1.前書き
私は先日、元オートジャイロ部隊々員で、東京都在住の会社社長・松本正二氏より、光文社発行の書籍「陸軍カ号観 測機」を贈呈して戴いた。著者は日本航空ジャーナリスト協会会員の玉手榮治氏。この「陸軍カ号観測機」が、正しく筒城浜基地に実戦配備されたオートジャイ ロ機である。題名にある「カ号」とは片仮名の「カ」で、漢字の力(チカラ)ではない。「カ号」の由来は、回転翼飛行機の頭の読みの「カ」から命名された。 「陸軍カ号観測機」は、今日のヘリコプターの前身といえる、オートジャイロ機の開発の動機、開発の過程、搭乗員の教育訓練、筒城浜基地への実戦配備、そし てその終焉までを、克明に収集された資料と、数少ない関係生存者への取材などを通して、「よくもまあーここまで調べたなあー」と驚嘆させられる程に、緻密 に書かれた優れた書籍である。多くの方々の購読をお奨めしたい。価格は2500円。
私はこの「陸軍カ号観測機」から、文章の引用や写真の転載をさせて戴きながら、半世紀以上前の忘却の彼方にある、微かな記憶を辿りながら、筒城浜基地に実戦配 備された、オートジャイロ部隊の物語を書いてみたいと思う。
尚、「関西壱岐の会」のHomepageでオートジャイロ部隊に関する記事として、「旅行見聞録」の項に、松本正二氏 の「旧オートジャイロ部隊基 地跡・筒城浜を訪ねて」 と、「ふるさと今昔」の項 に、私の「筒城浜オートジャイロ基地建設学徒動員」を、掲載しており ますので合せてご覧下さい。ご覧の場合は、何れも前の「 」内のUnderline部をClickして下さい。
オートジャイロ機は、「カ号Ⅰ型」と「カ号Ⅱ型」が開発された。大きな違いは搭載発動機型式で、その他の仕様は 概ね同じ。下の写真は「カ号Ⅰ型」で、主として筒城浜基地に実戦配備された。
下の写真は「カ号Ⅱ型」で、製造機数も少なく筒城浜基地には配備されなかった。
2.オートジャイロ機開発の動機
日本陸軍がオートジャイロ機の開発に着手した直接の動機は、ノモンハン事件の壊滅的敗戦の教訓からで、砲兵部隊 の砲弾の着弾点確認観測用飛行機として、実戦配備するためであったと言われている。
此処で誤解を恐れず、戦争にも匹敵するノモンハン事件を、オートジャイロ機の開発のみに関連づけて、推測も含めて大胆 に記述してみる。ノモンハン事件に関しては、半藤一利著の「ノモンハンの夏」を始め、実に多数の書籍が出版されているので、詳しくはそれらを参照して下さ い。
ノモンハン事件とは、昭和14年7月~9月にかけて、日本軍とソ連軍が満蒙国境を巡り激しく争い、日本軍が壊滅 的被害を被り敗けた事件(戦争)である。当時の関東軍には、自らを世界最強の軍隊と自負し、大和魂を発揮し勇敢に戦えば、向かうところ敵なしとの独善的な 驕りがあった。
満州とモンゴルの国境に対峙した日本軍とロシア軍とでは、日本軍が兵力も火力も圧倒的劣勢にあった。更に加えて 日本軍陣地は、ソ連軍陣地より50㍍も低く、ソ連軍陣地から丸見えと云う地形的に不利な状態にあった。当時の戦闘は、未だ大量の航空機が投入されない、最 前線から数キロ後方辺りに配置された大砲の砲撃により、敵を殲滅する戦闘が中心であった。大砲砲撃の精度を上げるのには、正確な照準が絶対条件だ。照準は 最前線に配置された観測兵との電話連絡で行われた。
しかし50㍍も低い位置からの観測は、決定的に不利である。日本軍はドラム缶などを積み上げて高い位置からの観 測も試みたが、ソ連軍の砲撃で簡単に破壊された。更に日本軍は、着弾点観測のため観測将校を乗せた気球を沢山揚げた。しかし護衛のない無防備の気球は、ソ 連軍に悉く落とされた。結果正確に照準出来ない日本軍の砲弾は、徒に荒野の砂漠に着弾するだけで、ソ連軍に対して効果的な攻撃は出来なかった。反面、圧倒 的優勢なロシア軍は、高い所から正確に日本陣地を観測して、日本陣地を悉く破壊した。斯くして日本軍は壊滅的敗北を喫するのである。
