H12年春、我が家を訪れた悲劇。肝臓を患った父と家族の長かったようであっという間の闘病記。
もちろん公開する以上、読んでもらうことを前提に綴ったのではあるが主目的は別にある。日が経つにつれ薄れていく事実の記憶とそのとき悟ったいくつかの想い。人は死ぬもの、それは自然のこととして、美化せず克明に覚えておきたいことのため、自分用に作ったページである。
よって、乱文散文により意味不明なところがあるかもしれないがご容赦いただきたい。

Duddy Daddy   ベンツマーク       home

 

僕は小さい頃から父が嫌いだった。口うるさいし何せ怖かった。いろいろと習い物をさせられ何かあるとすぐ「今はなんでも揃っていて何不自由なく、わしが小さい頃は・・・・」と説教された。言葉はきついし、顔も怖かった。

平成12年春、そんな僕の父は他界した。享年52歳。病死か医療事故による過失致死か、今となっては判らない、もう判らなくてもいい。でも忘れられないこと、美化なんかせず覚えておきたいことがある。


 僕の出身地は広島県広島市。被爆地のヒロシマである。祖母が被爆し、その後生まれた父は被爆2世。その息子の僕は被爆3世ということになる。僕の友人でもそういうやつは結構いて特別珍しくはない。

 平成11年の冬に父は被爆2世の健康診断(任意)を受けに行った。自分の健康管理に疎い父に、母が強く勧めたたためだ。その検査でC型肝炎に感染していることが発覚。さらなる検査で肝臓に影があることも解った。
まもなくそれが肝臓ガンであることが判明し、とある総合病院に入院した。

 ガンに対する処置として、代表的なのがやはり外科手術による摘出だという。誰でもそうなのかも知れないが、自分の体にガンがあると知ったらそれを取り除いてしまいたい、という心理が働くのだろう。父もそれを望んだ。病院もそれを勧めた。
僕を含む家族はというと、ちょっと違った。それはガンが見つかり、入院して、肝臓を切るという大手術をする、という話までがあまりにも早いことに戸惑いがあったし、手術以外にも治療法があると病院側は説明していた。それらをより検討したほうがいいのでは、と思ったからだ。主治医の先生の話を要約すると「手術が一番確実。他の方法もあるが再発の可能性がある。手術が100%とは言えないが今なら日程的に比較的早くできる。」というものだった。
結果、父の意向を汲み父は肝臓ガン摘出手術を受けた。



 無事手術は終わり、その後の経過も良好だった。手術後1週間は。

食事も流動食から普通食に変わり、もう起きあがれるかという8日目、容態は急変した。 
仕事中携帯が鳴った。母からだった。容態が変わり今の病院では対応できないからもっと大きい病院へ移る、というのだ。はぁ?どういうことだ?まもなく転院先が大学病院に決定し僕もそこへ急行した。

だだっ広い病院のロビーできょろきょろしている母を見つけた。救急車の音が響く。父が搬送されてきたようだ。母はいつになく表情が乏しく冷静に見えた。ことの重大さを感じた。

 父の病室に案内された。現在ICUは空きがないとのこと。肝臓が悪いと黄疸がでるとよくいうが、この時の父は人の肌はこんな色になるのかと言うほどの顔色の悪さだった。これが土色と言う奴かと思った。

 肝臓は血中の不純物を除去する機能を有する。その肝機能が極端に悪化すると不純物が除去されないまま血液が体内を巡り、一時的な脳障害を引き起こす。肝性脳症というらしい。それは幻覚、幻聴を引き起こす。

 大学病院では精密検査と同時に血漿交換が行われた。足の付け根の大動脈から血液を抜き、大きなマシーンにより汚れた血漿ときれいな血漿とを交換する。そしてきれいな血漿と交換された血液をまた体内に戻すらしい。こうしてないと父の体は数時間しか持たないというのだ。

血漿交換が進むとようやく父と会話ができた。しかし父は自分に何が起こっているのか自分の状態を把握していない。血漿交換による発熱と悪寒があり、かなりしんどいようだ。病室の壁のヒビとかしみを見て虫がたくさん動いている、とか闇の組織が自分を苦しめている。。等と何度も何度も繰り返し言い始めた。脳症による被害妄想や幻覚である。そんなことないよ、と必死になだめるが聞かない。このとき言葉では表せないとてつもない不安を感じたのをよく覚えている。
「おい、あそこの壁見てみいや、ようけ虫が動きよるじゃろうが。ほらあそこも!」


