平成14年5月10日
筒城浜オートジャイロ基地建設学徒動員 

大阪在住 齋藤茂夫(石田出身)


1.前書き
 
 此の文章は平成5年4月発行の、壱岐高2回卒同窓会々報に掲載されたのが初出である。其の後平成12年5月、那賀・国 分の山口博千君のHomepage「壱岐巡り」に推敲して掲載した。
 平成13年10月、元オートジャイロ部隊々員の松本正二氏(東京都在住)から、オートジャイロ部隊の新しい情報を戴い た。そこで既掲載文に新しい情報を追加したり、間違いを修正するなどして、記憶を辿りながら書き直した。そして今回「ふるさと今昔」の項目に掲載した。し かし書き直したと云え58年も前の事、史実に欠ける点も多々あると思われるがご指摘を戴き度。又、元オートジャイロ部隊に関する情報をお寄せ下さい。
 尚、松本正二氏は平成14年1月4日から5日にかけて、オートジャイロ部隊基地跡の筒城浜などを訪問されました。其の 貴重な壱岐見聞録を、「関西壱岐の会」Homepageの「旅行見聞録」の項に掲載して戴いたのでご覧下さい。

2.オートジャイロ基地建設学徒動員

 ⅰ.昭和19年頃の中学校生活

  私は昭和19年4月、長崎県立壱岐中学校に入学を許可された。其の頃の大東亜戦争は、既に敗色覆う べくもなく、第15軍司令官牟田口廉也中将は、周囲の反対を押し切って兵站を全く無視した、無謀なるビルマ・インパール作戦を命令した時である。しかし我 々壱岐中学1年生は軍事教練主体ではあったが、敵性語である英語も含め曲がりなりにも学業は続けられていた。勿論、誉の家(戦死された兵士の家)や、出征 兵士の留守家庭への農作業奉仕活動には従事した。奉仕活動とは主として麦刈り、田植え、草取りなどであった。

 昭和20年3月、勅令により中学校の授業は一年間停止された。その頃戦局は更に悪化、硫黄島では栗林忠通中将指 揮下の109師団以下全部隊が玉砕した。中学二年生に進級した私達も授業は全面中止となり、学徒勤労動員を命じられ鍬を取り槌を握った。私達の主たる動員 先は、石田・筒城浜のオートジャイロ基地建設、石田・池田仲触の神之元溜め池堤防構築、初山・当田海岸からの砂利石運搬、志原・岳の辻の防空壕建設用の砂 利石運搬、そして圧巻は渡良・大島の砲台構築であった。

 ⅱ.筒城浜オートジャイロ基地建設

 a.基地建設の目的

 昭和19年末頃、日本付近の制空海権を奪取したアメリカは、日本近海に多数の潜水艦を遊弋させた。日本の輸送船 は、格好の攻撃目標にされ甚大な被害を被った。そこで、これらの敵潜水艦を撃滅すべく、昭和19年末、陸軍船舶部隊は筒城浜に対潜水艦攻撃基地として、 オートジャイロ基地の建設に着手した。

 その頃、鹿屋・知覧・新田原などの各基地からは、連日、陸・海軍特別攻撃隊が生還の許されない祖国を背に、お国 の為に完爾として勇躍発進、南冥に沈み碧空に散った。しかし、此処筒城浜基地は未だ空襲もなく比較的安泰であった。

 b.オートジャイロ部隊の編成

 オートジャイロ部隊の正式名称は、陸軍船舶飛行第2中隊(暁部隊)で、構成人員は将校以下約200名、オート ジャイロ機数は20数機の編成だった。其の消長は広島宇品を出発点とし、昭和19年末壱岐筒城浜に進出、20年5月対馬厳原基地経由・能登半島突端に展開 された。昭和20年8月15日当地で終戦。

 c.兵隊さんと中学生との交歓

 私達が、基地建設に動員されたのは、中学二年に進級する前の20年3月頃からであった。私達の建設作業は、筒城 浜南端辺りの稍崖になった砂地に、半地下式の格納庫を掘ったり、掘った格納庫が崩れないように、砂止め用に使用する竹を近所の民家から運搬したりした。 又、出撃するオートジャイロを、格納庫から滑走路迄押したり、攻撃から帰投したオートジャイロを、格納庫迄押したりした。オートジャイロのエンジン始動 は、整備兵がプロペラの先端に強力なゴムの帯を引っかけ、数人でゴム帯を引っ張っていた。私達の作業は、其れ程過酷なものではなく、むしろ楽しかったよう にさえ思う。

