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大里・あの頃
門司区大里の思い出を皆さんに語ってもらいました。

ろくむしやろうぜ



なんちゃって京女
 昭和三十年生まれの私のあやふやな記憶に残る商店ですが、まず吉谷薬局(船越栄一似のおじ様が優しい物腰でお薬の説明してくれはった)さんの並びの商店。
そのお隣がお茶やさん(小柄で上品なおば様がにっこり笑うて座ってはった)のお隣がおすし屋魚忠(うおちゅう・ここのすうどんと鉄火巻きが大好きやった地球最後の日に食べたいものベスト1どす)のお隣がバー(ハンサムなバーテンさんがいはりました)のお隣が生田商店さん(いくたしょうてん・干物乾物練り物等売ってはった。卵買う時に一つ一つ電球にかざして新聞紙にきっちり包んでくれはった、何見てたんやろか)のお隣がおかしやの甘陣さん(あまじん・クリスマスにブーツに入ったお菓子の詰め合わせやアイスクリームのクリスマスケーキ買うてもろたりお世話になったやん)のお隣が貸し本屋さん(まんが大好き少女でした。目の中に星のあるヒロイン・・生活苦しいのにフリルのあるブラウスやらスカートはいてんねん。
梅津かずおの恐怖物『猫面」やら「蛇女」それから白土三平「カムイ外伝」とかとにかく二日おきくらいに通っていたような・・・今でも時々夢の中で「はよ返さんと延滞金とられる」てうなされてん・・)柳町じゃなくて以前は北方町でした。

歌う果物屋
 吉谷薬局のおじさんは、船越栄一そのものでしたね。
そのおじいちゃんは、門司市の著名人録で出てるほど有名な盆栽愛好家で、二階の物干し台は盆栽でいっぱいでした。
クリスチャンでもありました。
戦前の著名人録には「ヨシガイ」とふりがなをうっています。
その吉谷さんがホットドック屋を隣でしていたことがあるんです。
その後に、モダン焼き屋をしていました。
太鼓饅頭の細長いやつで、アンとカレー入りがありました。
甘陣さんでは、マーブルチョコレートをよく買って食べてました。
また、その隣の貸本屋「日照堂」では、月刊漫画誌の付録が別売りされてて、よく買っていました。
一番印象に残っているのが、紙工作のレコードプレーヤー。
針を乗せて、ソノシートを指で回すと、アニメソングが聴けました。
中学になってからは、「明星」や「平凡」の歌集の付録を買ってました。

なんちゃって京女
 吉谷薬局のおじ様・・ただものではなかったんやね~尊敬です。
ところで高田先生ですが私の小学校六年生の時の担任が高田貢先生(よく大きなくしゃみをしていたので、はくしょん先生ていってた)。
柳西中学校三年生の時の担任が高田先生。
ぞう先生ていってた。
確か社会科の先生できれいな字で猛烈な勢いで板書してたのでノートに写すのが大変やったな。
男の子がわるそしたら廊下に並べて大きな手でげんこつしてた。
その当時は先生の言うことは絶対やったねみんな純真やった。
 
歌う果物屋
 柳小学校の運動会、今は飲酒は禁止だそうです。
僕らの頃は、業者がビールを売ってたし、お面とかも売ってましたね。
フォークダンスの時は、好きな女の子が近づく瞬間に曲が終わって、いつもがっかりさせられてました。
 キャバレー関門の写真ですが、僕の同級生が元酒屋で、そこのお父さんが経営していたので、入手することができました。
石原裕次郎とそこで飲んだと言う今村先生に喜んで頂いたようで、幸いです。
錆びたナイフのロケーションの時でしょうね。 

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ろくむしやろうぜ


歌う果物屋・大里少年の歌(ろくむしやろうぜ)