家族が別室に呼ばれたのはもう深夜だった。検査の結果を聞いた。「前の病院で1/3を手術で取っている。今はその残りの肝臓が壊死してしまっている。肝臓の中央に大きな動脈の門脈というのがり、それが血栓により詰まってしまっている。その影響で肝細胞への血流が途絶え、壊死したようだ。血栓の発生原因はまだ不明。どう処置するかはまだ検討中。」
そのまま朝を迎えた。

明朝、今後どうするか説明を受けた。このままずーっと血漿交換し続けるか、肝臓移植するかだった。
病院側はこの説明を若干しずらそうにしていたが選択肢がこの2つなら答えは解っている。移植である。
脳死ドナーを待つ時間はない。生体肝移植である。僕と,弟と,叔父がドナー検査を受け、年齢と体格からドナーは僕になった。僕もそれを希望していた。そのまま即入院となった。移植手術は翌日である。
主治医はすぐ血液センターに輸血の準備を手配するように他のスタッフに指示していた。


全く自分には不安はなかった。父のC型肝炎が見つかって以来、本やネットで肝臓のこといろいろ調べていて、ヒトは肝臓の痛みを感じないこと、肝機能には余剰があり健康な人なら肝臓は1/3で生きて行けること等を知っていたからだ。

明朝、手術は行われた。手術は僕の方が8時間程度、父の方が16時間程度かかったらしい。


 この手術で僕は,お腹の中央から3方向に切られた。医師の間では通称ベンツカットというらしい。お腹を開くということは当然腹筋を一度切断して再度縫いつけるわけで、手術の麻酔がきれた後の約1週間、強烈な痛みに襲われた。切腹した人の気持ちが解ったというものだ。その痛みときたらハンパじゃない。これまで味わったどの痛みより数倍苦しい。もうお腹が痛いのかどこが苦しいのかさえ解らなかった。


父の方は術後はずっとICUで僕の肝臓が定着するか、拒絶反応がないか、感染症がないか24時間体制で完全看護である。父は手術前、僕はすでに手術室に入っていたとき、一度正常に意識が戻ったらしい。これから移植手術をすること、そのドナーに僕がなったことなどを告げられると、少し間をおいて「すまんのう・・・」と泣いたという。


 ICU(集中治療室)へは1日に2度、1度に2人の面会が許される。入り口で消毒され、専用の帽子、マスク、白衣を身につけいくつかの自動ドアを抜けて入室する。
父はその中のさらに別室で数人の医師と、いろいろな精密機械に囲まれて治療を受けていた。
父の様子は面会に行った母や兄弟から聞いた。周りからの呼びかけに眉間にしわを寄せるなどで反応するとのこと。
どうやら意識はあるようだ。


 僕の方は10日程激痛に悶絶する日があった。もともと健康で酒もあまり飲まないので医者がびっくりするほどきれいな肝臓だったらしい。お医者さんはその職業柄きれいな内臓を見ることは少ないらしいが・・・・健康体は回復が早いがその分痛みが大きいとも聞いた。

僕の体からは首根っこへの点滴の管と腹水ドレンのパイプと尿管、背中には麻酔の注射の管が伸び、枕元には何やらピカピカ赤いランプの光るマシーンが置かれ、それから伸びるボタンを持たされていた。そのボタンを押すと背筋がひんやりした後激痛から解放される。少しボーッともするが。投与される麻酔が結構強力らしく、1回に注入される量と一定の間隔を開けないと注入できないように監視するためのマシーンだ。「苦しくて我慢できなくなったらボタンを押してね」と看護婦さんは笑顔で言ったがとても返事をする余裕はない。

