アレクサンドル・リャザノフ5
―塹壕は何人の兵士を収容するサイズに作っていましたか?
私たちはどこでも、歩兵隊にいた時も砲兵隊でも、各々が自分用の壕を掘っていた。規則では数人分の壕を掘ることになっているが、私たちはその方式ではダメだと思っていた。というのも、砲弾や迫撃砲弾が命中した場合、分隊の全員がやられてしまうからだ。めいめいが自分の持ち場の真向かいに壕を掘り、すぐ配置につけるようにしていた。これはウクライナにいた頃、私の戦友セミョーン・グニコフの身に起きたことだ。彼は私が失神した時、塹壕から引っ張り出してくれた兵隊だよ。私たちは畑に砲を据えつけたが、他に砲を隠すような場所はどこにもなく、ドイツ軍はこちらが畑に砲兵陣地をこしらえたことを知っていた。で、グニコフは腹が減ったので、野原に停めてある車まで行って携帯食をちょうだいしようと言い出した。私も彼にくっついていって、腹を満たし、戻ってきてみるとグニコフの塹壕は完全に崩れ去っていた。敵の砲弾が落っこちたんだ。ちなみに彼とは、その後オデッサまで一緒に戦った。
―戦闘中、あなたの部隊の指揮官はどこにいましたか?
我々と一緒にいなければならなかったはずなんだが、砲兵大隊にいた頃には、戦いの最中には誰も近くにいなかったよ。一方、戦車跨乗兵時代は、各車両に5人ずつの兵隊が乗り、連隊には20両の自走砲があった。どこに中隊長がいたかは分からないね。私は見なかった。私たちを指揮したのは自走砲の車長だ。何故なら、自走砲の車長と機関手兼操縦手は中尉、残りの3人は軍曹で、士官が2人もいたからだ。ただ、ポーランドを行軍している時には後ろの車にクレトフ少将が乗ったから、我々と一緒に進むことを恐れない将官がいたんだ、と驚いたことを憶えている。それで、どうなったと思う?ポーランドで前進していたんだが、道路が対戦車壕で掘り返されてしまっている場所に出た。それがとんでもない深さだったから、みんなで止まって、どうしようかと考えた。すると、後ろの方から背の低い将軍が近づいてきたんだ。帽子も飾り筋のついた、将官用のやつだ。
「さてさて、若い衆が集まって何を思案しとるのかね?」
私たちも率直に答えたよ。
「こいつを掘り崩しちまおうか、それとも松を引き抜いてぶち込もうか、と考えてるんですよ」
結局、松を使うことになり、自走砲に積んであった太いロープを松の木に引っかけて、根こそぎ引き抜いた。そいつでもって壕を埋め、松の木の上を渡って先へ進んだ。それ以外に上級指揮官を見たことはないね。ただ、ベリョーゾフカ地区を通ってオデッサへ向かっている時に知ったんだが、第4機械化軍団の司令部がそこで空襲を受け、司令官タナスチシン中将が戦死したのだそうだ。―行軍時は何に乗って移動していましたか?
対戦車砲大隊や戦車跨乗兵部隊にいた頃はいつも車に乗っていたが、迫撃砲中隊では歩きだった。砲は馬で曳いていて、前車に乗ることはできず、後をついて歩いたんだ。
―食事はいかがでしたか?
1日に2回、朝と夕方だ。食い物は足りていたよ。パンと玉麦のスープ、キビがある時にはキビ粥が出た。
―砲弾の補充はどうでしたか?
どの部隊にいた時でも、いつも充分にもらっていたな。常に砲弾や迫撃砲弾が手許にあるってのはいいもんだ。ただ、予備の砲弾は持っていなかったと思う。はっきり憶えてはおらんがね。陣地変更の際には、砲弾も迫撃砲弾も置き棄てていくことはない。それは絶対にだめだ。
―捕虜となったドイツ兵を見たことは?
数え切れんくらいだ。捕虜に対してはふつうに接していたよ。隊長が私を車列へ送った時の話だが、捕虜のドイツ人に缶詰を持って行くことを許してやったものだ。私にはもう彼らに対する憎しみはなかった。すでに戦争の終わりは近かったからね。ベルリンは5月2日に落ちた。
―ヴラーソフ軍の兵士と戦った経験はありますか?