なんちゃって京女
 昭和三十年生まれの私のあやふやな記憶に残る商店ですが、まず吉谷薬局(船越栄一似のおじ様が優しい物腰でお薬の説明してくれはった)さんの並びの商店。
そのお隣がお茶やさん(小柄で上品なおば様がにっこり笑うて座ってはった)のお隣がおすし屋魚忠(うおちゅう・ここのすうどんと鉄火巻きが大好きやった地球最後の日に食べたいものベスト1どす)のお隣がバー(ハンサムなバーテンさんがいはりました)のお隣が生田商店さん(いくたしょうてん・干物乾物練り物等売ってはった。卵買う時に一つ一つ電球にかざして新聞紙にきっちり包んでくれはった、何見てたんやろか)のお隣がおかしやの甘陣さん(あまじん・クリスマスにブーツに入ったお菓子の詰め合わせやアイスクリームのクリスマスケーキ買うてもろたりお世話になったやん)のお隣が貸し本屋さん(まんが大好き少女でした。目の中に星のあるヒロイン・・生活苦しいのにフリルのあるブラウスやらスカートはいてんねん。
梅津かずおの恐怖物『猫面」やら「蛇女」それから白土三平「カムイ外伝」とかとにかく二日おきくらいに通っていたような・・・今でも時々夢の中で「はよ返さんと延滞金とられる」てうなされてん・・)柳町じゃなくて以前は北方町でした。

歌う果物屋
 吉谷薬局のおじさんは、船越栄一そのものでしたね。
そのおじいちゃんは、門司市の著名人録で出てるほど有名な盆栽愛好家で、二階の物干し台は盆栽でいっぱいでした。
クリスチャンでもありました。
戦前の著名人録には「ヨシガイ」とふりがなをうっています。
その吉谷さんがホットドック屋を隣でしていたことがあるんです。
その後に、モダン焼き屋をしていました。
太鼓饅頭の細長いやつで、アンとカレー入りがありました。
甘陣さんでは、マーブルチョコレートをよく買って食べてました。
また、その隣の貸本屋「日照堂」では、月刊漫画誌の付録が別売りされてて、よく買っていました。
一番印象に残っているのが、紙工作のレコードプレーヤー。
針を乗せて、ソノシートを指で回すと、アニメソングが聴けました。
中学になってからは、「明星」や「平凡」の歌集の付録を買ってました。

なんちゃって京女
 吉谷薬局のおじ様・・ただものではなかったんやね~尊敬です。
ところで高田先生ですが私の小学校六年生の時の担任が高田貢先生(よく大きなくしゃみをしていたので、はくしょん先生ていってた)。
柳西中学校三年生の時の担任が高田先生。
ぞう先生ていってた。
確か社会科の先生できれいな字で猛烈な勢いで板書してたのでノートに写すのが大変やったな。
男の子がわるそしたら廊下に並べて大きな手でげんこつしてた。
その当時は先生の言うことは絶対やったねみんな純真やった。
 
歌う果物屋
 柳小学校の運動会、今は飲酒は禁止だそうです。
僕らの頃は、業者がビールを売ってたし、お面とかも売ってましたね。
フォークダンスの時は、好きな女の子が近づく瞬間に曲が終わって、いつもがっかりさせられてました。
 キャバレー関門の写真ですが、僕の同級生が元酒屋で、そこのお父さんが経営していたので、入手することができました。
石原裕次郎とそこで飲んだと言う今村先生に喜んで頂いたようで、幸いです。
錆びたナイフのロケーションの時でしょうね。

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平清経入水の碑

歌う果物屋
 本堂淳一郎の小説「兇健と呼ばれた男・大長健一伝」を読みました。
門司区の旧町名やミナト食堂・はなのつゆ・大世界などが出て、楽しですね。
戸ノ上市場時代に、着物姿の眼光の鋭いおじいちゃんが、よく買い物にきていたのですが、ある日、僕が小倉の医療刑務所で慰問ライヴの話をしたら、何を勘違いしたのか「お前も入っていたのか、それで何人殺った。おれは二人、殺ったが」と質問されびびったことがあります。
あのおじいちゃんも、大長組と関係あった人なのかな。

やすお
 小説は読んだことが無いのですが、ビデオは見ました。
門司港地区には、馴染みのある方なので興味深々でした。
大長さんのご家族は、今も門司港に在住しておられますし、よく存じ上げております。
当時の門司港は、「ああだったんだな~」と思い出されました。
老松公園の裏の三光寺で葬儀があったのを今でも憶えています。
任侠映画の盛大な葬儀、そのものでした。
(学校の帰りに見に行った・・・様な?)

