平成14年10月15日
陸軍オートジャイロ部隊よもやま物語(NO2)
 
元オートジャイロ部隊々員 松本正二 (東京都在住)


前書き
 前号の陸軍オートジャイロ部隊よもやま物語(NO1)に続き、本稿では(NO2)を掲載します。
 

よもやま物語(NO2)

  下の写真は、筒城浜基地に実戦配備されたオートジャイロ機。

3.船舶飛行第2中隊の構成・出自

ⅰ.中隊の階級構成
  
 筒城浜に実戦配備されたオートジャイロ部隊(船舶飛行第2中隊)の搭乗員(操縦員と偵察員)の内、操縦員の階級は中隊長の本橋大尉を頂点に、士官、見習士官、そして下士官は軍曹迄であったと思う。搭乗員の総数は約100名で、其の内操縦員が約50名、偵察員が約50名であった。搭乗員の内訳は、大尉、中尉、少尉の士官が3割で、残り7割が見習士官と下士官だった。見習士官達は、筒城浜基地から能登基地に転進した、昭和20年5月頃少尉に任官したと思う。

 一方、整備員は主として下士官、兵で構成され、人数は約40名だったと思う。一般に航空部隊は、歩兵部隊等と異なり下級者である兵は少なく、上位者である士官や見習士官が多く、頭デッカチな構成であった。一般に軍隊の要員構成は兵が圧倒的に多い集団だが、航空部隊は下級者より上級者が多数を占める特異な集団だ。
 更に驚いたのは、入隊後知り得た事ではあるが、我が船舶飛行第2中隊が、正規の航空部隊ではなく、砲兵部隊の隷下にあった事である。それはオートジャイロ部隊が、砲兵部隊の要請により誕生したからである。

ⅱ.搭乗員の出自

 搭乗員の約7~8割を占める見習士官や軍曹は、昭和18年10月の学徒動員で、砲兵部隊に召集され入隊した学徒兵であった。搭乗員達は主として早稲田、慶応、中央、明治、法政等の私立大学と、大学予科や高等専門学校の文系出身者であった。搭乗員の内、操縦員は甲種幹部候補生試験に合格、約1年間各地の陸軍予備士官学校で将校教育訓練を受け卒業後、出身母体である原隊の砲兵部隊に復帰後、オートジャイロ部隊隊員の募集に応募、厳重な適正検査の上、選抜採用された学徒兵であった。選抜後は、オートジャイロ機の操縦教育や航空学大要等を学び、実戦に備え訓練に訓練を重ねてきた。
 一方、搭乗員の中の偵察員は、主として乙種幹部候補生学校出身者から、選抜採用され訓練された下士官で、階級は軍曹であった。

 オートジャイロ機の搭乗員2名の内、通信と爆雷投下を兼務する偵察員は、オートジャイロ機の前部座席に着座、後部座席には操縦員が着座した。
 搭乗員の操縦・偵察訓練は主として豊橋市郊外の老津飛行場等で行われた。先ず昭和19年秋頃迄に1期生10名と2期生40名の合計50名が訓練終了した。船舶飛行第2中隊の初代中隊長の本橋大尉は第2期生であった。その他の偵察員の教育訓練は、各地の部隊でも実施され、総数は約50名だった。

 当時、私は筒城浜基地では整備兵として従事していた。私事で恐縮乍ら、私は入隊前の2年間、航空関係の業務に従事した居たので、一応航空エンジニアを気取って居た。筒城浜基地では文系出身の搭乗員達が、技術的には未熟だったので、若干軽視して居たように思う。

 尚、船舶飛行第2中隊は砲兵部隊だった為、戦闘機乗り等を本職とする、航空士官学校出身者や特別操縦見習士官出身者の正規の搭乗員は居なかったと思う。


 

