ミハイル・フォメンコ2


 私は機関銃手、それもマクシム重機関銃の1番銃手に任じられ、第3ベラルーシ戦線所属の第5軍第97師団第233歩兵連隊で重機関銃中隊へ配属されることになりました。間もなく私たちの部隊はヴィテプスク方面への攻勢を開始し、ドイツ軍の防御線の突破に成功したのですが、しばらくすると逆に包囲されてしまい、その後で私たちを囲んでいるドイツ軍部隊が、今度は友軍によって包囲されました。つまり、敵も味方も包囲環の中にいる、という事態が生じたのですね。包囲の中で私たちは防御態勢に入り、ドイツ軍の反撃を撃退し、膨大な量の壕を掘らなければなりませんでした。私にとって最初となる戦いの中で最も恐ろしかったのは、まさにこの包囲というやつでした。こちらは敵に向かって撃つ、すると彼らは四方八方から撃ち返してきて、どこに友軍がいるのか、敵はどこなのかが全く分からず、あらゆる方向から弾が飛んできました。しばらくするとこうした状況にも慣れてきて、撃ち合いが気にならなくなったどころか、逆に辺りが静まると不安を感じさえしたものです。この静けさは何だろう、ドイツ軍は何を企んでいるんだろう、というわけですね。最終的に部隊はドイツ軍の包囲環を突破し、攻勢に移ると、すぐにポーランド国境を越えましたが、それほど長い距離を進撃することはなく、ルジャンからほど近い場所で再び長期の防御戦を経験しました。私たちが受け持った戦区は、ベラルーシほど厳しい戦場ではありませんでした。ただしやることはたくさんあり、立って移動できるほどの塹壕を掘り、さらにそれぞれの機関銃が受け持つ地下壕を作らされました。何よりも記憶に残っているのは厳しい寒さで、日中は雨が降り、夜にはそれが凍りついてしまいました。敵に気づかれてはならないので、歩哨に立つ者は身動きすらできません。雨が降り始め、その後でものすごく冷え込み、ようやく交代が来たので立ち上がると、外套はバリバリと今にも割れそうな音を立てます。地下壕に入って外套を脱いでも、壁に掛けることができず、まるでそれ自体が生きた兵隊のように床へ立つほどでした。
 その後、我が軍は攻勢を開始し、東プロイセン方面へ進撃しました。ドイツ軍は頑強に抵抗しましたが、小都市では基本的に街の入り口で戦うことが多く、激しい市街戦というのはありませんでした。また、ドイツ人は軍人も民間人も1人残らず撤退していきました。最初の村に入った時はですね、これは驚きましたよ。私たちが見たこともないような、測りひもで測ったような家ばかりで、理想的と言ってもいいくらい真っ直ぐ壁がそろい、屋根は赤い瓦で葺いてあります。あれは本当に美しかった。地下室には食糧品がたくさんありましたが、手を出すことは禁じられていましたし、私たち自身もこれを恐れていました。というのも、ドイツ軍は撤退に際してしばしば食糧品の一部に毒を盛るのだと聞いていたからで、どれを食べていいのか、何を食べたら駄目なのかなんて、私たちに分かるわけもないでしょう?!最終的に私たちはケーニヒスベルク攻撃へ参加することになり、先頭の部隊が要塞を強襲で落とした段階で街へ入りました。あの時は猛烈な砲撃と航空隊の爆撃とが大きな助けになりましたね。私たちはすでに街の郊外を自由に歩くことができ、家々の接収を始めました。住民はほとんどおりませんので、兵士たちは家に住み着くような形となりました。敵によって防御の拠点に改造された家屋は奪取するのに骨が折れましたが、それでも私たちは速攻で片付けていきました。戦いが終わる頃には、私たちが近づいてくる音を聞きつけるだけでドイツ兵が隠れている場所から出て来、「ヒトラーはカプト[一巻の終わり、おしまいの意]だ!」なんて叫ぶことが多かったから、楽にはなりましたね。周辺地区を全て占拠した時、ドイツ兵の捕虜を集めてグループに分け、司令部に送るという任務があったのですが、あれは大変な作業であったと記憶しています。ケーニヒスベルクを落とした後、私たちは行軍のための再編成を受け、人員は自動車や戦車を含む兵器と共に汽車へ乗り込んで、極東方面へと送られました。
 ベルリンが陥落した1945年5月2日、私たちの汽車はちょうどモスクワに来ていたので、皆で隊長に頼んで街を見学させてもらうことになりました。小隊全員で外出し、赤の広場の近くまで来た時、大砲の音を耳にしました。砲兵隊が祝砲を撃っていたのですが、私たちは何が何だか分からないでいると、子供たちが辺りを走り回ってはこう叫ぶのです。
「軍人のおじちゃんたち、ベルリンが落ちたんだよ!」
 つまり、私はあの記念すべき日をモスクワで祝うめぐり合わせとなったわけで、本当に大きな喜びを味わいました。その後はまた東に向かって出発です。私たちは先を急がされ、9日にはもうイルクーツクに着き、汽車はここで停まって、1時間ほど街を歩いてもいいということになりました。ところが外へ出るや否やすぐにたくさんの人が、とりわけ女性たちが集まってきて、私たちを自分の家へ呼んではご馳走してくれました。結局多くの者が時間通りに戻れなかったので、汽車の出発も数時間遅れたことを憶えています。イルクーツクは私たちを大歓迎してくれたわけです。

 満州国境に到着すると、私たちは戦争中ここに駐留していた部隊と交代させられました。それは旧式の国境警備隊でした。どの兵士も、カーキ色の軍服の下に、緑色に塗られた兵隊用の暖かい下着を着けていましたね。当時は全てが前線中心に回っており、一方の彼らは単なる国境警備隊でしたから、被服の補充がなくとも不思議はありません[意味の取りづらい箇所だが、「緑の下着」は古い被服の代名詞と思われる]。ここでは皆ラポチ[白樺の樹皮を編んで作る伝統的な履き物。わらじ]を履いて歩いていましたが、これを作るために特別な班までが編制されていたという話でした。8月9日、私たちは同じ第5軍所属のまま、第1極東戦線の下で攻勢を開始し、チーリン方面へ進撃しました。もちろん日本軍も抵抗したものの、戦いはそれほど規模の大きなものではなく、私たちはすぐに国境を越えることができました。日本人はドイツ人ほど手強い兵士ではありませんでしたが、その代わり執念深いところがあり、私たちが関東軍を撃破すると、日本兵は丘陵部へ逃れてソ連軍を待ち受け、撃ってきました。戦争が終わると、私はその当時日本にいたニコライ・ドミトリエヴィチ・ザフヴァタエフ大将の護衛兵に任じられました。その後、部隊は農村へ送られて刈り入れの手伝いをやることになり、私も畑で働きましたが、そこで古傷が開いてしまったのです。腹部と腕に負傷していたものですから。スパス・ダーリニーの病院に送られ、手術を受けました。1947年に退院した後、健康状態により軍務を続けることは不可能と判定され、そのまま除隊の運びとなりました。ちなみに最終階級は軍曹でした。

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(11.04.21)

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