歌う果物屋
 日曜日に「力神(リキリン)」を撮りに恒見八幡神社に行ったのですが、その境内に子安石が奉納されていました。
東自動車道路・朽網トンネル工事現場の石で、安産のお守りとなっています。
それで、ふと思い出したのですが、関門トンネルの工事中の石も確か安産のお守りとして、持ち帰られたように記憶しています。

歌う果物屋
 当店前の今はファイブタウンと言う婦人服屋さんがありますが、その奥の方に数十年前、平清経の墓がありました。
平家の行く末を悲観した彼が、大里の沖で入水したその亡骸を葬ったものとされていますが、その事に関して、元同業者だった某子さんからメールがありましたので、一部掲載させて頂きます。
●平清経入水の碑(小松塚=五輪塔、慰霊碑)について
→小松橋のたもと、柳ヶ浦駅側(西側)にあり
  柳ヶ浦から屋形船をうかべ、横笛を吹き調べてから
  念仏を唱えて入水したことについての碑
→「小松」の名は清経の父・重盛が小松殿と通称されたことに由来
   駅館川河口に最も近いこの橋も、それにちなんで小松橋と名付けられている
→宇佐神宮は、安徳天皇の使者としてやってきた平清経の庇護申し出を
   断った歴史があるため、今でも宇佐神宮の御神能では「清経」を舞わない
   そうです (極楽寺 国東先生談)   
はてな
 どなたか、チャンラーを今食べられるお店の一覧をご提供いただけませんか?門司に行く機会に食べに行きたいと思っています   
 
歌う果物屋
  昔ながらのチャンラーが常時食べれる店は、僕が知ってる範囲では、小原市場にある「さち」(日曜休み)と、夜なら「里ごころ」です。

町内役員
○昔、吉備団子屋さんの屋台があったけど、ブリキのルーレットみたいなので、
 2本とか3本とかの当たりくじがあったよね。
○金魚すくいの店主のおじさんが、すくって見せたのは少し紙が厚かった気がする。
○輪投げで、時計とかあったけど、その台は輪投げの口径より大きかった。
○鉄砲の賞品も高そうなのはコルクの玉を跳ね返していたから、それに押しピンを押し込んで、重くして打ってた奴もいた。
○紙芝居のスルメで、よくお腹をこわしていた。
○柳小学校は制服はなかったけど、学生服のようなものを着てた。

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柳西中出身
  私たちの時は、1クラス57人でした。
「柳西」も「流星」と思って「すごくいい名前の学校」と勝手に思っていました。
同じ門司でも、門司駅付近は都会に感じました。
チャンラーの話題ですが、私が短大の時に折尾の学校の近くにあった食堂でもメニューにあり、今の棒ラーメンのような麺だったと記憶しています。
葱しかのってなくて私たちはお金がなくなるとよく注文してました。
大変ありがたいメニューでした。

門司の興味人
 コカコーラーは僕らの世代だと、小学校五年くらいだったと記憶するのですが、日本コカコーラー社が日本で始めて発売するのにてつとり早く子どもに飲ませたら、後に長年の成長過程で大量に愛飲するだろうという戦略で宣伝効果があると、学校にボトルを持込んで飲まされたことがあります。
今だと大問題だと思いますが、無理矢理飲まされて?不味さに、 口に入れたとたんに思わずペッと吐き出しました。
その後、ホーローのコカコーラーの看板が町のあちこちの軒先きに貼ってありました。
テレビコマーシャルが発達し出して大量消費の前哨戦の時代突入です。
僕の時代になるとベビーコーラーの経験はありませんでした。
ジェネレーションギャップですね。
その代わりに、ニッケ水(作られた合成味)ですね。
それと紙に染込ませたビンク色の噛み噛み味、これもニッケ味みたいな感じでしたが、紙を噛んでいました。
今なら大問題ですね。
それと駄菓子屋のおじさんが、飴にそのおじさんが自分の唾液をペッとかけて伸ばして柔らかくしたものを売っていました。
これも今なら大問題ですね。
でも、情報の少ない時代だから騙されても楽しかったなぁ。

