ミハイル・フォメンコ3
―マクシム重機関銃を運ぶ際、どの部分が一番重かったでしょうか?
銃架ですね。確か、32キロはあったと思います。
―戦争中に使われていた弾帯は、布製と金属製のどちらでしたか?
布製だけです。弾帯は少しでも弾が突き出ていると弾詰まりを起こす危険性があったので、使用前には必ず調べておかなければなりません。これはみんなの共同作業で、私も装填手も一緒になってチェックしました。もっとも、マクシムが弾を詰まらせるケースは稀でしたね。ただ、弾帯が濡れている時には噛んでしまうこともあったのですが。
―冷却水は頻繁に換える必要があったのでしょうか?
私たちはグリセリンを利用することはなく、水だけを使っていました。水は射撃の量に応じて交換する必要があり、たくさん撃つと銃身が過熱してしまうから、すぐに換えなくてはなりませんでした。
―機関銃の射撃陣地は誰が選定していたのですか?
歩兵の指揮官が場所を指示し、具体的な射撃範囲については私たちの小隊長が決めていました。マクシムの防盾は、破片や敵弾から身を守るのには役に立ちましたね。通常、機関銃を偽装するのには木の枝を使っていましたが、迷彩塗装を施したことは一度もありませんし、偽装用のネットも支給されてはいません。
―機関銃陣地はいくつ作るものなのでしょうか?
必ず3つ作ることになっていました。主要陣地、予備陣地、それに偽装陣地です。まずは偽装陣地から一撃を加え、それから主要陣地に移ると、敵は偽装陣地の方を狙って大砲や迫撃砲を撃ちかけてくるわけです。その後、主要陣地が発見されてしまうと、今度は予備陣地へ移動して戦いを続けました。たくさんの陣地を掘らなければなりませんでしたが、機関銃隊の者たちが不平を言うようなことはなく、いつでもスムーズに作業を進めていましたよ。
―個人装備の武器はありましたか?
PPSh短機関銃です。実際に撃ったこともありますが、あまり実用的な武器とは言えず、砂に弱くて、少しでも銃身に入るとすぐに詰まってしまいました。
―軍の中では、党やスターリンはどのような存在として受け止められていましたか?
私たちは「祖国のために!スターリンのために!」と叫んで突撃していましたね。
―ドイツ人捕虜の扱いはどうでしたか?
私たちのところでは人道的に取り扱われていましたよ。
―東プロイセンに駐留していた頃、故郷に[戦利品の]小包を送ることはありましたか?
はい、そんな経験もありました。私は布地を1巻きと、石鹸と、他にも何か送ったように記憶しています。ただ、お金を支給されたことはありません。
―前線で最も恐ろしいと感じたのは何ですか?
私は爆撃を恐れていましたが、他には怖いものはありませんでした。迫撃砲も大砲も大したことはありません。しかし飛行機だけは嫌でしたね。
―入浴や散髪はどのようにされていたのでしょうか?
入浴日はありましたし、シラミに悩まされた記憶はありません。場所については、選べるようなものではないですね。冬に防御戦を続けていた時も、どうにかして風呂を設営できる場所を見つけ、小隊単位で入浴していました。
―携帯食は支給されましたか?
はい。携帯食の中には乾パンと、アメリカ製か国産かどちらかの缶詰が入っていましたが、アメリカ製の方が上だったことは確かです。アメリカの缶詰は肉が多くて味もよく、一方の国産品は脂ばかり多くて味がありませんでした。食事は定期的に支給され、キビ粥や、ジャガイモとキャベツ入りのシシー[葉汁]なんかが塹壕に運ばれてきました。前線では食べる物は充分ありましたし、攻勢の時には戦利品も手に入ったわけですから。
―友軍の戦死者はどうやって埋葬されましたか?
基本的には埋葬班の仕事で、私たちはあまり注意して見ていません。―あなたの部隊に女性は所属していましたか?
いや、私たちのところにはいませんでした。
―ヴラーソフ軍[投降した元ソ連軍の将兵により編成されたドイツ軍部隊]の兵士と会ったことはありますか?
彼らのうちの1人を護送した経験さえあります。彼は道中ずっと、見逃してくれないかと頼んでいましたっけ。自分も私と同じような兵隊で、ただ偶然の結果としてこうなったにすぎない、自分たちは悪くない、とか何とか言うわけです。それでも私は構うことなく、その捕虜をしかるべき場所まで送り届けましたけどね。
―政治担当副隊長との関係はいかがでしたか?
私たちはいつも、政治担当副隊長とは良好な関係を築いていましたが、一方で特務機関員は嫌われていました。もっとも、特務の連中と衝突するような事件も起きませんでしたが。
―あなたの叙勲歴を教えていただけないでしょうか?
「ケーニヒスベルク占領」「対ドイツ勝利」「対日本勝利」の3つのメダルを授かりました。それからもう1つ、ケーニヒスベルクで敵の防御拠点を突撃で落としたことにより、「勇敢」メダルももらっています。
除隊になってから、私は故郷の村に戻り、母をみとった後、すぐにウラル地方のペルミ州ベレズニキ市へ移りました。さらにその後は色々な事情がありまして、リヴィウ州のチェルヴォノグラード市、それから1972年以降はクリミアに移り住みました。勤め先は化学系の企業で、ソーダだとか二酸化チタンだとか臭素だとかを扱う工場で働きました。
(了)
(11.04.21)
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