セミョーン・アルブル5


―国外に出てから、特に印象に残ったことはありますか?

 正直なところ、驚くに値するようなものは何ひとつありませんでした。強いて言えば、シュレジエンの工業地帯の迫力くらいですかね。道路ですか?いや、私たちは基本的に道のないところを行軍していましたから、立派な道路は見ていないのです。家もまた基本的には壊れたものばかりで、羨みの念を起させるようなことはなく、それどころか愛国心を高揚させたくらいで、みんな我が国の方が上だと思っていました。

―軍司令官P.S.ルィバルコと会う機会はありましたか?兵士たちからの評判はどうでしたか?

 ルィバルコは何度か見たことがあります。みんなからの評判はよかったですよ。それから、ドイツ軍が我が第3親衛戦車軍についてこんな風に言っているのも知っていました。
「ボリシェヴィキは悪党だが、ルィバルコの軍は3倍もの悪党だ」

―前線では、親友と呼べるような人はいましたか?

 一番仲がよかったのはアナトーリー・ペレペリツァ中尉でした。彼は中隊のコムソオルグ[コムソモール組織員]で、最初は私をコムソモール員と見込んだので近づきになりたいと思ったのでしょうが、だんだんと親しくなりました。私たちはよく話しましたし、時にはかなりあけっぴろげな打ち明け話もしたものです。
 1月の半ば頃、ポーランドでニダ川を渡河したのですが、その対岸にはアルコール精製工場がありました。私たちは工場を奪取し、特配として100グラムずつの酒をもらいました。ペレペリツァ中尉は飲んだ席で、自分はヴォロネジの孤児院出身であり、誰も身寄りがいないのだと打ち明けました。で、何か予感のようなものがあったのでしょうか、こんなことを言ったのです。
「何が起きるか分からん、俺だって死んでしまうかもしれないんだ。だが、誰でもいいから俺のことを少しでも思い出してくれる人がいるなら、こんな異国の地に果てたとしても、まだ救いがあるような気がする」
 その後しばらくして、彼は狙撃兵の銃弾に倒れたのです…戦死の瞬間は見ていませんが、私は彼の埋葬に立ち会うことになりました…
 戦後もずっと彼は、また彼の言葉は、私の記憶の中に生き続けました…ソ連の退役軍人協会の代表団として、2度ドイツを訪れる機会があったので、トーリャ[アナトーリーの愛称]の墓を探したのですが、結局見つけられずじまいでした…彼の墓に捧げようと持ってきた故郷の土の一つかみは、トレプトウ公園[ベルリン市内の公園、戦死したソ連兵のモニュメントがある]にまくしかありませんでした…

―親族で戦争に行った人はいますか?

 アレクセイ兄については、あなた方のサイトに詳しいインタビューが載せられている通りです。それから私たちの父は、戦争中はずっと御者として軍務に就いていて、負傷はしたものの生きて帰ってきました。
 一方セルゲイ兄は、私と別れた後、最初は同じチモフェーエフカ村の近くで暮らし、その後で家に帰りました。ただ残念ながら、詳しくお話しすることはできません。私自身よく知らないのです。唯一分かっているのは、兄は初めのうちは逃げ隠れせず、おおっぴらに生活を続けていて、前線が近づいてきた時に初めて身を隠したらしいということだけです。44年4月だったと思いますが、私たちの村が解放されると、兄は文字通り2日後に徴兵され、何らの訓練も受けることなく前線へ送られました。そこで重傷を負い、1960年ごろに傷がもとで亡くなったのです…
 それから私たちのおじも戦いました。一緒に脱走した、あのおじさんです。

―ちなみに、その方との関係はどうだったのでしょうか?脱走した当時、おじさんたちに見捨てられたという思いはありませんでしたか?

 おじとの仲は良好なままでしたよ。あの時、私たちが取った行動は、結果的には正しいものだったと思っています。あそこで4人のグループのまま残っていたら、逃げおおせることは難しかったはずです。

―戦後の生活はいかがでしたでしょうか?

