アレクサンドル・リャザノフ2


 ある戦いで、私は「勇敢」メダルを授与された。私たちの砲兵大隊は、敵が突破口を開いた場所に駆けつけるという具合で、戦線の中を走り回っていた。「スチュードベーカー」[ソ連軍がアメリカから供与されていたトラック]に乗り、1門あたり4300キロの砲を引っ張っていたのだ。で、ボリシャヤ・ベロジョルカ付近の前線に大きな間隙ができたことがある。2門の砲が投入され、1門は左手を守ったが、私たちの砲には「パンター」1両を含むドイツの戦車6両が殺到してきた。こちらは砲兵7人に砲1門で、歩兵はどこにもいない。戦車は真正面から接近して、真正面から攻撃を始めた。こちらも撃ち始め、2両の敵戦車を撃破すると、残りは向きを変えて退却していった。だが1両が私たちを発見して砲撃を開始し、1発は届かず、次の1発は頭上を飛び越えたから、私は思った。《聞いたことがあるぞ、こういう時の3発目は必ず目標に命中するんだ。夾叉ってやつだ》それで、みんなに叫んだ。
「夾叉だ!散開!」
 私たちは四方に逃げ散ったが、10秒経っても砲弾が飛んでこないのを見て再び砲側に戻り、もう一度射撃を開始すると、ドイツ軍は退却していった。部隊は士官に率いられていたわけじゃなく、傍には誰もおらず、ただ軍曹が1人いただけなんだが、それでも私たちは臆病風に吹かれたりはしなかったよ。みんな、逃げるくらいなら死んだ方がましだと思っていたんだ。ところで、私たちの陣地の右手には干し草が山のように積んであったが、戦いが終わった時に1人の少佐がそこから降りてきた。彼は私たちの戦いぶりを見ていたらしく、皆の肩を叩いて言った。
「よくやったぞ!いい射撃だった!」
 私たちの上官ではなく、そもそもどこの部隊に所属しているのかも分からない人だったけどね。戦いの最中には、砲の傍には中尉さえいなかったのだ。それで、少佐はみんなの叙勲申請をしてくれて、勲章をもらった者もいるし、私は「勇敢」メダルを受け取ったというわけさ。
 
 翌日、敵の戦車を撃破した場所からすぐ近くのところで、私たちは不幸に見舞われた。戦車が退却していったのを見て、私たちは壕を掘り、砲をその中に隠した。夕方になり、夜が過ぎ、そして次の朝にドイツ軍が反撃してきた。まだ暗い時分だったが、モルドヴァ出身で名前をサムィシキンという兵隊が歩哨に立っていて、いきなり皆を起こしたんだ。私たちはそれまで2昼夜の間、一睡もしていなかった。敵の戦車が現れた場所に派遣され、私たちが到着すると、敵は強力な砲を見て逃げていくといった具合で、戦線中を走り回っていたのだよ。で、サムィシキンがみんなを起こした時も、私は辺りを見回したが、特に変ったことはないようだった。ドイツ軍が信号ロケットを打ち上げたり何だりというのは日常茶飯事だったからね。私はすぐまた倒れるように寝入ってしまった。朝になって起き上がると、辺りは静かで、ドイツ軍の機関銃だけが近くで鳴っている。見ると、砲は破壊され、台座の上で砲身が傾いているじゃないか。近寄ってよく眺めると、台座の鉄の部分、厚さは5ミリの型抜きでできたやつだが、これが石炭であぶった紙のように焼けて穴だらけで、穴の周りは帯状に黄色く変色していた。誰かがテルミット弾でも爆発させたのだろうか、と思ったよ。そのまま砲の傍で待っていると、ナガン拳銃を手に持った将校が歩兵を追い立てながら砲兵陣地の方へ来て、私たちのいた防御線で守りに入ろうとしている。そこで、もうここには誰も戦友が残っていないのだから、探しに行った方がいいだろうと考えた。その場所を抜けて道路に出ると、ちょうど私たちの大隊長と大隊本部長が来るのに行き会った。状況を聞かれたから、「変化ありません、ただし砲が破壊されました」と答えた。実際、私も何が起きたか分からなかったのだ。2人は「行ってよろしい、2キロほど進んだところに友軍の烹炊所と野営地がある、皆もそこに集まっておる」と指示をくれた。言われたところに行くと、本当に私と同じ分隊の砲兵たちもそこにいて、飯盒なんかを広げて朝飯を食っていた。私を見つけると、みんな飛びつかんばかりだったよ。
