ミハイル・フォメンコ1


 私は1926年8月22日、アルタイ地方バーエヴォ地区パヴロフスキー村ソヴィエトのノーヴイ・イズライリ集落で生まれました。アルタイにしては珍しい名前の集落[「ノーヴイ・イズライリ」とは「新イスラエル」の意である]だと思いますよね?理由は簡単、かつてユダヤ人たちの集団がここに移住地を作ろうとしていただけの話で、私らのところにはたくさんのユダヤ人がいました。もっとも、今では移住地はなくなってしまいましたけどね。私の両親は貧しい農民で、集団化の時にコルホーズへ入りました。状況のしからしめるところというやつですが、私は10年生の学校さえ終えることができませんでした。当時はですね、たいそう生活が苦しくて、着るものも履くものも何にもなかったですよ。今でもよく憶えていますが、30年代にはひどい飢饉に見舞われて、コルホーズの家畜が死んでしまいました。村中、炭疽が猛威を振るっているという噂でもちきりです。雄牛だの雌牛だのの死骸は穴の中に投げ込み、上から灯油やディーゼル油を降り注いで、それから埋めてしまいました。しかし夜更けになると、年寄り連中や母親が村の家畜の埋葬所に集まり、死体を掘り返してはディーゼル油の臭いのするやつを何切れか切り取って、18時間から20時間も煮込んだのです。この肉のおかげで私たちは生き延びることができました。とにかくあれは大変な時代でした。これも私の記憶に残っている出来事ですが、まだほんの子供の頃、村を歩いていると、年取った女の人が横たわっているのが見えました。私は母に尋ねましたよ。
「あのお婆さん、どうして寝てるの?」
 母は答えました。
「坊や、あの人はね、多分もう死んでいるのよ」
 横を通りすぎる時に見てみると、その人は行き倒れに倒れて、そのまま死んでしまったようでした。

 村ではラジオで開戦が知らされましたが、しかし私は戦争というのがどんなものだか全くイメージできず、大人たちが話している内容も理解できませんでした。例えば、それ以前に見た映画「チャパーエフ」なんかは大好きで、何度も行けるだけ映画館に通ったものです。村には特別にフィルムが運んでこられたのですが、電気がなかったもので、私たち子供のうちの誰かが手回し式の発電機を操って、それで電流を起こしました。それでも、映画をただで見るという役得があったから、皆この係になりたがったものです。ともあれ、私は「チャパーエフ」と、それから「我らはクロンシタットより」「戦艦ポチョムキン」といった映画が好きでしたが、私が持つ戦争のイメージはみんなこれらの作品から得られたものでした。1941年6月22日のすぐ後に、村では動員が始まりました。父はもう50をすぎていたからその対象にはなりませんでしたが、長兄フィリップが兵隊に取られ、次兄ニコライは海軍に入りました。そして1943年になると、年老いた父までもが召集を受けました。その間、私はコルホーズで働きました。食糧事情は悪く、いつも空腹でした。収穫した物は全て地区の中心に供出するのですが、車なんかはなかったから、私たちは荷車に袋を載せ、自分たちで作物を運んでいきました。

 1943年11月、私は志願して前線へ送られることになりました。あの時の状況は面白かったですね。ある日、私たちは地区から呼び出され、すぐに整列させられましたが、まるで連隊だの中隊だのといったような分け方なのです。で、国際情勢についての説明があり、これこれのわけで戦争が続いている、厳しい状況だ、赤軍に志願する者は3歩前に出よ、とこういうわけです。私はもちろん進み出たし、皆もほとんどがそうしたのですが、中には動かない者もいました。すると、説明係の士官が吠え立てます。
「何だ貴様ら、祖国を守ろうとは思わんのか?」
 これじゃどうしようもない、進み出なかった連中も結局は引っ張り出されることになりました。つまり、そこにいた者はみんな兵隊に取られたのです。身体検査を受けた後、私は第128予備歩兵連隊に配属ということになりましたが、これはクラスノヤルスク地方のアチスク市に駐屯していた部隊でした。訓練は戦術教習が中心で、同時に私たちは自分で暖房用の燃料を調達せねばならず、木を切り、しかも食事ときたら規定に反する粗末なものしか与えられない。訓練は厳しかったし、その上に薪割りをやらされ、加えて被服もひどいものでしたね。毛皮の半外套なんてものは影も形もなく、みんな兵隊用のコートを着た切り雀。今にして思えば、何らかの妨害工作が行われていたのではないか、というほどひどい扱いでしたよ。例えば、夕飯にはニシン[の塩漬け?]が1人あて1匹ずつ出て、それを食べるわけですが、水が飲みたくても容器は1個小隊に1つしかない。ご存知の通り、ニシンなんか食べると、その程度の水はあっという間に飲み干してしまいます。で、渇きをいやすためには外へ出て雪を食べるしかありませんでした。そういったわけで、劣悪な食糧事情の上、さらに病気までもが広まる有様でした。
 その後、どういうわけだか分かりませんが、上層部の誰かが私たちを別の宿営地へ移すという決定を下し、武器庫も新しく作ることになりました。用材の伐採は6キロから8キロ離れたところで行われ、私たちは丸太運びのためにそこへ送られました。ちょっと考えてみてもほしいのですが、切り出された丸太を6~8キロも運搬しなければならないわけです。まずは鉄道の線路まで行き、そこからはレール沿いに駅まで運んでいきました。本当に厳しい仕事で、6キロから8キロは丸太を運ばねばならず、私の戦友ピョートル・グチェンコもこのせいで死んだのです。彼は立派な体をしていましたが、食糧事情は悪く、私のような痩せっぽちには何とか足りていたものの、彼は常に腹を減らし、すっかり痩せ衰えてしまっていました。丸太を運ぶのはとても大変で、1人がより重い根本の方を持ち、もう1人は先端の方に回って、後で場所を交換するというやり方でした。そうやって線路のところまで来たものの、完全に力が尽きてしまい、しかもそこからは枕木の上を歩かなければならない。で、私たちは何とか楽をしようと考え、ベルトを外して丸太の先っぽに結びつけると、枕木の上を引きずって歩くことにしました。ところが、私たちの工夫は指揮官の1人に見つかり、すぐに止めさせられてしまったのです。で、ベルトを再び締め、丸太の根本と先端を担いで持ち帰る羽目になりました。目的地まであとわずかのところまで来た時、ピョートルはたまたま丸太の重い方を持っていたのですが、遂にこらえられなくなって倒れ、その背中に丸太がぶつかりました。口から血を吐くほどの衝撃でした。彼はすぐに病院へ運ばれましたが、そこで息を引き取りました。つまり、戦場へ行くことさえもできずに死んだのです。