ⅲ.搭乗員のいでたち

 当時石田村の人達、特に若い女性に人気があったのは搭乗員だった。搭乗員達のいでたちは、飛行帽にツナギの飛行服、半長靴で実に颯爽たる姿だった。更に飛行服、飛行帽等は茶褐色で、色合いも抜群だった。搭乗員の中でも、特に20歳前後の若い見習士官達の見栄えは良かった。
 中隊の雰囲気は、私的制裁の激しい歩兵連隊の内務班とは異なり、明るくて上下の差別も少なく比較的自由であった。夫れは国内の筒城浜配備と云っても戦闘集団で、即戦闘遂行が目的であるので、隊員全員の融和と親睦が必要からであったからだと今は思って居る。

4.オートジャイロ機の性能

 前書き
 此の「よもやま物語」は系統だったストーリーでは無いので、色々と話しが飛んだり逸れたり重複したする。又、約60年前を振り返って居るので、独断や偏見と史実に悖る面が有ると思われる。何しろオートジャイロ部隊は、戦後も戦友会は結成されず、従って元隊員との音信も無く、物語の監修はおろか相談する人も居ない。ご諒承を賜り度。

 ⅰ.中隊の目的

 船舶飛行第2中隊が、筒城浜基地に実戦配備された目的は、壱岐水道や対馬海峡を航行する船舶を、敵の潜水艦攻撃から護衛する為である。オートジャイロ機の任務は、これらの海峡上空を索敵哨戒飛行し、敵潜水艦を発見し爆雷攻撃を加え撃滅する事であつた。オートジャイロ部隊の基地は、筒城浜基地の他に、対馬にも実戦配備されて居た。壱岐と対馬に実戦配備されたオートジャイロ部隊は、敵潜水艦にとっては大きな脅威であり、その作戦行動を大きく制約したと思う。

 ⅱ.オートジャイロ機の弱点

 結論から先に言えばオートジャイロ機は、搭乗員にとっても整備員にとっても、不安要素の多い難しい航空機であったと云えよう。一つには発動機の不調が屡々発生する事であり、二つには着陸が大変困難であった事である。
 発動機不調とは、飛行中に発動機が停止する事だった。発動機が停止しても回転翼が回転して居る間は揚力があるので、直ちに墜落する事は無い。しかし其の儘、発動機の回転が回復しないと、墜落と云う悲劇に見舞われる。筒城浜基地に於ける半年間の事故原因の内、発動機停止に依るものが最も多く、事故機数は5~6機に達した。
 
 当時、発動機事故の原因は、私達一般整備兵には知らされなかった。私達は何故事故が多発するのか不安を抱いて居た。最近になって、玉手栄治氏著の「陸軍カ号観測機」を読んで、オートジャイロ機事故原因の一端を知る事が出来た。
 発動機停止により、昭和20年3月31日、中隊長の本橋大尉機が不時着したり、其の後、山本大尉・相原軍曹機が対馬海峡上空を索敵哨戒飛行中、墜落戦死した。其の他にも戦死者こそ出さなかったが、発動機停止による事故は発生した。

 船舶飛行第2中隊では、製造会社の神鋼製作所と萱場製作所の責任者を急遽呼び付け、事故原因の究明に当たらせた。事故機を綿密に調査した結果、燃料供給部分のニードルバルブの錆び付きが、発動機停止事故の主要原因であった事が判明した。そして其の対策が直ちに採られたと思う。此の事は私に取っては、戦後も長年の疑問であったが、玉手氏の「陸軍カ号観測機」を読んで判明した。玉手氏に深甚なる敬意を表する次第である。