「お前、どこにいたんだ?」
「砲のところだよ」
「砲のところって、そんなバカな、ドイツ軍が来てたじゃないか!」
「よく分かんないんだけど、ドイツ兵なんか見なかったよ」
 彼らの話によれば、みんなが起こされ、そして私が再び塹壕の中で寝入ってしまったその時に、ドイツ兵が砲の近くまで忍び寄り、いきなり雄叫びを上げたから、仲間たちはみな砲を捨てて逃げ出したんだそうだ。辺りは真っ暗で、どっちを撃てばいいのかも分からない。すぐ近くにカチューシャ部隊がいたから、砲のところにドイツ軍がいると伝えた。それで、カチューシャが一斉射撃を喰らわすと、ドイツ兵たちは慌てて逃げていった。今になって思うのだが、もしもあそこにカチューシャがいなかったら、ドイツ兵は朝まで居座っていただろうし、私も見つかって、砲の近くで撃ち殺されていたかもしれない。この出来事の後、私たちの部隊には45ミリ砲が配属されたが、実際にこいつで戦う機会はなかった。

 砲兵大隊は大きな損害を受けながら戦っていた。私たちの大隊はいつでも前線に出張り、塹壕から400もしくは500メートルのところにいたから、友軍の歩兵が撃退されたが最後、砲兵分隊なんてのはすぐに全滅してしまう。しかし大体において、私たちの損害が多かったのは指揮官連中が愚物だったからだと思うよ。それにまた、ドイツ軍はドンバスでありとあらゆる場所へ地雷を仕掛けていったから、車や砲の車輪がやられることはしょっちゅうだった。
 ドイツ軍はボリシャヤ・ベロジョルカから撤退し、逆に我が歩兵は攻勢に移った。私たちは友軍の最前線の陣地で守りを固め、敵戦車の攻撃に備えなければならなかった。夕方近く、歩兵はとある村を占領し、そこで夜を過ごす準備を始めたのだが、私たちはこの村を通って進もうとした。歩兵がすでに夜営にかかっており、前方にはドイツ軍がいるというのにこれ以上進もうとは、平の兵卒でさえ首をかしげるような話だよ。村からドイツ軍の陣地の方角へ2キロほど前進したところで部隊は停止した。そして、偵察将校を斥候に出すという決定が下された。しかも通信小隊の車を、大隊の書類やら軍旗やらを乗せたままで使うのだそうだ。この車で、4~5キロ先のルバノフカ村まで行くことになった。将校が1人に兵隊が8人だったね。この兵隊たちが、後から事の次第を話してくれた。ある家に近づくと、中から将校らしいのが出てきたが、辺りは真っ暗だ。運転手はそれまで灯りをつけずに走ってきたから、ここで点灯してみると、相手はドイツ人で、すぐに撃ってきた。運転手は素早く車の外に転がり出て、運転台を空にしたまま逃げ出した。他の者たちも銃声を聞いて外に飛び出し、ドイツ軍の塹壕を越えて今来た道を逃げ戻った。私たちはみんな彼らの帰りを待っていたのだが、いきなり機関銃の連射音が聞こえたものだから、こりゃ何かあったなと思ったよ。兵士たちはドイツの塹壕の真上を乗り越えて戻ってきたが、将校は捕まってしまった。後に付近の住民から聞いたところによると、ドイツ人たちは捕虜を手ひどく虐待したのだそうだ。車は、書類や軍旗もろともドイツ軍に奪われてしまった。何のためにそんなものを持ったまま斥候に出たんだか。偵察兵は身分証明書を置いて出撃するのが本当なのに、あんなやり方はないだろう?!
