若干意味の取り辛い箇所。撃墜したら積んであったビラが飛散した、ということか?]。
 私たちの連隊は第2エストンスキー村を占拠していたが、これはドイツ軍の防御ラインに5キロ食い込んだ地点にあった。しかしその先には12キロと7キロの包囲環があって(原註:この数字はレニングラード戦線までの距離を指す)、私たちの行く手を阻んでいた。レニングラード戦線側からも、こちらに向かって突破してくることはできなかった。私たちの攻撃が成功した後も、両翼の友軍は前進に失敗し、攻勢防御の態勢に移った。その後、ドイツ軍は我が連隊がエストンスキー村を占領していることを知り、3日後に連隊を包囲した。私はこの時までに負傷し、後送されていた。包囲環が閉じられた時には、私はもう野戦病院にいたことになる。
 負傷したのは臀部で、両脚が動かなくなった。重傷だったが、そういえば1回目の負傷について話すのを忘れていたな。まだ私たちが小規模な出撃を繰り返していた時の出来事で、大腿部を傷つけられたのだ。野戦病院で治療を受け、若い体のことだから傷の治りは早く、再び第一線に復帰していた。最初の負傷は軽かったが、2回目は重かった。私はこのために9か月の間、各地の病院を転々としたよ。ヴォイボカロ、ヴォルホフストロイ、シャシストロイ、これは製紙工場付属の居住区だ、その後でルィビンスク、ヤロスラヴリ。しまいには傷病兵の輸送列車でキーロフまで来て、3昼夜ここで停車した。道中、病院のあるところでは1両か2両の貨車から人が降ろされた。あるいは再び人が乗せられ、別の患者を受け入れる場所も用意された。私は動くことができず、仰向けに寝ているだけだった。視界は貨車の天井に限られていたよ。どうやら私は寝入ってしまったらしいのだが、その間に列車はスロボツコイまで来ていた。看護婦はモスクワから来た女の子で、民間では設計局の製図工として働いていたと言っていた。住所も教えてもらったのに、動けないでいる間にどこかへやってしまった。名前も思い出せないが、とにかく非常に注意深くて、丁寧に接してくれる人で、プラトーク[スカーフ]をかぶっていて…多分、私は彼女のことが気に入っていたんだろうなあ。だがその後連絡を取ることはできなかった。スロボツコイに着いた時、彼女から私たちはここで降ろされると聞いた。それから馬車で運ばれたが、私は周りの話し声に耳を傾けていた。女たちが叫び、馬を駆り立て、時には口汚い罵り言葉なんかも聞こえてきた。
 運ばれた先は第7学校で、今いるこの場所から近く、市場のある一角で、現在はギムナジウムになっている建物だが、当時は病院として使われていた。私はそこで3か月治療を受けたよ。2つの破片を摘出する、難しい手術をやってもらった。左腿の付け根への盲管破片創だった。憶えているのはザハーロフ軍医、本職は内科医、レニングラードの人。外科医もやはりレニングラード出身で、よく憶えていたはずなんだが、今では記憶が薄れて名前も思い出せないな。病院はスモレンスク州のロスラヴリ市からスロボツコイに疎開していたもので、看護婦も皆そこから移動してきたのだが、どういうわけだか医者だけはレニングラード出身だった。毛皮工場の指導者たちが何度も私たちを見舞い、コンサートや贈り物で慰めてくれた。私は長いこと松葉杖で歩かなければならなかった。親戚たちとも会えはしなかったよ。それは当時の交通事情のせいで、車の類はみんな動員の対象となっており、どこかへ出かけるには馬を使うしかないからね。街の中でも道行く車を見る機会はほとんどなかった。親戚の誰かが来てくれればとも思ったのだが、みんな仕事が忙しくて、見舞いどころではなかったのだ。
 すでに43年になっていて、クルスクの戦いは我が軍の勝利に終わった。これを祝い、初めての勝利の花火が打ち上げられたということをラジオで聞いた時は本当に嬉しかったなあ。それまでこんな花火はやらなかったのだが、その後は勝利を収めるごとに花火が続いた。

―ここでの暮らしぶりはどのようなものでしたか?

 住民たちはビール工場から酒粕をもらい受け、食糧の足しにしていた。それに、ビール工場で働いていた者は、給料の代わりに製品のビールをもらっていた。工場の労働者はそれらを市場で売り、パンを買っていたわけだ。また大小の工場で働いていた労働者は600グラム、それ以外の者には400グラムの[パンの?]配給があった。

―サボタージュや破壊行為、[当局への]批判といった現象を目にすることはありましたか?

 いや、ないな。自分でもどうしてだか分からないが、そんなことは想像すらできないような空気が私たちを包んでいたのだ。勝利を手にするため、人々は全てを犠牲にしていた。暖かい服を寄付し、公債を購入し、その他のお金は国防基金に回した。誰かが不満を持っているだなんてのは信じ難いことだったよ。

 退院したのは43年9月8日。私は将校だったから、病院を出るとそのまま州の徴兵司令部へ送られた。手に書類一式を持って徴兵司令部へ向かった。私は何故か、いずれかの徴兵司令部で働くものと思い込んでいた。当時の徴兵司令部では、手がなかったり、松葉杖をついていたり、目がなかったりするような人々が勤務していたからね。その時の私はまだ杖に頼っていたが、松葉杖はもう必要がなかった。徴兵司令部に着くと、待合室でしばらく待つように言われた。そこで待った後に、書類を出してもらった。
「キーロフの街は知っていますか?」
「大体のところは。キーロフで教育を受けましたし、隊列を組んで街を行進したこともありましたからね。おおよその地図は分かりますよ」
「レーニン通りの96番地です。そこへ行って、この書類を提出して下さい」
「そこには何があるんです?」
「背の高い灰色の建物です。その中へ入って下さい」建物の正体はNKVD[内務人民委員部]の支局だった。
 私はそこへ行き、守衛に書類を渡した。守衛は将校を呼んだ。将校は書類を持って立ち去ったが、間もなく私を呼び入れるとこう言った。
「これから私たちのところで働いてもらうことになります」
「ここでですか?私は実戦部隊の将校なんですが」
「戦争はまだ終わったわけではありません。勤務地を選ぶなどという贅沢は許されないのですよ」
 私は最初、自分が何故ここで働かなければならないのか理解できなかった。
「州徴兵司令部は、あなたをNKVDでの勤務に回したのです」当時はまだNKVDと呼ばれていたからね[1946年に内務省と改称]。
「しかし、私はここでどうやって働けばよいか分からないのですが」
「お教えしますよ」
 実際、彼らは私を教育してくれた。支局の捜査員養成コースで6か月。同じような前線あがりの者が25人雇用されていた。教育を受けている間も、私たちは付属の衛生部で悪いところを治療してもらった。ドレレフスキー通り15番地、今は音楽学校になっている場所だが、そこにNKVD支局の衛生部が設けられていたんだ。私たちの寮はその建物の裏側、2階にあった。

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(11.08.01)

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