 私の入院生活は2年ほど続きました。傷の治りは遅く、ガス壊疽までやってしまい、長い間生きるか死ぬかの瀬戸際でした…だけど、私は生きたかった、家に帰りたいと願っていました…私たちはチェンストホヴァの街を少し散策することがありましたが、すぐ近くを祖国へ通じる鉄道が走っていると知ると、まるで家へ引き寄せられるようにそこへ行き、ただただ鉄道を眺め続けました…しかし、それからすぐに、私はハリコフの病院へ移ることになりました。
 病院はカール・マルクス通り沿い、サーカスの近くにあった第36学校の5階建ての建物の中に置かれていました。ハリコフは手ひどく破壊されていて、どこへも行くところがなかったので、みんな専らサーカスに通っていました。私たちは無料で入れてもらえましたしね。ここで一生分のサーカスは見たような気がします。
 それで、このことは言っておく必要があるかと思うのですが、当時は傷痍軍人に対しては大きな注意が払われていました。医師も看護婦も私たちをよく治療し、大切にしてくればかりではありません。あの厳しい時代の中で、指導者の地位にあった人々は、どうやって傷痍軍人に職を与えるか、また彼らが家に戻ってから無為にすごすことなく、仕事をし、平和な生活の中で自分の居場所を見つけられるようにするため、どのように彼らの能力の開花を手助けできるか、真剣に考えてくれていました。
 私たちの病院の中には、「アナンチェンコ記念学校」と名づけられた傷痍軍人のための学校がありました。アナンチェンコというのは確か、当時のウクライナの社会保障相だったと思います。この学校では、まず私の適性について調べた後、故郷のコルホーズで会計士として働くため、その方面の教育を受けてはどうかと助言してくれました。私は会計の教育コースを終えたのですが、私たちのコルホーズは小さかったから将来性はなく、教育も不十分であるように思われたので、工業関連の会計を学ぼうと決め、街にある計算・計画関連の学校へ通い始めました。
 そうした成り行きで、私は2か所で食糧の配給を受けていました。病院と、それから学校でも学生としての規定量をもらっていたのです。ただ、私は学生分の配給を、ほとんど全て会計の先生にあげてしまいました。アナーニー・ヴァシーリエヴィチと呼ばれていましたが、名字は憶えていません。とても善良な、年を取った先生で、髭を生やしていました。家族を養うため、自分自身は飢えて体がむくむくらいになっていましたね…私は先生が飢えと貧しさに苦しんでいるのを見るに忍びず、自分の食べ物を譲ろうと決めたのです…
 1947年の春に退院すると、初めのうちは家には帰るまいと思っていました。母の迷惑にはなりたくなかった…でも、やはり故郷を思う気持ちの方が強かったのですね…ハリコフから貨物列車に便乗させてもらい、まる一日汽車に揺られ、その後は泥道に松葉杖をとられながら40キロの道のりをよろよろと歩き通しました…
 けれども、工場なんてものは私たちの村ばかりでなく、地区全体の中を通して見ても存在しませんでした。それで、私は工業協同組合の会計としてはたくことにしました。同時に勉強を続けたいとも思ったのですが、中等教育すら完全には受けていなかったもので、大学には入れてもらえません。
 ですから、私は仕事をするかたわら夜間学校に通い、その後でオデッサ金融・経済大学の通信講座で学びました。学校は私の在学中に「国民経済大学」と改称し、今では「経済アカデミー」と名を改めています。学生の中には前線帰りの元兵士たちもいましたが、お金を借りたり貸したりということにはとんと疎い人たちばかりでしたから、私は彼らの勉強を見てやっていましたよ。
 大学を終えるとシリャエヴォに戻りましたが、私は会計士の職をもらう代わりに、ちょうどその時建設されていたレンガ・瓦材工場の責任者となるように言われました。工場の立ち上げは成功し、地区でも一番の成績を収めました。指導部は私がきちんとした仕事のできる人間だと評価したのでしょう、次にアナニエヴォで同じような工場の建設を担当するよう言いつかったのですが、私はそこでも上手く与えられた職務を遂行しました。で、今度はオデッサのセメント工場建設を手伝いにやらされました。私はこの仕事もやり遂げ、今でもあの工場では私のことを憶えてくれていますよ。
 年金生活に入ったのは1990年になってからで、最後に務めていた役職はキシニョウ道路建設管理局の労働組合合同委員長でした。
 結婚したのは2回。2人の子供と4人の孫、それにひ孫に恵まれています。

―戦争のことを思い出す時には、どのような出来事が最初に頭の中へよみがえってきますか?

 戦争の思い出は、いつでも恐怖と共によみがえってきます…アナトーリー・ペレペリツァのこと、負傷した時のこと…そして時には、戦場で斃れた人々が羨ましいような、そんな気分になることもありますね…

(了)

(11.04.11)

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