因みに小松原中将隷下の23師団は、15140名中11958名を失った。喪失率79%で殆ど玉砕であった。乃木3軍 が旅順203高地攻撃で無謀な突撃を繰り返し、甚大な損害を被ったが、夫れよりも遙かに甚大な被害であった。小松原中将は敗戦の責任を取らされ、直ちに予 備役編入、翌年失意の内に病没した。
ノモンハン事件の敗戦は当時極秘扱いであり、一般国民がその事実を知り得たのは終戦後である。私の昭和14年頃と云え ば、尋常小学校2年で、勿論ノモンハン事件の敗戦など知る由もない。私の当時の記憶としては、支那事変で南京陥落、徐州陥落、漢口陥落、広東陥落の連戦連 勝報道で「日本勝った、日本勝った、支那負けた」と、日の丸の小旗を打ち振り、有頂天になって、印通寺の目坂通り辺りを旗行列して、はしゃぎ廻っていたこ とである。
ノモンハン事件の決定的敗戦は、砲弾着弾点の観測不可が原因だった事から、陸軍砲兵部隊は気球観測に代替する観 測兵器の開発に着目した。そこで当時外国で開発されつつあった、オートジャイロの導入が検討された。オートジャイロの特性は、機動的で超低空で超低速(極 端に云えばホバリング・空中停止可能)で、短距離滑走での離着陸可能と云う、砲弾着弾点観測兵器としては最適であった。
陸軍砲兵部隊は、直ちにオートジャイロの開発に着手し、陸軍・大学・軍需工場の3者が叡智を結集出来る体制を確 立した。そしてエンジンは神戸製鋼所大垣工場、機体は萱場製作所仙台工場で製造することに決定した。開発には多くの困難な問題が発生したが、詳細は前述の 「陸軍カ号観測機」に譲る。
3.開発目的の変更
大東亜戦争も昭和17年、ガダルカナル戦の敗北以来、前線への兵器、弾薬、食料等を補給する兵站を如何に確保す るかが、焦眉の急となった。ガダルカナル戦の決定的敗北は、参謀本部の作戦の拙さから、全く兵站が途絶え、ジャングルの中に置き去りされた日本軍が、物量 豊かな米軍に一方的に攻撃されたことである。日本軍は戦うこともなくジャングルの中で次々と餓死していった。
その頃日本軍はあらゆる国内の輸送船を徴用して、軍需物資を輸送しようとしたが、輸送船は目的地に到着する前 に、制海権を奪って日本近海に遊弋する敵潜水艦による雷撃攻撃により、大半が撃沈された。
当時広島・宇品に本部を置く陸軍船舶司令部が、陸軍の輸送船や輸送物資の全てを管掌していた。そこで日本近海に遊弋す る敵潜水艦を爆雷攻撃するため、現在開発中のオートジャイロの開発目的を、砲兵部隊の着弾点観測機から、陸軍輸送船の警護用にと開発目的を変更した。当時 既に陸軍輸送船の護衛は、海軍艦艇からも陸軍航空部隊からも、全く期待出来ない状況下であった。
4.オートジャイロ機の製造機数
オートジャイロ機の製造は、前述の通り発動機は神戸製鋼所、機体は萱場製作所が分担した。製造は昼夜兼行で行われた が、現在のような大量生産方式ではなく、限られた熟練職人が、名人芸を発揮して1台1台手作業で製造した。その間、精度不良などでオシャカが出るなどのト ラブルもあった。
開発開始から終戦迄の間に、製造されたオートジャイロ機の正確な機数は不明である。資料から大胆に推測すると、全部で 約50機製造されたものと思われる。50機の内、約30機が実戦配備され、その内約20機が、筒城浜基地の船舶飛行第2中隊に実戦配備されたものと思われ る。
オートジャイロ機の仕様は、1型とⅡ型とでは若干異なるが概略下記の通り。
長さ6.95㍍、幅3.1㍍、高3.1㍍、ローター直径12.2㍍、発動機240馬力、最大速度165Km/H、 巡航速度115Km/H、航続距離240Km、離陸滑走距離30~60㍍、着陸滑走距離0~10㍍、自重745㎏、全備重量1045㎏、乗員2人(前席が 操縦員、後席が偵察・通信兼務の爆雷投下員)。
下の写真は筒城浜基地実戦配備されたオートジャイロ機と同系統機
5.搭乗要員の教育訓練
昭和18年7月、オートジャイロ搭乗員として陸軍船舶部隊の中から、坪井中尉以下優秀な将校10名が選抜され、 1期生として入校した。搭乗員の教育訓練は、発足当初は野砲兵第1連隊に間借りして始められたが、手狭にため愛知県豊橋市郊外大清水村の、老津陸軍飛行場 に移転された。
