平成14年9月15日
陸軍オートジャイロ部隊よもやま物語(NO1)
 
元オートジャイロ部隊々員 松本正二 (東京都在住)


前書き

 昭和20年1月、筒城浜に実戦配備された船舶飛行第2中隊(オートジャイロ部隊)を、よもやま物語形式で、当時新兵であった私の目で見た限りの範囲で書いて見ます。船舶飛行第2中隊に関する関連記事は、「関西壱岐の会」の「ふる里今昔」の項にも掲載してありますので、併せてご覧下さい。

1.船舶飛行第2中隊の成立のあらまし。

 ⅰ.簡単な自己紹介

 私は昭和19年9月、宮城県石巻(北上川の河口)へ召集されました。兵科は船舶工兵、任務は上陸用舟艇の操舵手です。その時同時に召集された兵は全部で数百名で、付近の国民学校の校舎を借りて宿営していました。間もなく、フィリッピンのセブ島へ向かうと告げられ訓練が続けられました。  当時は船団を組んで航行する輸送船は、目的地へ着くまでに敵潜水艦の魚雷攻撃を受け、10隻の内7隻までが沈められると云うような状況でした。そこで訓練は戦闘訓練と云うよりは、縄梯子を駆け上がる事から始まりました。訓練時、身に付ける物は銃の替わりに2米位の青竹1本、組縄、干飯、水筒などでした。それは乗船していた輸送船が沈められた時、海に飛び込み、筏を作って掴まり、救援を待つと云うのが、訓練の目的だったように思います。

 入隊して1週間ほど経った頃、人事係りの准尉に呼ばれ、急に転属を命じられました。行く先は広島宇品に在る船舶飛行第2中隊でした。石巻で召集された数百名の中より選抜された兵は5~6名でした。選抜理由は後で解りましたが、私の入隊前の略歴が、飛行機関連の職業に就いていたからでした。選抜された兵は、三菱重工の工場で組み立て作業をしていた者、航空エンジンに詳しい者達でした。私は転属命令を受けた者と一緒に列車で宇品へ向かいました。石巻で召集された同期の中、多くの兵は戦死されたと聞いて居りますが、私は船舶飛行第2中隊に転属した為、幸い元気で復員することが出来ました。人間の転機の予測は全く出来ないものです。

 ⅱ.宇品での訓練

、石巻から転属して来た我々5~6名を含め、全国から集められた船舶飛行第2中隊の新兵の総数は、全部で30名程度だったと覚えています。宇品湾に面する鯛尾の兵営は、正規の陸軍兵営で兵舎などの設備も整っており、本格的なものでした。私達は昭和19年末までの3ヶ月間、厳しい教育訓練に明け暮れました。オートジャイロ機(陸軍カ号観測機)のエンジンの学習や、吉島飛行場(当時宇品に在った)で、パチンコ(現場用語で正式にはゴム掛け始動)による、エンジン始動の実技訓練等もしました。このゴム掛け始動は間もなく中止となり、始動の主流はセルモーター始動に代わりました。

 この頃、広島湾に遊弋する通称陸軍の航空母艦(民間から徴用した数千屯クラスの輸送船を改造して、飛行甲板を装備した陸軍の艦船)数隻が碇泊しており、其の飛行甲板にオートジャイロ機の姿を見て驚きました。この空母の中の1隻が有名な「あきつ号」らしく、「あきつ号」はその後更に上陸用舟艇輸送船に改造され、南方方面に出撃中、台湾沖で敵潜水艦の魚雷攻撃で沈んだ聞きました。下の写真は「あきつ号」で、正式名称は陸軍特殊船。排水量9191屯、速力21ノット、日本海運からの徴用船。

 又、船舶飛行第2中隊の在った鯛尾湾内には、「マルレ」と呼ばれる特攻舟艇と、舟艇を操縦する少年特別幹部候補生達を見掛けました。特別幹部候補生とは、「特幹」と称し昭和19年、中学3年終了程度の少年の中から採用して、下士官を養成する制度でした。特幹生徒は、弱冠14~15歳の紅顔の少年で、早くも軍曹の階級章を着けて、60馬力のエンジンを搭載し爆雷をつけた舟艇に一人で乗り込み、みずすましの如く海面を疾走していました。特幹生徒達の1部は、フイリッピンのレイテ湾で奮戦したと聞きました。

 話しが少し横道に逸れましたが、宇品での訓練に戻ります。私達の様な機体整備を担当する新兵30名の教育は、昭和19年末で一応3ヶ月の教育を終了しました。一方同じ昭和19年末迄に、オートジャイロ機の操縦、通信、整備の任務に就く、将校や下士官達の訓練も終了し、出撃準備は完了しました。この様にして、各パーツが取り付けられて1個の製品が完成するように、昭和19年末に正式に「船舶飛行第2中隊」が、名実共に誕生しました。

  ⅲ.筒城浜基地実戦配備

 昭和19年末、鯛尾の連隊に船舶飛行第2中隊隊長の本橋大尉が着任しました。200名の全隊員が、第1種軍装に身を固め整列して、厳粛の中に船舶本部長から命令の令達がありました。その時船舶飛行第2中隊は、戦闘部隊として台湾出撃と告げられました。その後直ぐ、5日間の外泊許可が与えられ、私は大急ぎで帰郷して、これが最期になるかも知れない、懐かしい母との再会を果たしました。