 人は腹筋がないとまともに生活できないのをひどく痛感した。足はおろか頭を起こすことができず、枕の座りが悪いのを手で頭を動かしてやる必要がある。それはまあいいのだが、タンを切ることができないのはまいった。普通はタンが絡む前に飲んでたり、タンが絡んでも咳払いをしてタンを切っているものだが、腹筋がないとそのタンが徐々にのどにたまる。それにより呼吸困難になるのだ。タンがたまると看護婦さんを呼んでバキュームでのどの奥を吸ってもらうのだがこれが想像以上に苦痛で、例えるならゲロを吐く寸前の「おえっ」って奴が吸い取られている間ずっと続く、といえば判るだろうか。
麻酔の副作用でか不眠にもなり、こんな感じで術後約2週間、麻酔が切れるのとタンが溜まるのに恐怖しながら時間の感覚もなく、天井の模様と壁の染みを眺めながら手に持つボタンを連射していた。


確か3週間目ぐらいだったか、歩くリハビリを始めた。内臓を切るとその患部から体液が出て腹水が溜まったり患部がその周りとくっついて癒着する。癒着すると内臓が動けないので食事できない。そうなると点滴が外せない。点滴スタンドをひきずってICUには入れないのである。癒着を防ぐには多少運動が必要と聞いた。
腹の右下にφ10ぐらいのパイプが刺さっており、その先に袋が付いている。そこに溜まる腹水の量が減り、ウミもなくなったことから尿管と共にパイプは抜かれた。

1日も早くと思い懸命に歩いた。長い廊下でうずくまることもあったが看護婦さんたちも状況を判ってくれたのかムリに止めたりはしなかった。

そんな中、忘れてはいけないなと思ったことがある。
点滴を引きずり、長い長い廊下を歩いていてもっと距離を伸ばそうと、病棟から遠くのロビーまで行こうとしたときのことである。
パジャマ姿の入院患者やお見舞いの人、外来の人や病院のスタッフ、僕と同じように点滴同伴の人が行き交っている。廊下を進む一連の流れのなかで、極端に歩くのが遅い僕をいろんな人が追い抜いて行く。廊下に置いてあるソファー、そこに座る人、立ち止まっている人、普通なら何でもない障害物、1~2m先の物しか見えてなく、それをなんとか避けながら点滴のスタンドのコロのカラカラ言う音しか聞こえてなかった僕は、自分の状況がやっと判った。
 何か急いでいるのかすれ違いでギリギリで避けて行く人もいる。周りの人からは自分が「なんとか歩ける人」に写ってないのはよくわかった。ヤバイ、なにかぶつかったら多分コケる。この状態でコケるとヤバイ。。なんか麻酔も切れてきた気がする。
正直怖かった。中には大きく避けてくれる人や待ってくれる人もいてそのときは心から感謝した。
どうにか病室に戻れて、改めて健康のありがたさを痛感するとともに世の中には普通に見えてギリギリの人も結構いるのかも知れないと思った。例えば街中の大きな交差点を渡る人の群れの中にも、バスや電車を待つイライラした人の列のなかにも、普通にしてるように見えてもそれが精一杯の人とか・・・
国道を走るトロくて邪魔な原付のおばちゃんにも優しくしようと思った瞬間である。



 精力的なリハビリの結果、術後約4週間で点滴が外された。その点滴針は首もとに縫いつけられており、抜糸と同時に引き抜かれた。そんなに入ってたのか、というほどの管が首から出てきた。やっと手ぶらで歩ける。
晴れてICUに父の面会に行ける。面会の時間がきて母にICUの入り方を教わり、入室した。
父とは約1ヶ月振りに会うことになる。

自動ドアをいくつか抜けてICUのほかの患者さんたちのベッドの列の横にガラス張りの別室があった。
その中に大きな機械に囲まれて、いろんな配線や配管が繋がった父がいた。
母はいつものことで父に今日起きたことや僕が初めて面会にきたことを語りかけていたが、僕は正直言ってかなりの、かなりのショックを受けた。
顔色は悪く、痩せこけている。時折苦しそうに眉間にしわを寄せ、細くなってしまった足を曲げ伸ばししているのだ。なんとのどには直接呼吸器が取り付けられ、ゴムの袋が膨らんだり縮んだりしている。おいおい、良くなっているんじゃなかったのか・・・
すぐに医師に状況の説明を求めた。