歌う果物屋
 僕は、昭和29年生まれで、門司区大里生まれの、大里育ち。
ずっと、市場や商店街の中で暮らして来ました。
戸ノ上一丁目の郵便局側にあったのが、駄菓子屋の石川さん。
門司の興味人さんが書きてあるものは、僕も一通り食べています。
試験管に入ったオレンジジュースや夜光塗料の骸骨人形。
2B弾に手裏剣セット。
遊び場は、御所神社か、中山製材所の木材置き場。
積み上げられた木材と木材の谷間に、秘密基地をこしらえていました。
その工場内には、汽車の車輪のような大きなノコギリがあって、それで何人か体を切断されたことがあると聞いて、震え上がっていました。
話が、それましたが、その時に食べていたのが「新屋食堂」のチャンポン。
もちろん、和風だし。
夏の暑い日も、大将から「暑いときこそ熱いモノを食べる」と教えられ、一生懸命食べていました。
三角のお稲荷と一緒に。

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藤原義江と大里

びーひょろ
 ナターさんは大里ではナッタさんと呼ばれていたようですね。
確かに寺内の異人屋敷に住んでいたようです(その前は大里海岸)。
藤原義江も一時期そこに預けられていたとか。
豊国学園に通っていたという噂もあります。
真相は不明です。
ナターさんについては、昭和初期の紳士録や門司新報にナター商会という広告があるのを見たことがあります。
確か御所神社の玉垣にその名が刻んであります。
異人屋敷はあちこちにあったようで、洋風の建物は皆な異人屋敷だったようです。

うらら
 日清日露当時の軍事物資の積み込みはほとんど門司でしたから、戦利品が多いのも頷けます。
各小学校にたくさんあったらしいけど、戦後、多くは不明になりました。
思想が一変して捨ててしまったと、もっぱらの評判です。
ホームリンガーについては下関教育委員会に100年史があります。
ただし英文。
閲覧は自由なので英語が達者なら挑戦してみては。
下関では瓜生商会がホームリンガーの下関支店だったようです。
ここの支配人が歴代の英国名誉領事をされていたようです。

歌う果物屋
 チェーン式クレーンは「何処かで見たなー」と、ハタと思い出しました。
広島・呉のアレイからすこじまと言う公園に置いてありました。
ナッタさんの異人屋敷以前のお住まいは、「柳小学校百年誌」の地図にもありました。

門司の興味人
 大里の古地図を拝見し、家々の名前を見ると当時の町の匂いが漂ってきます。
ずいぶん昔に国道一九九号線を小倉の長浜から大里まで地下足袋(スニーカーよりも草蛙の感覚に近いのではないかと単純な思いから)を履いて歩いたみたのですが、日頃三号線を乗り物からしか見たことがないので、赤坂海岸あたりから見る戸の上山は雄大に見えました。
江戸時代の人も同じように見ていたのかなと思うと感激したことがあります。
シーボルトも赤坂から内裏の光景に感嘆したと書いていますが、海からの風と戸の上山の上にから海岸に向けての青空が気分的にも高揚したのではないかと思ったりしています。
手向山附近あたりで長崎街道の現在は切れているのが残念ですが。
手向山横の香春口行き坂道は江戸時代には追い剥ぎが出没していたそうですね。
だから、当時の旅人は豊津、豊前方面に行くのに遠回りして長崎街道を利用していたと中山主膳先生からお聞きしたことがあります。

商店会役員
 吉備団子屋さんの屋台がありましたが、ブリキのルーレットみたいなので、
二本とか三本とかの当たりくじしてましたよね。
お祭りの金魚すくい、店主のおじさんが、すくって見せたのは、少し紙が厚かった気がする。
輪投げで、時計とかあったけど、その台は輪投げの口径より大きかったですね。
鉄砲の賞品も高そうなのはコルクの玉を跳ね返していました。
けど負けずに、押しピンを押し込んで、重くして撃ってた友人がいました。
紙芝居のスルメで、よくお腹をこわしていました。
柳小学校は制服はなかったけど、学生服のようなものを着ていました。

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