アナトーリー・シャバーリン1
私は1922年11月25日、キーロフ州ベロホルニツキー地区コテゴヴォ村で生まれた。子だくさんな農民の家の出だよ。
―戦争が始まった時は何をされていましたか?
6月22日にはすでに軍学校の生徒だった。というのも22年生まれの若者たちは、まさにあの不幸な年に徴兵の対象となったからだ。私はコムソモールの派遣証明書を持っていたから、徴兵委員会は私を軍学校入学の候補者として登録してくれた。それから入学試験があった。私たちが聞いていたのは、試験後に徴兵名簿へ登録された者は、家に帰って次の召集すなわち41年秋の召集を待つということだった。当時は1年に1度、秋に徴兵が行われていたのだ。つまり、試験に合格できなかった者が家へ戻されたわけだが、私たちは残ることができた。残って学ぶよう言われたよ。だから、私は軍学校の生徒として開戦の報に接したことになる。
私がいたのは第3大隊第3中隊で、中隊長はアレクセーエンコ上級中尉。その他の指揮官の中で、憶えているのはトカノフ小隊長だけだ。この人はカザフ人だった。ちなみにアレクセーエンコはウクライナ人。リヴィウ歩兵学校では、指揮官クラスはほとんど全てウクライナ人だったな。私はごく普通の歩兵中隊で教育を受けることになった。大隊には他にも迫撃砲や機関銃を習っていた者がいたのだが。私は歩兵の小隊長要員として訓練されていた。
ただ、すぐに教育が始まったわけではない。リヴィウ歩兵学校はキーロフへ疎開したからね。まず最初に私たちは西へ送られ、その後再び逆戻りしたのだが、それには大層な時間がかかった。様々な兵器だの人員だのを乗せた列車とすれ違いになったからだ。だから私たちは身動きが取れなくなり、対向列車が通りすぎるまで待つ羽目になった。その次には、キエフ軍管区及びベラルーシ軍管区による演習が行われるので、私たちにあてがわれるべき兵舎が他の部隊のため必要になった、という話がきた。だから、他の地区に移動してはどうかと言われたわけだ。具体的な地区は指定されなかったが、実際に移動してみると、到着したのはコテリニチェスキー地区のヴィシキリだった。最初はテントを張り、それからゼムリャンカ[半地下式の土小屋]を掘った。秋が来て、私たちはこの場にとどまった後、キーロフで教育を受けるよう指示された。キーロフへ連れていかれたのは10月になってからだ。以前は神学校に使っていた建物に板張りのベンチを増設する必要があったからね。本当は9月にそこへ移らなければならなかったのだが、全ての部屋を教室に改造する工事が間に合わず、足止めを食うことになってしまった。私たちは1942年5月2日まで教育を受けた。
最初は諸規定を憶えるところから始まって、それから射撃、歩兵操典などを習った。その後は装甲車両・戦車関連の教育だ。「戦車防御戦」「戦車攻撃戦」といった科目があった。T-34が用意されていて、私たちは学校の敷地内でそれらの戦車を追い回し、あるいは講義を受けた。もっとも、内容としては一般的な理解を得るためのものでしかなかったが。我々は歩兵であって、戦車兵じゃないからね。基礎的な知識の一環として、戦車の隊形についても習ったわけだ。
一方で、スキーの訓練は非常に重視されていた。夜中にいきなり警報が発せられ、スキーを履いての遠距離行軍をやらされたり、とかね。身体的な鍛錬も行った。それから兵器についての学習。マクシム機関銃、デグチャリョフ機関銃、SVT[トカレフ半自動小銃]、対戦車手榴弾、歩兵用手榴弾などなど。本当は2年間の教育をやることになっていたが、私たちは1年で修了した。5月に始め、5月に終わったのだ。その後で6か月間の少尉養成コースがあった。私たちは中尉の階級を与えられてこれを修了したが、予定されていた教育プログラムは完全にこなした。何しろ1日12時間を学習に費やしたのだから。
5月1日、私たちはキーロフの広場で[メーデーの]祝賀祭に参加した。翌2日には任官の命令書が読み上げられ、各自の配属先が発表された。卒業試験も合格したよ。平均して[5段階評価の]4以上の者は中尉に、それ以下であれば少尉になった。私は中尉だった。その同じ日に、小隊長としての給与が支払われた。私たちは受取証を書いたが、同時に全額を公債に充てることになり、そちらの書類にもサインをした。全てのお金はすぐ国防基金の方へ回されるという話だった。―教育の中では何が最も重視されていたと思われますか?
