セミョーン・アルブル2


―あなたはユダヤ人と間違われそうになったことがあるそうですが、そのエピソードについてお話しいただけないでしょうか。

 ある時ルーマニア人たちは、いくつかの地区で70頭ほどの雌牛を集め、オデッサ経由で輸送するという計画を立てました。そして私は、友人や他の人々と一緒に、牧童として徴集されたのです。私たちは村を出発して25キロほど歩き、野営しました。何とか落ち着き、食べ物を持っていた者はそれを食べたのですが、そこへ護送のルーマニア兵の1人が近寄ってきました。私は生まれつき髪の毛が黒く濃かったもので、ルーマニア兵に注目されてしまい、何やらルーマニア語で質問されました。分かったのは「トゥー・ユーデ?」というフレーズだけです。私は考えに考え、でも何を聞かれているかさっぱり分からなかったのですが、返事だけはしておこうと思い、「うん」と言ってしまったのです。ルーマニア人はすぐに銃をつかみ、遊底をガチャガチャやり始めました。しかし幸いにも、仲間のジョーラ・モルチャノフがすぐ近くで私たちのやり取りを聞き、また見てもいたので、急いで駆け寄ってきてルーマニア人に叫びました。
「ユーデ、ユーデとボリシェヴィクがいるのはあっちじゃないか」
 そして、東の方角に手を振って指し示しました…もう1人のルーマニア人が傍へ来て、彼らは何事か相談を始め、結局私からは離れていきました…こうして、ジョーラことゲオルギー・ステパノヴィチは私の命を救ってくれ、今でも私と同じように生きています。

―あなたの村にはユダヤ人は住んでいましたか?

 私たちのところにはいませんでしたが、地区の中心の町であるシリャエヴォにはたくさんいました。もしも私の記憶に間違いがなければ、占領が始まった最初の月に、彼ら全員ともう何人かのソヴィエトの活動家が集められ、深い谷のうちの1つへ連れていかれて、そこでみんな射殺されました…ドイツ人とルーマニア人が一緒にやったのです。戦後、集団墓地となったこの場所には、慰霊碑が建てられました。

―占領中の話ですが、戦局については知っていましたか?皆さんの手許にニュースが届くことはあったのでしょうか?

 知っていました。色々な噂が私たちの耳に届きましたし、ごくたまにですがビラがまかれることさえありました。もっとも、それを持っているところを見つけられたら、ルーマニア人に処刑されてしまう危険があったのですが…そういうわけで、特に重要なニュースは押さえていました。ウクライナ全土に強制収容所のネットワークができあがったことだって知っていましたよ。ヴィンニツァとポルタヴァに大きな収容所が作られたことも。
 こうした占領軍のやり方に対し、私たちは言うまでもなく怒りを感じていました。何とか復讐したかった…

―お父さんやお兄さんについて、何らかの情報はありましたか?

 誰から聞くんです?父と兄については何一つ分からないままでした。ただ、包囲から逃れてきた兵隊の群れが何度か私たちの村へやって来たことがあり、しかもこれこれの村でヴァシーリー・アルブルの帰りを待ちわびていると知ったのでしょう、親切にしてもらい、食べ物を恵んでもらいたかったのだと思いますが、私たちのところへ来て「彼とはしばらく前に会った、すぐに戻るはずだ、待っているといい」などと言いました。あの人たちは大人しくしていましたし、盗みを働くようなこともありませんでしたが、意識して私たちを騙したのは確かですね。
 そうした包囲脱出者の1人、ベラルーシ人で名をゼレネフスキーといった人がいましたが、彼はそのまま村にとどまり、戦後もずっと住みつくことになりました。

―パルチザンや占領地の地下活動家のことは何か聞いていましたか?