 外泊が終わり、広島に帰隊すると、台湾行きは変更され、壱岐へ向かう事に決まりました。早速汽車で博多に移動、博多港から漁船に乗り、印通寺の港に入りました。

 筒城浜の飛行場には滑走路は造らず、筒城浜の原っぱをそのまま利用し、風向きにより4方8方に離陸することが出来ました。兵舎も新設せず付近の民家に宿営しました。大規模に設営しなかったのは、敵の目を眩ます作戦だった様に感じて居ります。  この項終り。
 

2.オートジャイロ部隊に関する文献・資料類の保存状況

前書き

 私は以前から、筒城浜基地に実戦配備されたオートジャイロ部隊が、資料・文献などとして、如何程保存されているかに興味を持っていた。特異な出自を有するオートジャイロ部隊が、極小部隊であったが故に、何の記録も残されず、歴史の表舞台から消え去っていたのでは、如何にも残念だと思ったからである。私はオートジャイロ部隊記録の保存状況を、少しでも解明すべく、5月末若干の余暇を得て、陸海軍関連の資料・文献などを多く保存していると云う、防衛庁防衛研究所図書館と国会図書館を訪れた。結果は芳しいものでは無かった。
 保存資料が少ないのは、オートジャイロ部隊は約200名の極小部隊で、存続期間も昭和19年12月~昭和20年8月迄の9ヶ月と短期間であった事と、戦後も戦友会などは組織されず、隊員相互の連絡も途絶えたまま、今日に至っている為だと思われる。

1.防衛庁防衛研究所図書館、国会図書館の調査

 先ず防衛庁防衛研究所図書館を訪ね、相談窓口で「船舶飛行第2中隊」に就いて調べたいと告げた。相談員から「陸軍船舶部部隊略歴其の1~其の4」の資料が出された。之の資料の内容は、船舶工兵、船舶歩兵、船舶海上挺身隊などの戦闘詳報とも云えるもので、輸送船団作戦、敵前上陸、補給作戦などの記録が掲載されていたが、全て外地部隊の記録であった。筒城浜基地などの内地部隊の記録は掲載されて居なかった。

 オートジャイロ部隊は、陸軍第14船舶団隷下であったと記憶していたので、出された資料を探したが、資料には第1~第13船舶団までは掲載してあったが、何故か第14船舶団は掲載されて居なかった。相談員に尋ねると、この資料は外地のもののみで、内地のものは無いとの素っ気ない答えであった。其の理由を尋ねると解らないと。要するに無いものは無いと云う、誠に不親切な対応であった。非常に不服ではあったが、如何とも成し難く引き下がった。

 次に国会図書館に行き、防衛庁図書館での調査の模様を話し、同様にオートジャイロ部隊について調べたい旨告げた。国会図書館の担当者は、オートジャイロ部隊の記録が無いのは、終戦時に抹消されたものだろう答えて呉れたので、幾らかは納得せざるを得なかった。しかし国会図書館担当者は防衛庁図書館の其れに比し、親切に応対して呉れたのは有り難かった。
 そして国会図書館では、例え内地部隊の公式なものが無くとも、別の角度から調べて見たらどうかと、その調べ方の方法などを教えて呉れたので、少し救われた気持ちに成った。私は今後共、継続して国会図書館やその他の場所でオートジャイロ部隊について、何か新事実を得るべく、調査して行きたいと思う。

2.戦友会について

 国会図書館の資料の中に戦友会の資料があり、オートジャイロ部隊に関する資料は無いか、興味を持って調べた。戦友会の資料には、全国で数十団体が掲載されて居たが、オートジャイロ部隊のものは無かった。全部調べたわけでは無いが、感じとしては戦友会の数が非常に少ないと思った。勿論、戦後60年も経過して、戦友会も老化風化している事と、敗戦の現実から戦友会を結成するのに後ろめたさの為、戦友会が結成され無かったものも多くあると思われる。
 
 私も若者には、戦争体験などに就いて語らない。現在の若者は戦争体験には全く興味を示さない。仮に話したとしても、戦争体験は通じない。私の戦争体験などは極く甘いもので、友人先輩の中には戦地より辛うじて生還された方も多い。其の方々達に戦争体験をお聞きしても黙して語って貰えない。この様な背景と終戦直後の記録の抹消が加われば、戦友会があったとしても記録として残ったものは少ないのが当然だと思う。又、結成されていた戦友会も、会員の高齢化と会員減少の為、解散されているのは、時代の趨勢とは云え、如何にも残念に思う。

3.オートジャイロ機

 国会図書館に日本航空機大図鑑と云う分厚い本が在る。大変懐かしい軍用飛行機群の殆どが、カラー印刷で掲載されている。
 勿論、オートジャイロ機も在った。機体は仙台に工場が在った萱場製作所製、発動機は神戸製鋼所製だ。図鑑の摘要には、当初は砲兵部隊の着弾観測に比島で使用われたと書いてあった。筒城浜基地での爆雷を吊って、対潜水艦攻撃に使用された事などは書いて無かった。
 現在ではヘリコプター全盛で誰でも知っているが、オートジャイロ機に就いて知る人は、戦争体験の老人でも僅かである。それも写真で見た程度で、実際に見た人は非常に少ないと思われる。オートジャイロ機はまだしも、我々オートジャイロ部隊の記録も無く、やがては幻の如く消え失せる運命だろうか。寂しい限りである。

 下の写真は、日本航空機大図鑑掲載で、上は筒城浜基地に実戦配備された「陸軍カ号1型」、下は筒城浜基地には配備されなかった「陸軍カ号2型」。

此の項終り。

続く

 今後「オートジャイロ部隊搭乗員」「本橋大尉機・山本大尉機の事故」等々、オートジャイロ部隊関連よもやま話を、順不同で連続掲載して参ります。ご期待下さい。

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