搭乗員の教育班長に山中 茂少佐が就任した。山中少佐は、京都帝国大学理学部物理学科の出身で、幹部候補生として陸軍 に入隊、将校としての軍隊教育を受け、間もなく技術中尉に昇進した俊才である。そしてオートジャイロ機の開発には、最初から参画していたベテランでもあ る。エンジン理論は千賀中尉、整備理論は田中中尉、その他の教官の役割分担も決まった。各教官は、大学・専門学校理系出身の将校で、オートジャイロ理論に は、詳しい技術将校であった。
山中少佐は、搭乗員の教育訓練は全く初めての経験であった。当初は教育の進め方は如何にすべきかと悩んだ。しかし急拵 えの教育システムではあったが、時間の経過と共に、順調に推移し始めたので安堵した。
昭和19年2月、第1期生の坪井中尉以下10名の将校が卒業した。入れ替わり第2期生として、陸軍船舶部隊から 選抜された、本橋大尉(後日筒城浜基地に実戦配備された船舶飛行第2中隊隊長)以下40名の優秀な将校・下士官が入校してきた。直ちに第2期生は第1期生 同様、厳しい教育訓練が開始された。そして昭和19年9月、40名は卒業した。それ以降の教育は上記50名が核となり、後に編成される船舶飛行第2中隊で 行われた。
下の写真は筒城浜基地実戦配備されたオートジャイロ機と同系統機
6.筒城浜基地実戦配備の「船舶第二飛行中隊」の誕生
昭和19年10月、1期生・2期生50名の教育訓練終了と共に、宇品の船舶本部内にオートジャイロ機部隊の「船 舶飛行第2中隊」が誕生した。船舶飛行第2中隊は、老津飛行場から宇品の江波飛行場に移動、そこを根拠にして、爆雷投下訓練などを含む、オートジャイロ機 搭乗員としての厳しい錬成に励んだ。やがて雁ノ巣飛行場に移動、壱岐水道などの索敵・哨戒・警護飛行の任務に就いた。
当時の陸海軍航空部隊の階級構成は、部隊の性格上、上級者が多数を占めていた。船舶飛行第2中隊も同様で、先任 将校の本橋大尉を始め士官、見習士官が多く、下士官、兵は少なかった。陸軍連隊本部の内務班などでは、兵が圧倒的に多く、将校は非常に少数で神様的存在で あった。航空部隊内では石を投げれば、将校に当たると揶揄された程、将校が多く頭デッカチな組織であった。
船舶飛行第2中隊の指揮命令系統は、呉市の船舶司令部→広島市宇品の船舶本部→博多港埠頭の第4船舶団(団長村 中四郎大佐)→船舶飛行第2中隊(隊長本橋大尉・間もなく少佐に進級)である。船舶飛行第2中隊は、当時 花形として持て囃された、陸軍航空軍隷下の航空士官学校出身将校や特別操縦見習士官出身将校などとは別組織で、陸軍内部ですら其の存在は余り知られなかっ た。
下の写真は筒城浜基地実戦配備のオートジャイロ機と同系統機
7.筒城浜基地に実戦配備
船舶飛行第2中隊隊長には、2期生の本橋大尉が就任、昭和19年秋頃から筒城浜基地の建設に着手した。滑走路は 長さ約200㍍足らず、幅も40㍍程度の小規模だった。場所は現在の筒城浜公園内のオートバイ練習場辺りから、白沙八幡宮の大鳥居と筒城浜の中間点辺り迄 であった。滑走路は舗装もされず、草地を平坦にしただけの簡単ものであった。滑走路の横には吹き流しが1本立てられていた。
格納庫は半地下壕式で、現在の筒城飛行場の北端から民宿付近の低い崖辺りに、十数カ所構築された。半地下壕の格 納庫は幅5㍍位、奥行き8㍍位、高さ5㍍位で、屋根はシートや竹や藁などで擬装された。格納庫が平屋建てでなく、半地下壕で構築されたのは、直撃弾を受け ない限り破壊されないと云う、砲兵部隊の陣地構築の発想が導入されたためである。当時南の島の日本陸海軍航空部隊の簡易格納庫としては、飛行場付近の大木 の陰に隠してシートで擬装したり、掘っ立て小屋を建て、屋根を椰子の葉で葺くなどしていたため、敵の爆撃攻撃には脆かった。
