平成14年11月20日


 陸軍オートジャイロ部隊よもやま物語(NO3)工事中
 

元オートジャイロ部隊隊員 東京在住 松本正二
前書き
 前々号の陸軍オートジャイロ部隊よもやま物語(NO1)、前号の陸軍オートジャイロ部隊よもやま物語(NO2)に続き、本稿では陸軍オートジャイロ部隊よもやま物語(NO3)を掲載します。
 

よもやま物語(NO3)

4.オートジャイロ機の性能

 下の写真は、筒城浜基地に実戦配備されたオートジャイロ機

ⅳ 山本大尉・相原軍曹の戦死

 山本大尉・相原軍曹の戦死は、筒城浜基地に実戦配備された、船舶飛行第2中隊の歴史にとっては、最大の衝撃を与えた出来事である。今想っても痛恨の極み、ペンの運びは遅い。

 前号のよもやま物語(NO2)で詳述した、船舶飛行第2中隊隊長の本橋大尉機の墜落事故より旬日を経ずして、連続して哨戒中の山本大尉機に、エンジン停止の事故が発生した。

 昭和20年4月8日、当日は快晴の1日であつた。山本大尉と同乗の相原軍曹は、僚機と共に索敵哨戒飛行すべく、筒城浜基地を勇躍進発した。やがて玄界灘上空で索敵哨戒中、不運にも山本大尉機の前進プロペラが停止した。エンジン停止である。オートジャイロ機は、飛行中はプロペラの前進推力により、ローター(上部回転翼)が回転して揚力を保持しているが、エンジンが停止すれば推進力がなくなり、ローターは停止してしまう。つまり揚力がなくなり落下してしまう。
 山本大尉機は海上に不時着した。しかし飛行中の僚機には、之を救助する手段はない。救助用のロープなど持って居なかったと思う。僚機は山本大尉機に直ぐ救助するとの合図を送り、緊急に筒城浜基地に帰投する。勿論、僚機よりは筒城浜基地の中隊本部に、事故発生の緊急通信が発せられたと思う。

 緊急通信を受けた中隊本部は、急遽救助の漁船を走らせた。同時に漁船の誘導と救援を兼ねて、オートジャイロ機を進発させた。(僚機が帰投直後再び引き返したかも知れない)。漁船の足は遅いが救援機を追いながら、不時着現場へと進んで行く。然し乍ら悪い事は重なるもので、今度は救援機にエンジンストップ事故が発生して、海上に不時着してしまった。漁船は辛うじて救援機を救助する事が出来たが、肝心の山本大尉機を見失ってしまう。当然の事乍ら、空中からの誘導が無ければ、漁船のみでは不時着した山本大尉機の発見不可能であった。

 折しも迫る夕闇は絶望に近い。オートジャイロ機は有視界飛行の為、夜間飛行は出来ない。結局捜索は翌日に持ち越された。筒城浜基地の隊員達の心配は、山本大尉達の救命胴衣の浮力有効時間が、9時間しか保たない事であった(当時の救命胴衣はカポック綿が使われたいた)。翌日からも必死の捜索が続けられたが、何ら手掛かりはなかった。更に幾日か捜索は続けられたが、何等の手掛かりもなかった。

 そして1週間程経過した頃、五島列島のある小島で、山本大尉と相原軍曹の遺体発見の報せが、筒城浜基地の船舶飛行第2中隊本部に入った。二人は紐でしっかりと結ばれていたと云う‥‥‥。

 やがて山本大尉と相原軍曹の英霊を迎えた船舶飛行第2中隊では葬儀が行われた。中隊の隊員達は正装である第一種軍装を着用して葬儀に参列した。葬儀の隊列は村道を粛々と進み、葬儀場に向かった。葬送のラッパが、悲しく鳴り響き、長い葬列は黙々と続いた‥‥‥。

 次に山本大尉の人柄について私なりに述べる。新兵の私は山本大尉と直接お話した事はないので、当時の印象として申し上げる。山本大尉は、各民家に分散された宿舎の中で、見習士官達と一緒に居住されていたと思う。大尉の姿は飛行場ではよく見掛けた。船舶飛行第2中隊の将校の中では、陸軍士官学校出身の一番若い大尉であり、颯爽たる姿であった。大尉は見習士官達とよく相撲をとっておられたが、誰も適う者はいなかったという。大尉と見習士官とは格も階級も段違いだが、そんな事には拘わらず親しく接し可愛がり和気藹々の雰囲気であった。その明晰な頭脳と鍛え上げられた肉体と軍人精神は、船舶飛行第2中隊の大きな支柱であつた。又見習士官達の中心というか、隊員全員の人気の高い存在であった。前述の項で、石田村の若い娘さん達の憧れの的は、若い見習士官達であった書いたが、その見習士官達の憧れは山本大尉であった。相原軍曹は良く知らなかったが愛惜された人柄であったという。此の項終り。
 

 別項 B-29の思い出

元オートジャイロ部隊隊員 松本正二 東京在住


 「関西壱岐の会」のHomepageで「壱岐上空でB-29を撃墜」の記事を読んだが、私にもB-29の思い出があるので下記する。

 私が船舶飛行第2中隊(オートジャイロ部隊)に入隊前の昭和19年8月頃だったか、陸軍で北九州上空で撃墜されたB-29の性能調査が行われた。機体損傷の少ない不時着したB-29の1機に就いて、性能などを調査したものである。

 その調査報告が東京帝國大学の航空学科で非公開で行われた。当時私は東大の航空学科に勤務していたので、調査報告を拝聴する機会に恵まれた。調査報告は陸軍航空技術学校教官の井上航空技術中尉で、井上中尉は東大航空学科の卒業生でもある。中尉の報告の要旨は、B-29が当時の我が爆撃機に比べ、非常に優れていると云う事であった。それは

1.高々度で飛翔可能な装置を備えていた。即ち、エンジンには空気密度を圧縮してエンジンに送り、馬力を落とさない過給器を装備していた。

2.爆撃照準機が優秀である。之はノルデン照準機と云われ、1万米の高度より投下する爆弾の精度が、百米以内という優れたものであった。

3.4基エンジンのプロペラは可変ピッチであり、片側2基を180度ピッチを変え反転させ、水平旋回半径を小さくする様になっていた。

4.航続距離や巡航速度が大きい。

 以上が報告の要旨であるが、並み居る東大教授達にとっては、改めての驚きであった。当時日独は英米に比し、戦闘機では優位を保っていたが、重爆撃機爆では大きく後塵を拝していたと思う。