平成14年4月30日
旧オートジャイロ部隊基地跡・筒城浜を訪れて
 
旧オートジャイロ部隊々員 松本 正二(東京在)


  私は、昨年末ホームページで旧オートジャイロ部隊(以下旧を省く)の記事を見て、大変懐かしく思いまし た。早速、記事掲載者である、大阪府在住の齋藤茂夫氏に連絡して、当時の情報の交換を致しました。私は後日「関西壱岐の会」のホームページに、オートジャ イロ部隊の消長に就いて、詳述掲載致しますが、それに先立ち今年1月始め、オートジャイロ部隊基地が在った、壱岐・筒城浜を訪ねて参りました。其の旅行見 聞録を書きましたので、「関西壱岐の会」のHomepageに掲載致します。

 申し遅れましたが、私はオートジャイロ部隊の隊員でした。オートジャイロ部隊とは、昭和19年末、筒城浜に配置 された部隊で、正式部隊名称は「陸軍船舶飛行第2中隊(暁部隊)」で、編成は将校以下約200名、保有機数は20数機の編成だったと思います。その消長 は、広島宇品を出発点として、壱岐に渡り、更に能登半島突端に展開しました。この地で終戦の詔勅を聞き、間もなく復員しました。

 ここで当時、壱岐に於ける私のオートジャイロ部隊生活を、思い出すままに書いて見ます。私は昭和19年末、19 才の時、航空技術整備要員として入隊、壱岐派遣を命じられ、軍歴は1年弱の短期間でした。壱岐での宿舎は、筒城浜近くの民家の離れ等を借用した分散型兵営 で、私が宿営した民家では豆腐を造っておりました。此処の人々は、のんびりとして暮らし、田園牧歌的情緒を感じました。

 壱岐は暖流のせいか冬でも暖かく、一方兵営生活は、上官である学徒出身搭乗員の見習士官達は、遠く離れて宿営し て居りましたので、陸軍連隊内務班のような過酷な制裁もなく、規律も緩やかでした。野原の中に建設されたオートジャイロ飛行場、それに続く砂浜、神社の大 鳥居、崖上の松林に群がる鴉、野グミの美味など、57年経過した今日でも忘れ得えません。
 
 当時、飛行場建設に壱岐中学の生徒達が、勤労動員されておりました。生徒達の中には、前述の齋藤茂夫氏も動員されてい た事が、今日になって解りました。私達若い兵隊と、中学生との交流は楽しいものでした。壱岐中学生が歌っていた替え歌は、ウロ憶えですが、「桜が咲いたヨ 壱岐中のお庭ニサ、ドンブリ鉢ヤ浮いた浮いたステテコシャンシャン」は、面白くて今でも憶えて居ります。その他一緒に軍歌も歌いました。

 オートジャイロ部隊は、昭和20年春過ぎ壱岐から能登半島に転出、昭和20年8月当地で、殆ど無傷のままで終戦 を迎えました。私は直ぐ復員し、戦後は艱難辛苦の末、松本電機商会を経営し、現在に至って居ります。戦後「陸軍船舶飛行第2中隊(暁部隊)」よりの、戦友 会的連絡等は全くありません。従って、戦後暁部隊がどのような経過を辿って消滅したのか解りません。私は可能であれば、暁部隊の消息を知りたいと思いま す。その意味でも、当時の戦友や関係者が、このHomepageを見て、少しでも連絡が取り合えたらと希っております。

  扨て、冒頭でも記述しましたが、ホームページで懐かしいオートジャイロ記事を見て、矢も楯も堪らず壱岐訪問を思い立ち、本年1月4日、老妻共々壱岐に訪問 して参りました。その旅行見聞録を、簡単ですが報告させて戴きます。下の写真は私共夫妻。


  平成14年1月4日朝、羽田発福岡空港経由、正午頃壱岐空港に到着しました。直ちにタクシーで、 オートジャイロ基地の在った筒城浜に向かいました。民宿島来荘の横を通り、緩やかな坂を上り切った辺り、旧飛行場を一望出来る高見に立ちました。現壱岐空 港の建設の影響からか、当時高かった右手の崖は低くなり、嘗ては松林に群れていた鴉もおりません。見覚えのある白砂八幡宮の鳥居だけが、当時のまま建って おりました。下の写真は白砂八幡宮の第2鳥居と神域。


