セミョーン・アルブル1
私は、1926年2月15日にオデッサ州シリャエヴォ地区のノーヴィエ・マヤーキ村で生まれました。私たちは9人兄弟で、男兄弟5人のうち私は上から4番目、姉妹は4人でした。両親はごくありふれた農民で、コルホーズで働いていました。
あの小さな村の中でも、私たちの家族は一番の子だくさんで、生活はごくごくつつましやかなものでした。もっとも母方の祖父はものすごくよく働いて、信じられないほど勤勉な人でしたから、村の中では比較的よい暮らしをすることができました。祖父は姓をドリルといったモルドヴァ人で、家族みんなが話していたのもモルドヴァ語です。一方の私たちは、父の両親もまたモルドヴァ人だったのですが、父自身はモルドヴァ語は話しませんでしたし、家族の中ではウクライナ語とロシア語が使われていました。
戦争が始まるまでに、私は7年制の学校を終えることができました。勉強はできる方でしたし、規則もしっかり守る性格だったので、私たちは学校でお手本にされたくらいです。「ご覧なさい、あのお家はあんなに子供がたくさんいるのに、しっかりしつけられていて、みんな勉強もよくできるんですよ」というわけです。
私はソヴィエトの祖国を愛する熱烈な愛国少年でした。しかし正直なところ、私たち一家には、国を愛さなくったって不思議でも何でもない事情があったのですけどね…働き者だった母方の祖父、自分の力だけで他の人より多くの財産を手に入れていた人ですが、大粛清の時代に逮捕され、後に明らかになったところによれば銃殺されたのです…私と血のつながった4人のおじも、同じ時期に逮捕され、その後どうなったかは誰にも分かりません。豊かな生活とは縁もゆかりもなかった父でさえ逮捕されました。もっとも、父はすぐに釈放されましたが、どうして逮捕されたのか、どんな目に遭ったのかは一度も話そうとしなかったですね。しかし繰り返しになりますが、大粛清にも拘らず、私たちは愛国主義的な空気の中で教育され、祖国のためならいつでも命を捧げる用意がありました。―あの「大飢饉」[1930年代初頭にウクライナ地方を襲った大規模な飢餓]について、少しでも記憶に残っていることはありますでしょうか?
あれを忘れられる人はいないでしょうよ…一握りでもトウモロコシや小麦が手に入れば、残さず食べてしまいました…村人の中には、飢えに堪えられず死んだ馬の肉まで口に入れた者がいましたが、当然そんな「食事」の後では自分も死んでしまいました…私のいた村からも餓死者は出ましたし、当時は人肉食の噂さえ聞いたことがありますが、私たちのところでは一度も起きませんでした。私の家族はとても運がよかったと思っています。何しろつましい生活でしたし、人数が多く、食べ物はたくさん必要で、働き手も少なかったのに、家族の中で死んだ者はおらず、何とか生き抜いたのですから。もっとも私は、どうやって生き残ることができたのか、いまだにその理由が分からないでいるのですが…
―戦争の開始も近いという予感はありましたか?
そういう噂は常に流れていましたが、ドイツとの不可侵条約の後では目立って下火になりました。ただ、私はまだ15歳で、ほんの子供で、そんなにたくさんのことが分かっていたわけでもないのですが、しかし記憶の限りでは、戦争が始まる直前、何か目に見えない変化が起きたという感触があったと思います。何とも言えない不安定さが現れ、何かが始まろうとしているような…
―どのようにして開戦を知ったのですか?
私たちのところでは、村役場の近くに拡声器が掛けられていましたが、これが村でもたった一つのラジオでした。政府からの大事な発表があるということでみんな呼び集められ、そこで放送を聞いたのです…
今でもはっきり憶えていますが、あのニュースはまさしく「青天の霹靂」で、思いもかけないものでした…聞くのも辛い放送で、誰一人として精神的な高揚を感じることなどなかったと記憶しています。どちらかといえばその逆で、重苦しい感触が胸の中に忍び込んでくるようでしたし、女たちは泣き出しました…
その後、ドイツ軍の飛行機が頻繁に上空を通過し始め、私たちは音だけでそれを聞き分けられるようになったくらいです。私の住んでいた村は本当にちっぽけなもので、戸数はわずか40軒程度しかありません。おそらくはそのために爆撃されることがなかったのでしょう。しかし地区の中心であったシリャエヴォでは、1軒の家がドイツ軍の空襲の標的となり、地区で初めての犠牲者が出ました…
それからしばらく経った後、7月13日、私たちの村からも応召者が出征し始めましたが、その中には私の父と長兄アレクセイが含まれていました。彼らを見送った時のことは、今でもはっきりと憶えていますよ…お祭り騒ぎで送り出すというのでは勿論ありませんでしたが、ともかくもみんな集まり、女たちはひどく泣いていましたね…ちなみにアレクセイ兄は子供の頃から日記をつけていたのですが、最後に一番年下の弟と妹たちへ宛てた別れの言葉を書き留めていきました。
「もしかしたら、お前たちが兄さんの顔を見るのはこれが最後になるかもしれない…」年長者を全て送り出してしまうと、私たちは恐怖の中でドイツ軍の到来を待つしかありませんでした。砲声は西の方から刻一刻と近づき、どんどん大きくなってくる…正直に言いますが、本当に怖かったですよ…
疎開ですか?あんなにたくさんの人数ではどこへも逃げようがありませんし、一体誰が、どこで私たちを受け入れてくれたでしょうか?…それに、私たちには疎開できる可能性なんかありませんでした。それでも村からは何人かが脱出を試みましたが、すぐに戻ってきてしまいました。―[ドイツ軍による]占領下ではどのような状況でしたか?