筒城浜飛行場はフェンスも囲いもなく、付近の住民は簡単に立ち入ることが出来た。何しろ生活道路が、飛行場のど 真ん中を通っているのである。人々は至近距離から戦闘に出撃するオートジャイロ機を目の当たりにしたのである。現在では考えられない光景であった。そう言 えば、知覧飛行場から沖縄に出撃する特攻機を、モンペと下駄履き姿で桜の小枝を打ち振って、整備兵と共に見送る知覧高等女学校の生徒達も、滑走路の至近距 離からであった。勿論筒城浜基地と雖も、武器・弾薬・燃料等の貯蔵所には囲いがあり、歩哨が立って厳重に警戒していたと思う。
やがて昭和19年末、筒城浜基地が概ね完成、間もなくオートジャイロ機が雁ノ巣飛行場から飛来、実戦配備され た。
当時中学1年生だった私は、日付は明確に記憶して居ないが、寒い頃だったので昭和19年暮れと思うが、偶々印通寺裏山 の天井篭を通行中、東の空から爆音が聞こえてきた。その頃屡々本土空襲に、侵入していたボーイングB-29の爆音とは明らかに違う。東の方向を見ると、丁 度名島の上空辺りを低空で飛行する、豆粒みたいなものが9個確認できた。1~2分後機影が大きく明瞭となり、これが初めて見るオートジャイロ機であった。 その時、オートジャイロ機は3機編隊で、全部で9機飛来した。やがて妻が島の向こう側上空辺りで進路を東に変え、機影は万葉公園辺りの山影に消えた。この 飛来が、オートジャイロ機が筒城浜基地に実戦配備された最初ではなかったかと思う。私が、筒城浜基地に勤労動員されたのは、夫れより3ヶ月後の昭和20年 3月から6月頃までであった。
下の写真は筒城浜基地実戦配備のオートジャイロ機と同系統機
8.壱岐水道での索敵・哨戒
筒城浜基地に実戦配備された船舶飛行第2中隊は、搭乗員と整備兵を併せて約200名、オートジャイロ機は約20機で あった。その辺の状況は、「関西壱岐の会」のHomepageの旅行見聞録の項に掲載の、元船舶飛行第2中隊隊員の松本正二氏の「旧オートジャイロ部隊基 地跡・筒城浜を訪れて」に詳しい。隊員達の兵舎は建設されず、当時何処でもそうであったが、付近の民家に分散宿営した。幹部将校の1部は、筒城西触の山本 文夫先生の留守宅に宿営した。隊の雰囲気は歩兵などと異なり、上下の差別も少なく比較的自由な雰囲気であつた。筒城浜基地と雖も、完全な実戦部隊、目的完 遂のためには隊員の親睦が必要であつたためと思われる。
船舶飛行第2中隊の搭乗員の内、多くの見習士官や下士官達の出自は、昭和18年国家総動員法により、徴兵延期が 廃止され、繰り上げ卒業した学生達であった。主に早稲田・慶応・明治・法政・中央などの、私立大学や予科の法文系で、20歳に達した学生達である。学生達 は応召、砲兵部隊に入隊の後、甲種幹部候補生又は乙種幹部候補生に合格、更に陸軍予備士官学校などで教育を受け、見習士官や下士官に任官した者である。船 舶飛行第2中隊では、主として操縦は甲幹の士官、偵察は乙幹の下士官であった。
搭乗員達の服装は、茶褐色の飛行帽、繋ぎの飛行服、そして半長靴のいでたちは颯爽としていた。特に若い見習士官の見栄 えは素晴らしく、地元の若い娘さん達の憧れの的であつた。
昭和20年1月17日、筒城浜飛行場を基地として壱岐水道の索敵・哨戒・護衛飛行が開始された。迷彩色を施され たオートジャイロ機体は、白線で囲まれた日の丸がくっきり見え、胴体下には小さなドラム缶のような形の爆雷を1発吊り下げて出撃した。
オートジャイロ機の発動機始動はゴム掛け始動と云って、プロペラの一方を時計短針の1時半位の位置にして置い て、そこえ布製のキャップを被せ、キャップの先端に繋がったゴム索を4~5人の整備兵が引っ張って始動していた。私も勤労動員中、引っ張って見たかったが 危険と云うことで、引っ張らせて貰えなかった。
下の写真は筒城浜基地実戦配備のオートジャイロ機と同系統機
9.戦死傷者事故発生
日本本土と朝鮮間を航行する我が輸送船を、敵潜水艦の雷撃攻撃から護衛すべく、オートジャイロ機は連日出撃し任 務を遂行した。オートジャイロ部隊は、船舶司令部のみならず、多くの海運関係者からも大いに信頼され期待された。昭和20年6月17日、船舶飛行第2中隊 は、その功績多大なりとして、第14船舶団長の村中大佐より感謝状が授与された。