 その後、私たちはニコポリに到達し、そこで長いこと苦戦を続けることになった。ドニエプルを渡る必要があったんだが、それができなかったのだ。1944年になってからようやく、ザポロジエからの渡河に成功し、アポストロヴォ方面に向かった。私たちがずっと攻撃し続けた橋頭保だったが、ドイツ軍はこれを放棄して退いたから、今に敵を包囲できるだろう、やつらは戦わずして退却に移ったのだろう、と思ったよ。大隊の全部がチェルトムルィク村に到着した時はもう夜更けになっていたが、そこには高地がそびえており、ドイツ軍が陣を構えていた。私たちは低いところを、しかも灌木も何も見当たらない開けた野原を移動した。何しろひどい霧で、夜明け近くになってようやく晴れ始めたくらいだ。朝方、ドイツ軍は射撃を開始したが、私たちときたら行軍隊形のまま、大砲も車につないであって、自分たち自身のために壕を掘ることも、砲を壕に隠すこともできず、何が起きるのか予期していなかった。指揮官連中はどこかに行ってしまったが、何のためだったのか私には全く分からない。霧が晴れるや否や、ドイツ軍はまず試射を行い、それから後は辟易するほどの猛射撃だ。そこで、戻ってきた指揮官たちが「乗車!」と号令した。私たちはすぐに出発したが、車じゅうに破片が縫いつけられたようになっていたっけ。それでも私のいた車では誰も負傷せずにすんだが、他の車では数人が怪我をした。ようやく道路に出たが、車の真ん前で砲弾が炸裂し、運転手の額に破片が突き刺さった。しかし彼は大した運転手で、止まらずに車を走らせ続けたよ。敵の射程距離から逃れ出たところで車は止まり、運転手も外に出たから、破片を抜き取ってやろうとしたら、彼は断ったんだ。自傷行為と間違われることを恐れたんだね。そのまま衛生大隊まで行って、破片を取り、包帯を巻くと、彼はすぐさま部隊に戻って戦いを続けたものだ。一方、指揮官たちは自らの命令でもって大隊をパニックに陥れたに等しく、後で聞いたところによれば、大隊長はこの件を咎められて上層部にぶん殴られたそうだ。だって、陣地を構えたらすぐに壕を掘らせるものなのに、何の命令も出さず、将校さえ近くにいなかったのだから。チェルトムルィク村付近では多くの兵士が命を失った。
 もう一つ、砲兵大隊ではこんな出来事があった。ある分隊が、夜遅くに壕を掘って砲をその中へ隠すよう命じられた。彼らは夜中に壕を掘り、タバコを吸い、わいわいと騒いでいたが、前方に味方の歩兵はおらず、逆にドイツ兵が近くにいて、この分隊の7人を包囲してしまった。こうなったらどうしようもないだろう?彼らは村の中に逃げ込んで身を隠した。そのうちの1人が語ったところによれば、彼は穀物とワインが貯蔵してある地下室に入り、腹が減ったが食えるようなものはなく、ワインを飲んでいると食欲はなくなってしまった。砲兵の1人でジェレズノイというウクライナ人は、夜が明けてからドイツ軍に見つかった。他の者は、彼がドイツ軍にロシア語で尋問を受け、仲間たちがどこに逃げたか問いただされているのを聞いたそうだ。多分、敵の中にはヴラーソフ軍[ロシア解放軍(ソ連軍捕虜によって編成され、ドイツに協力した部隊)を指す。ドイツに投降したソ連の将軍アンドレイ・ヴラーソフが指揮を執ったため、ソ連軍の兵士からは一般にこう呼ばれていた]の兵士がいたんだろう。ジェレズノイがみんな逃げ去ったと答えると、ドイツ軍はすぐに彼をピストルで撃ち殺した。2日後にチェルトムルィクが解放されてからようやく、この分隊の5人の兵士は原隊に復帰し、残りの1人ははぐれてしまって長いこと放浪したが、最終的には大隊を見つけて帰ってきた。
