えらい久しぶりの供養所に登場するのが、血の薫りと妖気ほとばしる男となろうとは… 自分でも驚きです。 さて、「野望の王国」は、「美味しんぼ」でまったり原作者としての地位を確立している 雁屋哲氏が 昭和50年代に由起賢二氏と組んで描いた凄絶な野望の戦記です。 …作品自体は一種の成りあがりモノですが、内容は戦記としか言いようが無い… かの「サルまん」の元ネタとしても知られる作品ですが、入手は困難でこれまで読む機会 に恵まれませんでした。 このたび、GAME THEORYのいかすけさんの御好意で全巻読むことができ、 すさまじき野望のインパクトにたっぷり震えさせていただきました。 「この世は荒野だ! 唯一 野望を実行に移すもののみが この荒野を制することができるのだ!」 「政治の本質は暴力だ、おれたちは自分たちの世界を作るために牙を振るうのだっ!」 主人公・橘征五郎は、一心同体の相棒・片岡、トクと共に、「野望」を果たすために 肉親の絆も人道も糞喰らえの精神のもと、騙し・脅し・殺し・壊し、 ありとあらゆる手段を使って突っ走ります。 人間ひとり勧誘するために駒場東大の時計台を爆破するムチャぶり。 …まあ、本作では、 軍隊ひとつをまるごと道の下に生き埋めにするヤツや、 一人の人間を牢から出すために川崎市全体を事故の嵐にぶちこむヤツなど、 ムチャクチャな連中には事欠かないんですけど…。 当然、征五郎達の前には野望への道を阻む「ライバル」が次々と現れてきますが、 全28巻を通して「別格」でありつづけた存在が二人。 兄、橘征二郎。 そして、柿崎憲。 征二郎は、当初から征五郎の最大の敵となることを約束されていました。 桁外れの頭脳、人徳、戦闘力、精神力。 なにより、征五郎が手に入れるべき「組織」、橘組の持ち主。 赤寺という参謀も含め、征二郎の力は征五郎よりも上。 真正面からぶつかる構図では、征五郎陣に勝ち目は無し。 にもかかわらず、物語を通し、征二郎と征五郎の直接対決は巧妙に回避され続け むしろ二人は共闘せざるをえない状況にあることが圧倒的に多かったのです。 それは、柿崎という男の存在ゆえ。 当初持っていた「キャリア・警察署長」という肩書きは、全編を通して考えると 柿崎にとってはオマケ程度のものでしかありません。 「自身の野望に反する存在」への憎悪、非道さは征五郎の比ではなく、 単独の戦闘力と生命力、裏人脈、知力も征二郎・赤寺コンビに匹敵するケタ外れぶり。 そして、たとえ男にケツを犯されようとあっという間に復活する執念と意志力。 元から有している組織力や人脈について言えば征二郎のほうが上ですが、 柿崎は「人情」というものをまるで解さないので、なりふりかまわぬ人質作戦を 征五郎の邪魔無しに貫ければ柿崎が「勝利していた」ことでしょう; けれど、柿崎が真に恐ろしいのは、むしろ自らの野望を砕かれた後。 征五郎達の小細工が多少はあったとはいえ、橘組がいかなる手段を講じても ことごとくの場面を柿崎は生き延び、新たなる力を得て復活してきました。 復活するたびに人相が変わり、作品末期の柿崎はまさに「悪鬼」。 特製のヤクを身体にブチこんで、震え、雄叫び、 圧倒的な殺戮を「一人で」繰り広げるその様は、美しさすら感じる凄惨さを帯びています。 「野望の王国」へと至る道の戦いの後半部は、「表向き」政界の黒幕・大神楽を 頂点とする「国家」との駆け引きが中心となっています。 にもかかわらず、実際は、柿崎という「元・地方警察署長、のち逃亡者」が常に たった一人で自力で這い上がっては征五郎達の最強の敵であり続けました。 征五郎の「味方」「敵」は新たな局面を迎えるごとに変化していますが、 「片岡」「トク」「疋矢」は死ぬその瞬間までかけがえのない味方でした。 特に、中途から同志になったにも関わらず、図抜けた用心深さ、忠誠心と運の強さで 征五郎を支え続けた疋矢の力は野望達成の大きな一要因です。 更に、征二郎も、結局は最後の最後まで征五郎の味方でした。 征五郎のすべてを許し、橘組を託して去りました。 これだけの「絆」を向こうに回して、柿崎は本当にいつでも「一人」。 彼にとって、自分以外の人間は「敵」「利用されるべきもの」「ゴミ」にしか分類されず 愛情などというものは、敵の家族を人質に取る時に役立つ愚かしい感情でしかありません。 「世の中には食う者と食われる者と二種類の人間がいる。 お前の命運は尽きた。お前は私の餌だ、私に食われるのだ」 こんな言葉を自然に言えるのは柿崎ならでは。 