 パルチザンの存在は知っていたし、それどころか色々な話を聞きましたよ…彼らはベラルーシやウクライナで活動していた、ということをね。また、ドイツ軍はパルチザンを非常に残酷なやり方で討伐していると聞かされました。見つけ次第に殲滅し、吊るしていたのだそうです。それから私たちは、抵抗運動の参加者がみんなドイツ軍によって容赦のない制裁を受けていたことも知っていました…
 私自身、こんな経験があります。占領が始まったばかりの頃、私とジョーラ・モルチャノフともう1人の仲間、みんなまだ未成年でしたが、自分たちでパルチザン部隊を編成しようと決心しました。赤軍の兵士が捨てた銃2挺とその銃弾を隠し持ち、村外れのチョバノヴァ窪地にある大豆とひまわりの畑へ集まると、射撃の練習を始めたんです。もう夕方の5時か6時になっていましたが、いきなりドイツの飛行機が現れ、轟音と共に頭上を飛んでいくのが見えました。で、すでにその飛行機が飛びすぎようとした時、いきなりジョーラが言い出しました。
「追い撃ちでやっつけられるか、試してみようじゃないか?」
 そして何発かお見舞いしたわけです…すると敵機は急に向きを変え、こちらを目がけて飛んできました…私たちは慌てふためき、銃を大豆畑の中に隠しましたよ。飛行機は何度か頭上を行き来した後、目的地に向かって飛び去りました…
 けれども、私のいた村は小さかったから、みんなお互いのことをよく知っていましたし、あるいは私たちの中の誰かがしゃべったのかもしれない。というのも、次にその同じ場所へ集まった時、思いがけなく地元の住民の中でポリツァイ[ドイツ軍の占領地区で、住民の中から任命された警官のこと]の助手を務めていた者が現れたのです。私たちはやっぱり3人で、同じように銃を持っていましたが、いきなりそいつがやって来て、こちらに突進してきました…それから鞭で私たちの背中を殴り始めました。武器といったらその鞭1本でしたが、こちらは彼を撃とうだなんて考えもつきませんでしたよ…銃は取り上げられてしまい、私たちは走って逃げたものの、村に帰るのは怖かった…しばらく待って、おっかなびっくりで家に戻りました。ところがですね、この話はこれでおしまいなんですよ。多分、彼は誰にも明かさなかったか、あるいはどういう事情だったのか分かりませんが、とにかくその後は何も起きていません。もしかしたら、彼は私たちの命を救ってくれたのかもしれないな…ちなみに、私たちを鞭打ったあの若者は、それからどこかへ行ってしまい、戦後に彼の姿を見ることはありませんでした。

―あなたは強制労働のためドイツへ連行される可能性はなかったのですか?

 可能性どころか、私たち兄弟は実際に連行されたのですよ。それは長く、苦しい体験でした…
 私たちの村では、自発的にドイツへ働きに行った者はおらず、みんな強制的に連行されたのです。連れに来た連中に銃を突きつけられたら、どうしようもないでしょう?…隣村では、連行集団から脱走を試みた若者がいましたが、捕まって射殺されたと聞いています…
 人集めのやり方は、おおよそ次の通りでした。労働のために駆り出された人々の集団が地区を通過する際、周囲の村々からも数人ずつが連れて来られ、この中に加わっていくのです。こうした連行集団は、年に3回か4回くらい編成されていました。ただ、私たちは彼らがどこへ行かされるのか、はっきりとは知りませんでした。本当に働かされてもいたのだろうけど、もしかしたら収容所送りになったり、銃殺されてしまった人々もいたかもしれない…だから、連行集団がやって来る時は、隣村からあらかじめ情報が流れてきましたので、連れて行かれる恐れのある者は村の外れに身を隠しました。しかも、集団が行ってしまうだけでは不十分で、ポリツァイの怒りが収まるまで待たなければならなかったのです…
 私と私の兄、1924年生まれのセルゲイは、しばらくの間は逃げ隠れすることができましたが、1943年の夏の末にはとうとう捕まってしまいました…ポリツァイが家にまでやって来て、私とセルゲイ兄を連れていったのですが、母はその時出かけていたので、お別れを言うことさえできませんでした…そして私たち兄弟と一緒に、おじとその息子も連行されました。
 全部で100人くらいの集団に放り込まれ、皆でティラスポリの方角を目指して進みました。ちなみに、この集団の中では全く食べる物が配られなかったのですが、地元の人々はこれを知って少しずつ食糧を持ち寄り、ルーマニア人の許しを得さえすれば、私たちに分けてくれました。

 4日ほども歩いた後だったと思いますが、私たちは脱走を決意しました。私と兄のところへおじがやって来たのです。
「何とかしようじゃないか、このままではまずいことになりそうだぞ…」
 集団はすでにモルドヴァへ入り、ノーヴィエ・アネヌィ地区の辺りへ来ていたのですが、とある村の外れで野営することになりました。私たちはあらかじめ落ち合う先を決め、夜中の2時頃でしたか、まずはおじ親子が逃げ、その10分後に私たちも脱走しました…見張りはどうやら居眠りしていたらしく、私たちは無事に逃げだすことができたのです。
 この夜の間だけで、4人一緒にかなりの距離を移動したと思います。歩いたり、走ったり、場所によっては這って通過するようなところもありましたね…そして朝が来ると、おじは私たち兄弟に言いました。
「4人そろって行くのは危険すぎると思う、バラバラになるしかない」
 そして、おじ親子はそのまま去っていったのです…