 当時一面の草原だった飛行場付近の面影は、全く変わっておりました。現在は遠くにサッカー場らしきものがあり、 手前には、モトクロス(バイクのクロスカントリー)練習場らしきものがありました。飛行場の在った辺りは、全体として家屋はなきももの、植樹された疎らな 木立などが望見できました。
 私の記憶では、当時の景色は「もっと拡がりが有った筈だなあ」と思っておりましたので、その記憶を確認すべく、場所を 移して違った角度から見ましたが、当時の拡がりの景色は見出すことは出来ませんでした。57年の歳月の経過で、筒城浜の地形も私の記憶も、著しく変化した ものと思われます。下の写真は、モトクロス練習場らしき場所。


 続いて筒城浜に出て見ました。初めて見るような白浜長汀も、打ち寄せる静かな波も、当時のままのように思われま す。しかし浜辺に打ち上げられた大きな平目を拾った事も、海上輸送されたオートジャイロを、浜より引き上げた事などは忘れていました。冬の海の筒城浜辺り には人影もありません。今、筒城浜には、茫然と立ちつくし、沖を望みながら「年々歳々花相似たり、年々歳々人また同じからず。」と、呟く自分の姿のみがあ るだけです。下の写真は筒城浜。


 この後、筒城浜にも別れを告げ、石田町役場へ向かいました。受付に意を通じますと、助役の百崎貞明さんの所に案 内されました。オートジャイロ部隊の事をお訊ねしましたら、心よく応対して下され、記録など調べて戴きましたが、残念ながら記録は残されていないとの事で した。多分、終戦の時、焼却されたのではと思います。
 その他、色々と話しが弾み、1時間近くもお邪魔してしまいました。正月の仕事始めの、お忙しき処を恐縮でした。帰りに 熊本利平翁の伝記を頂戴致し、老妻共々感謝致しております。

 之で壱岐訪問の目的の大半を達したと思いまして、今後の日程などは、後でゆっくり考えるとして、車を湯ノ本温泉 へ走らせました。温泉旅館「湯庵いさな」の温泉に浸りながらの、湯ノ本湾一望は絶佳でした。「湯庵いさな」も良い処で、女将以下の親切な持て成しも有り難 い事でした。

 翌日は全島を一周し、百崎助役さんの仰った壱岐の戦後発展の状況を見たいと思いました。幸運にも旅館の女将の紹 介で、近くに住まわれている、福田 敏先生(元高校校長)が案内を申し出て下され、タクシーに同乗して戴きました。

 約5時間を費やし、名所旧跡を隈無くと言って良い程見せて戴きました。中でも松永耳庵翁の資料館は興味深きもの でした。瀬戸の少弐公銅像前の植樹には、「関西壱岐の会」の藪椿の苗木も見付け、「関西壱岐の会」を思い出しました。下の写真は「関西壱岐の会」の植樹標 柱。

   

 壱岐島民に対する私の感想は、総じて皆様方は、経済的に裕福のように思われました。又、島内の網の目のように張 り巡らされた立派な道路には、改めて驚かされました。同時に念願の壱岐を訪問した嬉しさも一入でした。又、福田先生は壱岐の郷土史にも詳しい方で、老妻 は、先生からお聞きした、元寇での壱岐島民が受けた被害の甚大さや残酷さに驚いておりました。

 長い間壱岐を訪ねたいと思っておりましたが、この度、宿願を果たし胸のつかえがとれました。壱岐滞在中、多くの 壱岐の皆様の暖かいご厚意に感謝申し上げます。誠に有り難うございました。

 尚、オートジャイロ部隊に関する記事は、後日、私の記憶を辿りながら、防衛庁戦史資料研究所や国会図書館などか らの資料を加味して、書いて見たいと思います。そして「関西壱岐の会」のホームページに掲載する予定です。ご期待戴くと共に、その節はアクセスして閲覧し て下さい。