征五郎達の「支配する者と支配される者」という区分より更に暴力的です。 物語中、彼の家族について深く語られることが無かったのも印象的。 徹底して柿崎は「一人」でなければならず、あらゆるものを信じず、ただすべてを 支配するため、自らを虐げたものを「破壊」するため、手段を選ばずに生きる。 もはや、「人間」ではありません。 およそ、ポジティブな意味で「人間らしさ」に区分される感情…征五郎で言えば、 友情や兄弟愛といったもの…を柿崎は持たないのだから。 「夢を捨て野望を捨て、男は生きられるのかっ!」 征五郎はそう叫びましたが、彼は「夢と野望」以外のものも捨てられないからこそ 涙を流して苦しむのです。 柿崎はそんなことを振り返って苦しみません。 とっくのとうに捨てているのか、あるいは最初っから持っていないのか。 とにかく、彼には「夢」すら感じられません。 彼の血管に流れているのは野望と復讐だけ。 そう言ってニマリと笑った柿崎の貌は、子供ならその場で失神しようかというほど 凄絶でした。 そこにあるのは、純粋なる復讐心のみ。 その圧倒的な妖気が、征二郎さえも圧倒し、骨肉の争いを演出する寸前まで行ったのです。 柿崎は、ほんとうに凄い敵でした。 彼が敗北したのは、「野望の王国」が「野望」をテーマにしたように見せつつも 実際は「仲間との、死をもいとわぬ絆を持つものが必ず勝利者となる」という裏テーマを 持っていたがゆえのように思います。 そうでなければ、最後の最後で柿崎が橘一家と天星を血祭りにあげ、あらゆる手段を 尽くして凄惨な野望の王国を作り上げることすら可能だったかもしれません。 どんなにみじめな状況にあっても、どんなに他人に媚びるハメになっても、 全ての行動を生きる方向、復讐を果たす方向、野望に走る方向へと向け続け、 ありとあらゆる「他人」をクズ、道具とみなす精神だけは失わない。 たびたび、自らは非情である、勝敗に正義などない、と論理的に主張したがる征五郎も いざ愛する肉親の死に直面すると情に流れてしまいます。 そのようにたびたび「迷う」征五郎に比べ、柿崎の迷いの無い精神は 「悪のカリスマ」として燦然と輝いています。 少年漫画でたとえるなら、「JOJOの奇妙な冒険」のDIOでしょうか。 「善」のヌルい概念をハネつける、圧倒的な「悪」のオーラ。 「そこにしびれる、あこがれるッ!」というヤツです。 別に、柿崎を肯定すべき、主人公にすべき、と思っているわけではありません。 反社会的な生き方とか、復讐心そのものに憧れているわけでもないです。 最後の最後まで、みなぎる殺意を隠さず、征二郎に致命の一撃を叩きこみながらも 全身に銃弾をブチこまれてついに散った魔人・柿崎。 「きさまを地獄にひきずりこんでやるっ… …… 暗い … 空が真暗だ……… 」 最期まで往生際の悪い、執念深い男でした。 だからこそ恐ろしく、憧れる。 ……DIOとてそうでしたが、悪は「敗北する」からこそ美しい、のでしょう。 つくづく「野望の王国」とは、征五郎・征二郎の絆、そして柿崎との戦いこそが 中心であったと思います。 柿崎と征二郎が散ったのちのストーリーが空虚に思えること思えること… 天星との戦いが盛り上がらなかったのは、原作や演出の問題ではなくて 「自らは戦わず、実態の見えづらい<宗教>に頼るのみ」だった天星が、 敵としてあまりにも物足りなかったからです。 最終巻には 「いちおう天星も、本来は敵だから倒しておかないとね」 「そろそろ片岡も用済みだね」 という「後処理」の印象すら受けます。 ラスト、野望の王国を手にし、征二郎の落とし種に野望が芽生えたのを確認した 征五郎の脳裏によぎる、かつての仲間、家族達。 ですが、もっとも征五郎の脳裏に焼き付いて離れないのは、やはり柿崎の姿 だったのではないか、と思えます。 そこに触れてほしかった。 間違いなく、奴は最強・最悪の敵であり、悪魔じみた味方でもあったのだから。 「凄い人だ」「恐ろしい人だ」「最強だ」 ここで私がどんな言葉を紡いで彼を持ち上げようと、柿崎は 「当たり前のことをクドクドと書くんじゃない、クソバエが」 と唾を吐き捨てながら私のこめかみに銃弾をブチこみ、鬱陶しそうに去るのでしょう。 そんな柿崎で結構、結構。 軽く数千人の死者を出した桁外れのスケールを誇る本作の、ほとんどあらゆる憎悪を 一身に受けるに足る「敵役」として、柿崎は私の「憧れ」であり続けると思います。 奴は「鬼」でした。 ただただ、凄絶なる「悪鬼」でした。 |