戦術、射撃、それから一番大切だったのが肉体的な鍛錬、耐久力だね。あるいは精神修養。強行軍もやったよ。スキーを履いて、あるいは徒歩で長距離を移動するわけだ。歩きで70キロ、これはソヴィエト街道まで往路35キロ、復路35キロということになる。スキーでも同じような行軍をやった。スキーの訓練はレンガ工場の近く、現在のヘリコプター学校がある辺りや、オクチャーブリスキー大通りにあった野原などで行われた。1周10キロから15キロ程度のコースを何回か回り、あるいは逆回りで走破したのだ。
迫撃砲については概説的な講義だけで、機材の説明も受けたが、実戦での使用を想定した演習には至らなかった。演習場で砲撃の訓練をして、それでおしまいだ。私たちは迫撃砲中隊ではなかったからね。マクシム機関銃、デグチャリョフ機関銃、銃剣つきのSVT、当時配備され始めていた対戦車銃なんかも撃った。訓練射撃をやったわけだ。射撃場がどこにあったかははっきり思い出せないが、学校からそう遠くないところ、レンガ工場側の方だったと思う。―学校でご自身が受けた教育についてはどのように評価されますか?前線での条件に照らし合わせて、充分なものだったと思われますか?
前線で戦うためには、指揮官の実践教育をより重視すべきだったと思う。例えば、私は小隊長としてどこかの部隊で実習を受けられればよかったんだが、そういうことはやっていなかった。この意味ではよく鍛えられていたとは言えない。また指揮を執るのに必要な言語能力も身につけなければならないのだが、時間が足りなかったから、やっぱりおろそかにされていたな。武器の取り扱いの方に重きを置いていたのだ。
私たちの士気について言えば、これは旺盛なものだった。ドイツ軍がモスクワの近くまで迫った時、私たちもそこへ投入される予定だったらしい。半外套だのヴァーレンキ[フェルト製の防寒長靴]だのが運ばれてきた。私たちは完全な戦闘態勢に入っていたわけだ。このような状態になった後で、ある朝整列があり、ドイツ軍はモスクワ郊外で撃破されたという話を聞いた。その後は通常の勤務に戻ったよ。ドイツ軍の無敵神話は打ち砕かれたのだ。その他にも、レニングラード戦線で2番目の勝利が収められたのだが、場所がどこだったかは忘れてしまった。当時ドイツ軍はレニングラードを二重に包囲しようと試み、オクチャーブリスカヤ鉄道路線[モスクワとレニングラードを結ぶ重要路線]を遮断して、ペトロザヴォーツク地区でフィンランド軍と合体しようとしていた。しかし、彼らはこの目標を達成できなかった。私たちの配属先が決まって移動することになった時の話だが、私はこれらの場所に無数の十字架が立っているのを見た。墓地に十字架を立て、これにヘルメットをかぶせるというのがドイツ兵のやり方だった。野原一面がこのような埋葬地と化していたよ。―学校での教育機関中、営外休暇をもらうようなことはありましたか?
滅多にない話で、どうだったか思い出すことさえできない。教育のカリキュラムは非常に濃密なものだったからね。家族が面会に来てくれれば御の字さ。私たちの中隊にはウラジーミル州やイヴァノヴォ州出身の生徒がいたから。キーロフ州の出身者は少数派だった。営外休暇をもらえたとしても、せいぜい3~4時間くらいだった。
―当時の生徒たちは精神的にどのような状態だったと思われますか?皆さんは41年の大損害について知っておられましたか?
知ってはいたが、愛国心の方がこれを上回った。基本的に、どの生徒も「敵は打ち砕かれるであろう、勝利は我らのものである」というスローガンを心に刻みつけていた。
―ドイツ軍がモスクワのすぐ近くまで攻め寄せてきた時、モスクワについて思いをはせるようなことはありませんでしたか?
何となくだが、敵は街には入れないだろう、モスクワの前面で敗北するだろう、と考えていた。寒さの厳しい冬で、私たちは何度も映画を見せられたものだが、ドイツ軍はこの冬を非常に恐れており、住民からいろんな衣料を奪っては何でもかでも体に巻きつけていたな。彼らの怯えた様子が映画に記録されていたのだ。41年から42年にかけての冬は非常に厳しかった。私たちの中にも、スキーの訓練の際にわずかながら凍傷をやった者がいる。このようなことができるだけ起きないよう、あらゆる対策が取られていた。
―学校ではどのような被服が支給されていましたか?
外套と、暖かい下着と、ヴァーレンキだ。もっともヴァーレンキは特に寒い日だけで、命令により履くことになっていた。それ以外は厚布製の長靴に毛皮の靴下だね。言うまでもなくポルチャンキ[足に巻きつける細長い布]もあって、これは[靴下の]上から巻いていた。地区の毛皮工場が学校の後援者で、暖かい衣服の調達を助けてくれたよ。
(11.08.01)
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