 訓練が終わりに近づく頃には、多くの新兵がひどく体を悪くし、夜尿症までもが流行るほどでしたが、全ては若い新兵に対する思いやりが欠如していたから起きたことなのです。とりわけ、1944年5月に汽車へ乗り込むよう命令された時、私たちはこのことを痛感しました。あの頃はですね、みんな前線送りを喜んだものですよ。というのも、前線に行けば実戦部隊の一員に数えられるわけで、そうなれば食事も第1種が支給されることになり、1キロのパンや砂糖、バター、缶詰その他が口に入るはずなのです! ところが、前線へ移動する途中で支給される食糧は、予備連隊の頃と何も変わらなかった。すでに汽車に乗ってからの話ですが、私たちより頭の回る数人の兵隊が、食糧はピンはねされているらしい、という噂を流し始めました。それで、隊内が騒然とし始めましたので、付き添いの将校たちも譲歩し、1昼夜に1度だけ食糧補給所で停車することになりました。そこではあらかじめ、列車のために食事を用意していました。列車が止まると、私たちは列を組んで食堂へと向かいます。そしてある時、1つのグループが食堂に入り、昼食をすませ、その後で2番目のグループがやって来たのですが、1人の兵隊が食べ足りないと感じ、第2グループに並び直して、もう一度食事をもらうということがありました。付き添いの将校がこれに気づき、彼を列から引っ張り出そうとしたところ、兵隊は反抗し、俺は飯を食いたいのだ、と言い張りました。
 そこで大騒動の始まりです。将校は兵隊の耳に一発喰らわすと、相手も黙ってはおらず、将校を殴りつけるという有様。すると兵士たちが怒り出してしまい、俺たちを殴るばかりで飯も食わせないのだ、と騒ぎ立てました。事態は収まりがつかなくなって、将校に手を出す者も出始めたので、彼はピストルを取り出して何発か撃ち、2人を負傷させたのです。即座に特務機関の職員が飛んできて、何が起きたのか調査を始めました。列車全体がそこでストップということになったのですが、何とも驚いたことに、付き添いの将校たちは食糧を運ぶ貨車を丸ごと着服していたのですよ。実は、砂糖だの缶詰だので一杯になった貨車が私たちの列車の中に含まれていて、チョコレートまでもが積んであったのです!すぐに全兵士が集まっての集会が開かれ、それから食糧事情は改善されました。私たちも落ち着きを取り戻し、再び全員で列車に乗り込んで、大規模な攻勢作戦が予定されていたベラルーシへと向かいました。ヴィテプスクも近くなった頃、ある地区で列車が大渋滞となったので、私たちは降車して整列するよう命じられ、テントを張りました。それから、私腹を肥やしていた将校たちに対する裁判があり、彼らは銃殺刑を宣告されたのです。一昼夜ほどをそこですごしましたが、その間に小隊や中隊の編成があり、補充兵も様々な部隊に配属され、兵士たちはあの貨車に積んであった食糧を全て分配してもらいました。この出来事の後、私たちは戦ってでも正しい規則を勝ち取らなければならない、と固く心に誓ったものです。

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(11.04.21)

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