 次に二つ目の問題は、オートジャイロ機が着陸するのに、操縦員は難しい技術を要した。オートジャイロ機の着陸は、基本的には水平に保ち、3点(前輪2個・後輪1個。下の写真参照。)同時着地する。しかし着陸中も上の回転翼が惰性で回転して居るので、当然の事乍ら揚力(浮力)を発生せしめ、機体は浮いてしまう。加えて着陸点が筒城浜の軟弱な砂浜(舗装無し)てあると云う悪条件が重なる。従って着陸する時に、3点の平衡が保ち難く、着地すると機体は躍り出してしまい、遂には横転し、回転翼を地面に叩き付け大破してしまう事がまま有った。
 私は整備兵として、此の状況を目撃して、自分としては如何共為し難く、痛切な無力感のみを味わった。此の様な事故は結構多く、5~6機以上が失われたと記憶して居る。せめて滑走路が砂浜の野原で無く、舗装された居たならば、大半の事故は防げたと今では思って居る。唯、大半の搭乗員は、事故により負傷しなかった事は幸いであった。
 余談だが、現在のヘリコプターの構造は「陸軍カ号観測機」とは全く違うが、着陸構造はスキーを履いた様な形をして安定して居る。此は不安定な3点着陸を避けたものと思われる。

 ⅲ.本橋中隊長機不時着・隊長重傷

 昭和20年3月31日、其の日の筒城浜基地は良く晴れて居た。当日私は整備兵として、通常通り飛行場勤務に就いて整備作業に従事して居た。当時、野原である筒城浜飛行場の南側は、稍高い崖に成って居り、其処は多くの松を始め雑木が繁茂して居た(現壱岐空港北端辺り)。
 当日本橋隊長機は、爆雷投下並びに空中訓練実施の為離陸、高度百米程度に上昇、海側から侵入し、雑木林の上辺りで旋回しようとしたら、急激に回転が減少した。本橋隊長の必死の回復操作にも拘わらず、隊長機の発動機の回転は復調しなかった。本橋隊長は前方の乾田に不時着すべく試みるも意の如く成らず、直下の松に回転翼を激突破壊させ墜落した。

 私は飛行場で整備作業をしていたが、突然南側の松林方向から、バリバリと異様な衝撃音が聞こえた。飛行場に居た隊員は一斉に松林の方向を見た。誰かが本橋隊長機が墜落したと叫んだ。多くの隊員達が直ちに救助に走った。松林に突き込んだ隊長機は、松に引っ掛かって宙ぶらりんであった。
隊員達の必死の救助により、重傷の本橋大尉を助けだした。2人乗りの隊長機に、当日偵察員が同乗して居たか否かは記憶にない。
 本橋隊長は、顔面やその他の部位を打撲し、膝の関節を複雑骨折して居た。墜落現場では、隊長の重傷に隊員達はショックを受け、騒然とした雰囲気であった事を思いだす。隊長は直ちに武生水の陸軍病院に移送され入院した。船舶飛行第2中隊長職の空白は一瞬も許されない。直ちに新隊長には、次席の湯浅大尉が任命された。1~2ヶ月経過した頃、退院した松葉杖姿の本橋大尉の離任挨拶があった。本橋大尉の松葉杖を倚り歩く姿に、痛ましい思いを感じて居た事を思いだす。

 本橋隊長の印象は、丸顔のガッチリとした体躯だった。毎朝、飛行場に全員整列して行われる中隊の点呼では、隊長は全隊員から敬礼を受けられるが、隊長の返礼の挙手は、手のひらが全部見える、ユニークの形であつたのを思い出す。そして「本日の訓練、空地連絡」等と大声を発せられた勇姿も想起する。本橋隊長は、下士官より将校試験に合格し、大尉まで昇り詰めた努力家だと聞いた。

 今年、平成14年1月始め、私は筒城浜基地を57年振りに訪れた。しかし年月の経過は如何共為し難く、当時の草原も無く、あの崖の松林も消えて居た。其の時の模様は、「関西壱岐の会」のHomepageの旅行見聞録の項に、「旧オートジャイロ部隊基地跡・筒城浜を訪れて」として、掲載して居るのでご覧賜り度。 此の項終わり。
 

 此の後も「オートジャイロ部隊よもやま話」を、順不同で連続掲載して参ります。次回は索敵哨戒飛行中墜落による、山本大尉・相原軍曹の戦死に就いて書く予定です。ご期待下さい。

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