 私達は、時々軍事教練を受ける為、武生水の中学校に出校する事があった。勿論、石田線を歩いて通学していた。通 学途上、時々オートジャイロ部隊に物資を運搬するトラックに出会ったが、トラックが空いている時は、トラックに便乗させて戴いた。オートジャイロ部隊の兵 隊さんのご好意が大変嬉しかった。

 オートジャイロ部隊の兵隊さん達は、筒城浜周辺の民家に分散宿営していた。兵隊さんと中学生との交流は楽しいも のであった。私達は兵隊さん達に得意顔で中学生活の様子を話したり、兵隊さん達からは色々な軍歌を教えて戴いた。其の中で、今でもはっきり憶えている軍歌 は「航空兵の歌」である。この軍歌は、当時の中学生たちの間に忽ち流行した。後で知ったがこの「航空兵の 歌」は、陸軍航空士官学校40期生徒の作詩である。一番の歌詞を下記する。

 ロッキー山やアルプスの  雪の峰々見下ろして  操縦桿を操れば 
 エンジンの音懐かしく     心も躍る雲の上     ああ壮なるや航空兵

 d.搭乗員士官との交歓

 私にとって、オートジャイロ基地での最も思い出深い事は、士官宿舎で若い士官達に訓話を聞かせて戴いた事であ る。将校宿舎の一つは、私達が中学・高校の恩師だった故山本文夫先生の留守宅で、昭和61年3月には、映画「波光きらめく果て」のロケ地にもなり、松阪慶 子なども訪れた所である。

 オートジャイロ搭乗員は、主として陸軍砲兵隊出身の士官や下士官であったと思う。その中で天海中尉、吉田少尉の 顔は今でも思い出せる。当時、士官宿舎の周囲には、村の若い娘さん達が、若い士官達を一目見ようと、大袈裟に言えば門前市をなしていた。特にハンサムで、 凛々しい飛行服姿の天海中尉は人気抜群だった。

 私は、中学同級生の筒城西触出身の故伊藤誠朗君(実家は士官宿舎の隣)と、時々カキモチなどを持参して士官宿舎 を慰問した。士官達は、私達田舎中学のボロボロ中学生に興味を持ったのか、快く訓話を聞かせてくれた。私は、中学の英語の教科書を持参して読んで戴いた が、発音などはとても流暢だった。
 又、或る時は、当番兵殿に散髪して戴いた。散髪当日は寒かったので、当番兵殿は私を士官並に、冷たいバリカンを火鉢の 火で暖めてから刈ってくれた。勇猛果敢な兵隊さんの優しい一面に接して感激した。そして、自分も将来あのような立派な士官になり、お国の為に尽くしたいと の夢を抱いた。

 将校宿舎の前に大きな樹木があり、其の樹木の可成り高い所に櫓が造られていた。何の目的で造ったのかと士官にお 聞きしたら、敵機襲来を監視する為の櫓だと云われた。勿論冗談だが、士官達は休憩の時など、櫓に登って暫しの気休めしていたのだろう。

  筒城浜オートジャイロ基地は、昭和20年5月頃、目的を達成したとして能登半島突端に転進して行った。其の頃 は筒城浜基地は、未だ建設途上だったと思うが、作戦変更があったのだろう。

3.筒城浜の現状

 現在の筒城浜は「日本の白砂青松百選」「日本の渚百選」「日本の海水浴場88選」に選ばれて、日本は勿論世界に 誇れる場所である。夏になると長崎県下でも最大の海水浴場として、島内外から多くの海水浴客が訪れ活況を呈している。筒城浜に栄光あれ。