渡船の歴史


渡船簡略年表

 以下の表は、「建設局10周年記念誌」(大阪市建設局、平成11年)より渡船に関する記述だけを抜き出したものです。他にもたくさんあるはずなのですが、渡船の扱いはこんなものなのでしょうか?

1907(明治40)年4月 渡船事業の市営化
1932(昭和7)年4月 渡船事業が市直営となる
1936(昭和11)年6月 源八橋完成(源八渡し廃止)
1964(昭和39)年10月 天保山渡しに「みなと丸」登場
1970(昭和45)年3月 平田渡し廃止
1982(昭和57)年5月 難波島渡し・富島渡し廃止
1989(平成元)年1月 三丁目渡し・中渡船場廃止
1992(平成4)年12月 天保山渡しに新船「海桜」就航



渡船の歴史に関する文章


■橋梁・渡船の沿革

 大阪は河川・運河が古くから発達したところである。したがって橘の数も多く、昔から「なにわの八百八桁」として市民に親しまれてきた。
 大阪市内にはじめて近代的な橋梁ができたのは、明治3年9月府が施工した高麗橋(鉄橋)からである。その後明治22年の市制発布後、国道・府道以外の橋梁は市費で負担することとなり、また道路法の施行によりこれらの橋は市または市長が管理することになった。以後、橋梁のかけかえと改築は主に都市計画事業によって実施され、大正12年の関東大震災を教訓に近代的な耐震耐火構造の橋梁が誕生することになった。
 近年においては、都市防災および環境整備を主目的に橋の整備を推進し、あわせて、港湾地帯という性格から、今まで架橋の遅れていた西大阪臨海地帯の開発を重点的に計画・実施している。
 また、渡船は市民の日常通行に欠くべからざる施設であり、道路や橋梁と同様に国や市の責任により、運営・管理を行うべきであるので、本市では明治40年に安治川・木津川・尻無川および淀川筋の市内29渡船場を市営事実とした。
 大正9年旧道路法の施行により渡船が道路の付属物に位置づけされたことと、各種設備が整備されてきたことに伴い、同法施行後、有料制を廃止してこれを無料とし、さらに昭和7年には、請負制から直営方式に切りかえた。
 昭和10年頃には、渡船場は31カ所を数えたが、その後、橋梁架設・道路整備や第2次大戦による利用状況の激変により、その大半が不要となった。そして、戦後においても道路・橋梁など本市都市整備のいちじるしい進展、自動車利用の増加による交通事情の変化等により、現在では11渡船場になっている。(他に港湾局管理1カ所がある。)

(「事務事業概要」(大阪市土木局、昭和56年度版より))



■渡船

 本市では臨海地帯など架橋の困難なところには渡船施設を設け、両岸交通に支障のないようにしている。
 本市内渡船事業の歴史は古く、今から約300年も昔、萬治・貞享の頃までさかのぼり、代々伝えて家業とされてきたが、明治の末期を境に市設渡船の請負経営となり渡銭を徴収していた。
 しかし、大正9年4月に道路法が施行されその適用を受けることになったのでその頃から無料となり、さらに昭和7年4月からは従来の請負制度から原則として奉市の直営制度へと改められた。このときの渡船場の数は31カ所で1年間交通量は乗客3,976万2,414人、自転車その他は1,211万8,100台と記録されている。
 昭和57年6月1日現在の渡船場数は安治川・尻無川・木津川筋等あわせて9カ所(ほかに港湾局管理1カ所)で18隻の渡船が就航し、1日約7,700人の乗客と約5,900台の自転車等を運んでいる。このほか安治川には河底トンネルがあるが、これは、当時渡船場のなかでもとくに交通量の多かった安治川1・2丁目の「源兵衛渡」に代えて建設されたもので、昭和19年9月に竣工し今日に至っている。

(「土木局要覧1982」大阪市土木局、1982年)




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