移植された肝臓を、体は異物として拒絶する。拒絶反応を抑えるため免疫抑制剤が投与される。その結果何の免疫のない、あらゆる菌に感染する状態となる。感染症にならないよう血漿交換しながら移植細胞が定着するのを待つ。ということらしい。

ICUの面会には僕を加えこれまでと同様に交代で行った。父の最愛の孫、僕の姪の歌やかけ声をテープに撮って父の部屋で流してもらったりもした。しかしなかなか好転の兆しは見えなかった。



術後1ヶ月半たったある日、僕は面会時間でもないのにICUに呼ばれた。そして家族を集めるよう言われた。もうダメかも知れないと言う話だ。父はこれまで移植手術の後も何度か開腹されていた。やはり経過がいまいちで感染症により腹水に膿みが混ざったりしていたのだ。最後の開腹では何も処置できないほどであったという。

父に会いに行ってみるとなんと父のベッドは頭を下にして大きく傾けられていた。体力が低下しており自力で血液を循環させれない。一番強い強心剤も、もう効かないというのだ。傾けられることにより父の顔はパンパンに腫れ上がり、充血している。「・・・やめてください・・・・」「えっ?」「戻してください・・・・・」静かに言うことしかできなかった。「はい・・・」医師も判ってくれた。父の体は水平に戻され徐々に顔の腫れもひいた。

何時間か過ぎて、ICUに家族全員が入っていいと連絡があった。いよいよ最後だというのか。
父の周りを取り囲み家族みんなで励ましの声をかけたが、徐々に下がる心拍と心電図の波の低下は止まらなかった。鳴り響くのは機械の呼吸音だけだった。

こうして父は、無言のまま亡くなった。

死因は、多臓器不全。多臓器不全の原因は劇症肝炎(肝不全)。劇症肝炎の原因は、不明とされている。



 父の死後、家族揃って最初に肝臓ガンの手術をした病院に怒鳴り込んだ。こんなことになった責任の追及のためだ。
父の容態が急変したのはガンの手術の1週間後である。その手術で何があったのか、術後の管理はどうだったか。病院側は申し訳なさげに説明をくれた。要約するとこうだ。「非常に残念なことだ。原因は判らない。医者は神様じゃない。生存率は100%ではない。手術前に説明している。誓約書も書いてもらっている。ご愁傷様です。」というものである。
当然納得するわけもなく、叔父にいたっては目の前の机をひっくり返す勢いでバンバン叩きながら抗議した。
そして医療事故の裁判に向け、医療事故に詳しい弁護士に父のカルテやその他の書類の証拠保全のための申請をした。




 それと前後して父の荷物の中から1冊のメモ帳が見つかった。
最初の病院での生活用品を、母が整理していたときのことだ。父が仕事で使っていたような使い古しのメモ帳。その中になんと、家族に宛てたメッセージが綴ってあったのだ。気付かず捨てそうなほどのメモ帳の中程に、走り書きのような字で、長年連れ添った母へメッセージや、最愛の孫達へ宛てた言葉、まだ見ぬ僕の子供に小遣いをやれない無念さ、等々家族それぞれに対して記してあった。
なんということだ。こんなテレビドラマみたいなことがあるのか。僕は、してやられた感一杯で笑いがでた。涙も止められなかった。

 しかし父はこのメモをいつ書いたのか。
当然最初のガン摘出手術の前ということになるがこの手術自体、イチかバチかみたいな手術じゃなかったはずだ。この時すでに「もしもの時」を覚悟していたのだろうか・・・・
恐らくは、厳格だが小心者の父のことだ。復帰後人知れず破り捨てるつもりだったのか。

                   

 孝行したいときには親はいない。と聞いたことがある。
僕は当分の間、父の墓に手を合わせることができなかった。言い残したことがありすぎて「安らかに眠ってくれ」という気持ちになれなかったからだ。

幼少期から父の僕に対する期待は大きかった。自分の小さい頃にできなかったことを子供にさせようとするよくある親のエゴである。僕はそれをことごとく裏切ってきた。いろいろと習いものをさせられたが身になるものはなく、勝手に進学先を決めて家を出て一人暮らしをし(親の金で)、まだ早いからもうちょっと待てという父を振り切り結婚し(親の金で)、1年足らずでうまくいかなくなり、頭冷やしてもう少し考えろ、という父を振り切り離婚した。
申し訳なさすぎてちゃんと謝ることもできずにきた。勘当されてもおかしくないが父はだまって見守ってくれた。
そしてようやく転職で僕が広島に戻ったとき、一番喜んだのは父だった。