私たちの村の周りでは戦闘はなく、赤軍の兵士の小グループが村を通っていっただけです。しかも、彼らのうちの多くは民間人の服に着替え、武器を捨てることさえしました。私は他の子供たちと一緒に走り回り、兵隊が捨てた銃や弾薬を拾い集めたものです…
[敵軍の中で]最初に村を通過したのはドイツ軍で、その後ルーマニア軍がやって来ました。彼らはすぐに、残されていたコルホーズの財産を奪い、それから家々を回り始め、住民から雌牛だの豚だの鶏だのを徴発しました…あれは略奪以外の何物でもありませんよ!…ちょうど刈り入れの時期でしたが、彼らは小麦を探し回り、羊を1頭奪い、さらに私の家で飼っていた唯一の雌牛を連れていこうとさえしました。しかし母は、一番年下のを含む子供たちをみんな外に出し、かけがえのない雌牛を守らせました。これがですね、これが功を奏して私たちは容赦してもらい、牛を手許に残すことができたのです。―占領軍は、何らかの見せしめ行為を行ったりしたのでしょうか?
近くにあったマカーロヴォという村には、大規模なドイツ人入植地[帝政時代にロシア皇帝の求めで移住したドイツ人の子孫が住んでいた地区か?]が設けられていたのですが、ファシストたちはすぐに何人かの活動家を銃殺しました。そのうちの1人の名字は今でも憶えています。エーベルレという人でした…近隣にある別の村では、共産党員ラーエフが撃ち殺されました…勿論、みんなショックを受けましたよ。どうして平気で人を殺せるんだ?!ってね。
私たちの村でも、ブーグという名字の住人が処刑されましたが、彼が武器を隠し持っていたからというのがその理由でした…―村にやって来た「新たな支配者」はどのような者たちでしたか?
ルーマニア人は私たちのところへ2人の憲兵を置き、村に常駐させました。村人の中から数人がその助手として任命されましたが、何といっても地元の人間だから、私たちに対して何も悪いことはしませんでしたね。
一方、ごく普通の村人の1人が、思いがけず村長に立候補しました。けれども、彼は進んで占領軍に協力したわけですから、みんなに嫌われていました。最終的に彼がどうなったのか、罰されたか否かは分かりません。
また地区の中心から私たちのところへは、定期的に執政官(地方指導者)がやって来ましたが、彼はヴァシリケと呼ばれていた人物を配下として引き連れていました。私の弟などはちょっと面喰ったくらいですよ[註1]。で、この執政官が「問題解決」にあたったわけです。憲兵たちは助手と一緒に、何か悪いことをした者を見つけると連行して、このヴァシリケの指図の下、直接その場で殴りつけたり、あるいは拷問する場合さえありました…だから私は、今でもヴァシリケの名を聞くだけで体が震えます。背中に鞭を喰らわされた時のことを思い出して…―占領下での生活ですが、物質的にはどんな状況でしたでしょうか?
本当に、本当に辛いものでした。ルーマニア人は私たちのコルホーズを共同体に改編しましたが、育てた作物は何でも、それこそ穀物の一粒に至るまできれいさっぱり取り上げ、運び去ってしまい、私たちには何も代価を払おうとしません…場合によっては、よその場所で起きたように、私たちも盗みを働く羽目になったのでしょうが、実際には盗む対象さえ何もなく、だから自分たち自身の手許にあるもので食いつなぐしかありませんでした。
一方、マカーロヴォの入植地のドイツ人は非常に恵まれた立場にあり、占領軍からあらゆる手段で支援を受けていましたし、いろんな特権も享受していたので、他の住民に比べると物質的にははるかに豊かな生活を送っていました。
これらのことに加え、私たちは、例えばオヴィジオポリ・オデッサ道の建設など、様々な仕事に何度も駆り出されています。ルーマニア人は共同体に対し、これこれの人数を連れてこいという風に労役を課し、私たちはその度に連行され、時には1か月も働かされました。
私はいつも、荷馬車の御者をやらされていました。両側が高くなった、言ってみれば「バラ積み車」のようなタイプの荷馬車です。こうした作りのため、普通の馬車に比べると3倍も荷物を運ぶことができましたから、仮に砂利を一杯に積んでしまうと、馬はもう上り坂では引っ張る力がないわけです。ある時ルーマニア人がこれを見咎め、私に鞭をくれました…敵の占領下にあった全期間、私が殴られたのは3回だけでしたが、この仕事場では私が一番若かったので、ルーマニア人から見せしめの材料に選ばれたのでしょう。毎日、私を利用して他の者を「教育した」わけです。私たちはこうやって働いていました。自分で荷物を積み、自分で下ろし、馬にも餌をやらなくちゃならない…
註1:全体として意味の分かり辛い個所だが、ルーマニアの人名と思われる「ヴァシリケ」は、ロシア人の名「ヴァシーリー」の愛称「ヴァシリカ」等と類似している。一方、アルブル兄弟の父の名はヴァシーリーであるため、事情がよく分からない子供たちには何らかの混乱を与えたのかもしれない。
(11.04.11)
戻る