そういうこともある。ポーランドばかりでなく、ドンバスにいた頃すでに、ヴラーソフ軍の裏切り者たちと戦う羽目になった。ドイツ兵よりもたちが悪いよ。何と言ってもロシア人は粘り強い、ドイツ人とは違う。捕まったやつらは手ひどく扱われていたし、非常に酷かったと言ってもいい。裏切り者だからなあ。捕虜になったヴラーソフ軍の者たちは、50人ずつ護送されていった。どこへ行ったのかは知らないがね。
―赤軍が被った大きな損害についてはご存知でしたか?
損害については何も知らされなかったし、知らなかった。ただ、ウクライナで戦っていた時、ある村で日めくりのカレンダーを見つけたんだが、そこには何かの数字が記されており、読んでみるとスモレンスク地区で我が軍の兵士6万人が捕虜になった、という書きつけだった。そんな感じで、私たちは戦争初期にドイツ軍が多くの捕虜を取ったことを知るようになったのだ。でも、確実な情報を持っている者は誰もいなかった。
―ドイツから故郷へ荷物を送る[戦利品の後送の意]ようなことはありましたか?
戦後に1回だけ許可された。曹長が服に仕立てる立派な生地を持ってきてくれて、めいめいが5キロずつ家へ送ったんだ。一方、戦利品はみんな集めていた。腕ばかりでなく脚にまで腕時計を着けていたやつがいたよ。
―前線にいた時、一番恐ろしかったのは何ですか?
爆撃だね。あれは嫌だった。
―入浴や洗濯はどうされていましたか?
どこに洗濯するような場所があったと思う?!ただ、ウクライナを進撃していた時、オデッサの周りのラズデリナヤというところで、ドラム缶の中に自分たちの服を入れて蒸し洗いをやったよ。シラミだらけで、見るのも恐ろしいくらいだった。運転手連中はガソリンを使って下着を洗っていたが、それでもシラミはいなくならなかった。ポーランドでは1回だけ入浴日があった。テントを張ったんだが、季節は真冬、1月の話だよ。どこからかお湯が運ばれてきて、シャワーで浴びてる分には気持ちいいが、出るとすぐさま凍えちまう。防水布製のテントだもの、どうしようもないだろう?それから後は、戦争が終わるまで一度も風呂に入ることはなかった。
―戦死者はどのように埋葬されましたか?
馬鹿な隊長のせいで2人が戦死した時には、村でしかるべき葬儀をやった。たまにはそういうこともあったよ。しかしそれ以外の場合は、私たち自身で壕の中に横たえて、上から土をかけるだけだった。
―あなたの部隊に女性はいましたか?
1人もいなかった。もしかすると、司令部にはいたかもしれないな。砲兵大隊時代、私たちが45ミリ砲を支給されたばかりの頃のことだが、大隊長が車で前線まで来て、一緒に若い娘を連れてきた。で、私がいたゼムリャンカに入れて、「ここにいろ!」と言ったんだ。彼女は私と一緒にそのゼムリャンカで一泊し、朝になると迎えが来た。どうして連れてこられたのか、さっぱり分からない。砲兵大隊には軍医はいたが、看護婦は1人もいなかった。迫撃砲中隊時代にはそもそも衛生班が全くおらず、私たちはお互いに包帯を巻いていたよ。
―必ず勝利するという信念はありましたか?
いつでも勝つと信じていたし、戦局が非常に厳しい時でさえそれは変わらなかった。私はたくさん歴史の本を読んでいたから、ロシア人が不屈の民族であることはよく知っていたんだ。
―実際に給与を受け取っていましたか?
もらっていたよ。そんなに多くはない、40か41ルーブリだったと思うが、私はイジェフスクにいる弟のところへ送っていた。戦車を撃破した報奨金として400、その後も250ルーブリをもらう機会があったが、全部弟に送金していた。前線ではお金なんか必要ないからね。もっとも、支払いはそんなに多くはなかったし、当時の感覚からしてもそれほど多くはなかった。
(了)
(10.11.23)
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