 これからどうしたらいいのだろう、どこへ行けばいいのか?…大まかな方角しか知りませんでしたからね…それに、食べ物なんか何もなかった…救いは秋も近い時期であったことで、畑で何かしら食べる物を見つけることができました。例えば穀物とか、ジャガイモとか、そういうもので食いつなぎましたよ…
 歩くのは夜だけでした。真夜中に、ベンデル地区だったと思いますが、ドニエストル川を渡った時のことはよく憶えています…眠る場所も選べるわけはなく、窪地だとか谷だとか、そんな場所ばかりでした…大体1週間くらい経ったところで、私たちはチモフェーエフカ村へたどり着きました。もと住んでいた村からは20キロほど離れたところです。そこまで来て、谷の中に隠れて生活し始めました。チモフェーエフカ出身で、私たちと同じように脱走してきたものの、村に入るのは躊躇していた連中も一緒でした…ここで様子を見ようと考えたわけです。彼らチモフェーエフカ出身者は、村に残った人々と連絡を取り合っており、何か食べる物を持ってきてもらうことができたので、私たちにもそれを分けてくれました。
 そのまま1か月はすごしたのですが、依然として家にはすごく帰りたい、だけど危険だ、できない…という状態が続いていました。で、私とセルゲイ兄は相談し、こう決めたんです。兄は残りの家族の中で最年長の男として、家族を助けるため村に戻る。家には母と小さな子供6人が残っていたわけですから…一方の私は、どうにかして前線を越え、父と年長の兄を探しに行く…勿論、いま冷静な目で振り返れば、何と愚かな決断をしたものだろうと思いますよ。けれどもあの時、私たちはまさにそう決めたわけです…

 こうして私は出発しました…分かっていたのは、ブリャンスク方面を目指さなければならないということだけで、つまりはウクライナ全土を横断する必要がありました。故郷の村には結局寄らずじまいです。それほど怖かったのですね…2か月ほどは歩いたかと思いますが、行動するのは夜だけ、道に沿って進み、同時に道からは1キロから1キロ半という充分な距離を取るよう気をつけていました。しかしその後、1人の男の人と出くわし、こんな助言をもらったのです。
「そんなに道から離れて歩くもんじゃない、さもないとドイツ人だのルーマニア人だのが遠くから見ていて、こいつは怪しいというので機関銃を喰らわしてくるかもしれん。道に近づいた方がいいぞ」
 で、私はこの言葉に従いました。

 道中で体験したことといったら、これだけで一つの物語になってしまいますね…一番大変だったのは飢えですよ!どうやって命をつないだらいいのか?それでも救いは秋だったことで、畑には食べられる物がありました。私はマッチを持っていましたし、鍋のような道具もあったので、何かが手に入った場合、時には煮炊きのため小さな焚火をおこしさえしました。さらに空腹でどうしようもなくなった時は、勇気を出し、日中に村へ入っていったこともあります。するとですよ、住んでいた人たちは、自分自身が非常に苦しい生活をしていたにも拘らず親切にしてくれたし、生き抜くためにはお互い助け合わなければならないのだとはっきり理解していました。歩く姿を見るだけで、こいつはひどく腹を減らしていて何か食べたがっているとすぐ分かるような格好でしたから、人々はある物を少しずつでも分けてくれるのが常でした。時にはこちらから頼む前に、向こうの方からご馳走してくれた人さえいます…
 チェルカッスィ州の辺りでドニエプル川に近づきました。そこには地元の人がやっている渡し船の船着き場がいくつかあって、対岸との間を行き来していました。渡守もまた優しい人たちで、私が無一文であるのを見て取ると、ただで向こう岸へ送ってくれましたよ。
 その後、同じチェルカッスィ州のとある村で、あれはゾロトノシャ地区辺りだったと思いますが、私は幸運に恵まれることになりました。1人のお婆さんとの偶然の出会いがあったんです。この人は私に食べ物を与えた上、私がどこへ、何をしに行こうとしているかを知ると、心の底から同情してくれました。というのも、彼女自身にも息子がいて、軍隊に取られていたからです。それで、私に向かい、自分のところにとどまらないかと勧めてきました。
「あんたはどこへ行くつもりなんだい?向こうはひどいことになっているよ、道中で死んでしまってもいいのかね?…」
 ウクライナにはどこにでもいるような素朴なお婆さんで、名前はエヴゲーニヤ・ペトロヴナといいましたが、私はジェーニャ婆さんと呼んでいましたね。村外れの百姓家、「ゼムリャンカ」[半地下式の土小屋]と表現した方が似つかわしいような家に1人きりで住んでいる人でした。私は日中には全く外に出ず、家の中か地下室に隠れていましたから、私がお婆さんのところにいたことは誰にも気づかれなかったと思います。ジェーニャ婆さんは乏しい食糧を私と分かち合い、私は私でできる限り家の仕事を手伝いました。そうして1か月半ほどをお婆さんと一緒に暮らした後、村は我が赤軍によって解放されたのです。
 その1週間後、私は隣村の野戦徴兵司令部に出頭し、当時はまだ18歳になっていなかったので、私の同意の上で1歳分だけ年齢を書き足し、軍隊に入れてもらいました。
 ジェーニャ婆さんとは心のこもったお別れをし、その後訪ねていこうと思っていたのですが、結局はできずじまいでした。今ではもう、お婆さんの住んでいた村の名前さえ思い出せません…

―最終的にドイツへ連行された人々は、後で何か話してくれましたか?

 私の村からは10人ほどが連れて行かれましたが、家に帰ることができた者は1人もいません…

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(11.04.11)

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