 チェルトムルィクの後、私たちの分隊はしばらく野原の中にとどまっていたが、持っていたのは45ミリ砲2門で、夜中に陣地を構築した。友軍の歩兵はおらず、300メートル先はドイツ軍の陣地だった。それから、昼の3時頃に中隊長カザレンコが来た。彼は大尉だったか、それとも少佐だったか。その時々でいろんな肩章をつけていたから、よく分からないのだ。滅多にいないくらい手前勝手な人間で、そもそも中隊と行動を共にしていなかったのだが、彼は一体どこにいたんだろうね?!ともかく、彼は「スチュードベーカー」に乗ってやって来た。45ミリ砲というのは、2門を1台の車で牽引することになっている。それで、中隊長は私たちの塹壕に駆け寄ると、「砲を車につなげ!」と命令した。私とイヴァネンコ、これは1941年から戦い続けていた照準手だったが、彼と2人でどうにか1門をつなぎ終えたところ、たちまち敵の射撃が始まり、イヴァネンコは口の中に弾を受けて倒れた。ドイツ兵は小銃を撃ってきたから、私はすぐ塹壕の中に隠れたのだが、カザレンコは壕の中から「負傷者にウォッカを飲ませてやれ!」と怒鳴った。私は、何がウォッカだ、負傷者も何もないもんだ、イヴァネンコはすでに死んでるのに、と思ったよ。私の分隊長も心臓に敵弾を喰らった。それからドイツ軍は、小口径の迫撃砲を撃ち始めた。何しろ300メートルという至近距離にいたのだからね。私たちは運転手に「早く出せ!」と叫んだ。敵はすでに車を射撃の目標としており、ひょっとしたら友軍の塹壕を制圧し終えていたかもしれない。カザレンコは突っ立っていたが、急いで運転台に飛び乗り、全速力で逃げ去った。彼がいなくなると、ドイツ軍も落ち着いたのか射撃を止めたが、結局2人が犠牲になったんだ。夜遅くになってから、カザレンコは再びやって来て、残りの砲を車につなぎ、遺体も積んで帰っていった。葬式は近くの村でやったが、弔砲つきの立派なものだった。その後で出た新聞を読むと、でたらめなことばかり書いてある。あれは全く意味のない犠牲だったと思うし、大砲を撤去するなら最初から夜中にすればよかったのに、真っ昼間に車を差し向けるなんて馬鹿なことをやったわけだ。しかし新聞によれば、私たちは敵の攻撃を撃退し、その際に2人が戦死したことになっている。私は、どうして嘘を書くんだ?!と思ったな。その時からというもの、新聞を信じることができなくなってしまった。私は全部見てたんだが、戦いなんてこれっぽっちもなかったんだ。馬鹿どものせいで、本当に多くの兵隊が命を失ったものだよ。
 
 ある時、私たちはパイロットを助けたことがある。個人所有の農園があって、私たちはその少し先で停止していた。見ると、木製の「ハヤブサ」[軍の飛行機の愛称]が飛んでくる。農園の上を飛んで、木のてっぺんにひっかかるんじゃないかと思った瞬間に急旋回し、道路上に着陸、炎上した。すぐに駆け寄ったが、すでにパイロットにはガソリンがかかり、燃えていた。私たちは着ていたコートで火を消し、パイロットはひどいやけどを負ったものの、助け出すことができたんだ。

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(10.11.23)

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