しかしオートジャイロ部隊は、輝かしい実績を上げつつあったが、製造技術の拙劣さから、事故も多発した。昭和 20年3月31日、中隊長の本橋少佐搭乗機が墜落した。
本橋少佐機は3月31日午前8時、爆雷投下並びに空中訓練実施のため離陸、高度100㍍程度に上昇、目的場所に飛来せ んとしたが、急激に回転減少、回復操作も儘成らず、止むを得ず、右前方の権現山手前の乾田に、着陸せんと試みたが意の如くならず、付近の松の木に回転翼激 突破壊墜落したのである。原因は発動機の気化器針弁発錆であった。本橋中隊長は重傷を負ったため、後任中隊長には先任将校の湯浅大尉が就任した。
4月8日には、山本大尉・相原軍曹同乗機が、2機編隊で壱岐水道に出撃、飛行中発動機不調により海中に墜落、両名とも 戦死した。原因は僚機の言に依れば発動機の急停止であったと云う。
その他壱岐水道で同様の墜落事故が発生した。幸い搭乗員は救出されたのが、せめてもの幸いであった。正確な原因は、機 体が海没したため不明なるも、発動機の燃料系統の故障と推測された。しかしこれら3件の墜落事故は、私達付近の住民には一切知らされなかった。
10.能登へ転進
昭和20年4月頃以降の壱岐上空は、連日、日本近海に遊弋する、米航空母艦から発進する敵艦載機のグラマンやム スタングなどが飛来した。敵艦載機は、壱岐の主要施設や漁船などに容赦なく攻撃を加えた。熊本利平氏の寄付で建てられた石田国民学校の講堂も、敵艦載機の 爆撃で破壊された。印通寺では艦載機の機銃掃射で亡くなった人もいた。
日本の制空権・制海権を奪った米軍は、壱岐水道にも無数の機雷が敷設した。当然、壱岐水道を航行する船舶は、敵艦載機 の爆撃攻撃と、機雷攻撃にまともに曝された。同時にその頃から、敵潜水艦からの攻撃は減少した。
5月~7月頃にかけて多くの我が輸送船が、触雷沈没又は敵艦載機からの爆撃攻撃で沈没した。貨物船智利丸5873屯 が、壱岐・諸津沖で爆撃沈没したのも6月である。その頃、印通寺の港では、既に複葉練習機すら持たない甲種飛行予科練習生達が、ベニヤ板で造った特攻兵器 「震洋」の出撃基地の建設に従事していた。
その様な現実の中、機関銃などの攻撃兵器を無着装の、気球と同じ無防備のオートジャイロ機の、活動分野は著しく 狭められた。敵艦載機に見付かれば、忽ち撃墜されるのは明らかである。船舶司令部は、オートジャイロ部隊の活躍の場を、敵艦載機の飛来の少ない、日本海や 津軽海峡の索敵・哨戒に活路を求めたものと思われる。そこで筒城浜基地は建設途上ではあったが、任務は終了したとして、昭和20年6月~7月にかけて、船 舶飛行第2中隊はオートジャイロ機十数機とともに、石川県七尾基地に移駐した。
同時に、その頃の東京・大阪などの大都市は、焼夷弾攻撃で焼け野原となり、米軍は大都市空襲は終了したとして、 焼夷弾攻撃を地方都市に移行していた。主として地方都市が空襲を受けたのは20年4月以降である。当然、萱場製作所仙台工場も神戸製鋼所大垣工場も空襲を 受け、部品不足も伴い、事実上オートジャイロ機の製造は、中止するの止むなくに至った。
船舶飛行第2中隊は、能登七尾基地で索敵・哨戒任務を続行していたが、8月15日当地で終戦を迎え解体した。船 舶飛行第2中隊は隊員が約200名と少なく、戦後も戦友会組織なども結成されずに、ベールに包まれたまま今日に至っている。そして世間から、其の存在さえ も忘れ去られようとしているのは、如何にも残念である。
11.後書き
オートジャイロ部隊物語を脱稿するにあたり、随所で引用したり参 考にさせて戴いた「陸軍カ号観測機」著者の玉手栄治氏と、貴重な情報をご提供戴いた、元オートジャイロ部隊隊員で、会社社長の松本正二氏に厚くお礼申し上 げます。文拙く、意足らざる点多々あると思いますが、ご容赦賜り度存じます。
尚、今後新しい情報や、記憶違いや誤記などが判明次第、追加又は修正な どの推敲を致します。