そして1年後の春、父は他界した。





バイクのツーリングがてらよく霊園に立ち寄る。線香をあげる訳でもなく、手を合わせる訳でもなく、一服しながらいろいろなことを思い出す。
そして後悔の念に襲われる。


ヒトは忘れて生きていく動物である。これもどこかのエライ人の言葉だろうか。記憶を都合のいい方へすり替えてしまう。それがヒトの生きる上での前向きな行為ならいいことかも知れない。

日が経つにすれ父の死の悲しみは薄れてきた。世の中にはもっと悲惨な別れを強いられた方が大勢いるだろう。もし父の死が交通事故のよう何の前触れもなく突然やってくるものだったらどうなっただろうか。僕が忘れちゃいけないって思ったのは何だったっけ?




あれから何年か経ち、今、父の墓の前に1歳になる息子を抱いて立っている。
でれでれのじーちゃんとなる父を想像する。
生きていれば55歳。生きていれば自慢のクラウンに孫達を乗せてドライブしまくってるだろうに。



 最近やっとこう思えるようになった。誤解を恐れずいうならば、父は死んでよかった。父はあの手術で死んで良かったのだ。もし生体肝移植が成功したとしても、その後の闘病人生は想像を絶するものだったはずだ。
最初にガンに対して外科手術に踏み切ったのも、病院嫌いの父が抗ガン剤など薬付けになりながら徐々に弱っていくのではなく、スパッと切って治るか死ぬかという観点で決めている。しかし思惑に反し劇症肝炎となりモルモット状態となってしまった。昔ながらの石頭の父は、意識があれば必ず、息子をドナーにする移植手術の話はかたくなに拒んだだろう。思わず息子にメスを入れられて、その僕が完全に復活するのを見届けないと死ぬに死ねなかった。しかし僕に後遺症も何もないことを確認したら「書き置きもしてあるし、保険もあるし、人生太く短く。」と逝ってしまったのだ。

僕も息子ができて親になり、少し偉そうだが人の親として父の死を考えた時、自然とそういう考えに結論付いた。


で、僕が忘れちゃいけないことは何か。父の死に対する後悔の念である。真剣にイタコを探そうとするくらい・・・・そんなに悔やむなら生前に孝行しとけ、ということである。

あの頼りがいのある強面の父の,最後の顔、のどにパイプを突っ込まれ、真っ黄色でやつれ、目には眼球の乾燥防止のワセリン薬が盛られたあの顔を。最後に交わした言葉、肝性脳症による幻覚と被害妄想をなだめただけの会話。全身全霊で戦った、このカッコ悪い最後の姿を美化せず鮮明に記憶しておこうと思うのだ。
そして息子が大きくなったとき、話してやろうと思う。どうしてお腹にベンツのマークがあるのかを。
その時僕はどんな思いを抱いたかを。

どう伝えてやるか、ゆっくり考えるとする。





PS 少なくとも僕は医療事故だと思っているが、この件での起訴等の出るとこ出るぞ的な動きは本文中にもあるように、カルテの証拠保全と第3者による医学的検証までである。勝てるかどうかは別として、泣き寝入りはすまいと裁判で争う覚悟はしたが、実際は取り下げた。僕を含め残った家族は、父を失った悲痛を戦うことを糧として耐えて生きる、という雰囲気ではなく、父の死のせいで家族のこれからがどんよりしたものになると父が悲しむ、だからしっかり受け入れて乗り越えよう、という感じだった。
 気がかりだったのは母のことだが、その母が1番その後活動的になった。これまでできなかったこと、父がいたらできないであろうことを勢力的にやり始めた。止めはしないがもう不良中年は過言ではない。息子の僕からすると安心していいのだかどうだかって感じもあるが楽しそうなので良しとする。体にだけは気を付けてもらえれば好きなことをしてほしい。うちの家系は女が強い。まだまだ先は永いのだから。

2004年春記



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