「ミル、ミラレル」・・・発する視線、発せられる視線-----視線は
関係を形成する。ただ、その瞬間に。
見ること、見られること、それだけでもう、そこにはひとつの「関係」が生まれる。
「視線」は、自己と他者とのもっとも基本的な接触形態なのである。
まず「見る」ことは、否応なしに私たちの中で他者と自己を区別させる。
視覚器官には制限があり、自分を見ようとするなら、意識的に鏡などの器具を
使用するしかないからである。
さらに「見る」器官である目は、その自己と他者という関係を発展させる。
目は、すべての感覚器が受け取る情報の80%近くを担っている。
「受け取る」だけの器官であると同時に、最も強く感情や意志を「発する」器官でもある。
「目」という器官は入り口として作用すると同時に、内界=各自の身体内部の
エネルギーの出口でもあるのだ。・・・・・・エネルギー、「意志」による生気、その光である。
ワイヤードのレインについて許された「強い目の光」である。
その光は、瞬間、網膜に焼き付けられる。視線は対象物を射抜き、
その瞬間に記憶の中に相手の像を映し出し、固定する。
同時に対象者の発した光はその人の像を作り出す。
こうして、瞬間は「関係」を作り出す。もっとも時間の流れを含めて「関係」を
観察するならそれは流動的なものだが、瞬間で作り出されたこの瞬間を動かすには
物理的な力学が必要とされる。それは、もう一度視線を利用すること。
たとえば「見ることは、見られる者が見返せないときに権力となる」。
見返して、注視者の視線を奪えばその瞬間をひっくり返すことも可能になるのだ。
そこで思い出さねばならない。そもそも他者と向き合うということは、投影した
自身との対峙である。すなわち、私たちが社会生活を送り数々の人々と
関わることそのものが、無数の鏡の前に自分を晒すことに等しい。
視線視線による相関の中では・・・鏡を見ている私が鏡の中の私に見られているように、
見ることと見られることは一対の行為として同時に発生するのである。
だから本来、世界と関わる・・・すなわち視線を発する時、すでに私たちは覚悟を
決めなければいけない。見る私は、見られている。
送る視線は自分に跳ね返り、送られた視線は跳ね返すことができる。
視線によって作られる関係。見る、見られるという状況、それは-----自分さえ
気づかぬうちに自分も暴力を行使し、行使されるに充分な状況なのである。
あるいは「私が私でいられない」のは、数々の視線によって気付かぬうちに
捻じ曲げられた何かのためかもしれない。
それらの視線のいったい幾つに、私たちは意識的でいられるだろうか?
「デートだもんな、これくらいやんないと。俺だって男だからよ」
デートだから、と、玲音の口にガムを押し込むタロウ。
だから今のうち、と、父にキスをせがむ母。
大人のキスと、まだそれになりきれない真似事のようなキス。
きっと大人のキスのそれと違うのは、何よりも味。そして匂いだ。
玲音にとっておそらく初めての、そのキスは合成甘味料の味がした。
そして子供ゆえの、汚れてない純粋な唾液の匂いがした。
無感動にガムを放る玲音。
まだ色の付いてないキスの風味は、そしてそれゆえ何も感じ得ないのだ。
放置された植物。すべては家庭という空間を演出するためだめの
小道具に過ぎなかった。
住環境における緑は、それだけで生活空間を穏やかなものに演出する。
しかし、観葉植物として存在したゆえにそれは、主が去ったあとには
その目的以上のものは要求されずに放置された。
荒れ果てたリビング。冷気を放たれた冷蔵庫。そして、枯れ果てた植木鉢。
まるで、置き去りにされた玲音と同じように、それは生気を失ってしまった。
今やこの家の中には、植物や食物の、しなびた匂いや腐った匂いのみが
充満している。きっとこの植物の世話は、母親の役目であったはずだ。
ただ、彼女がほんの少しでも目的以上に愛情を感じることがあったなら、
それは自生することも叶ったのかもしれない。
整然と机が並ぶ教室の中、机ひとつ分ぽっかりと空いているスペース。
きっちりした机の列。おおよそ学校生活というものでは、正確に縦列が揃うことが
重視される。教室の中にせよ、体育の時間にせよ。
整然としたものに美しさを感じる完璧主義者もいれば、だからこそそれらに対して
息の詰まる思いをするひねくれ者もいる。
そんな彼らが同じ教室で何気なく机を並べていたりする。
学校とはそういう場所だ。
整列した状態が作用するのは、しかし、異端者の孤独をあおるという側面だけだ。
整然と机が並ぶ中に、そこだけぽっかりと空いている。
「いつだって、そうならないように気を付けてきた」玲音の机があるはずの場所------.
「口から吐き出されるもの」吐き出す快感、飲み込めない苦しみ・・・
私たちは過食症的だ。
今は「嘔吐の時代である」と、90年代の初めにある評論家が言っていた。
怒りでなく嫌悪の時代であると。怒りほど明確な対象物もない取り留め無き嫌悪感は、
何かを破壊することに行き着かず、その分だけ苛立たしくも、しかし拒絶するに至る
という話だ。
そして今や私たちは、皆が皆過食症的に生きなければならない。
食べ物にせよ情報にせよ、もうウンザリするほどのオーバーフローで、
むしろいかにそれを拒み、切り捨てていくかが、毎日の生活に最も必要な
判断となっている。
そうしてそんな生活の中、私たちが覚えてしまったのは、飲み込めない苦しみと
吐き出す快感。
矛盾し肉体の起こす軋みである。しかし・・・この世でもっとも正直なのは筋肉そのもの
である。
感覚は容易に麻痺してしまう。
でも、筋肉の軋みや痙りだけが、このまやかしとごまかしの世界の中で、
当たり前の真実を指し示している。
不要なものは受け付けないのだ。
有害なものは、徹底排除を敢行するのだ。内臓を含めた筋肉が、自らを搾り出す
ようにしてまで。
だが、その過食症的状態は食べ物だけの話ではない。
情報と情報のやり取り、コミュニケーションにおいてもその苦しみや快感は適用される。
いまや、コトバも情報も、その溢れる食物連鎖に、無責任に垂れ流されてゴミ箱行きだ。
飲み過ぎたアルコールを毒素として体外に吐き出すように多くのコトバは吐き捨てられ、
膨大で過大な情報はその意味も飲み込めないまま「賞味期限切れにつき廃棄」される。
そうして、テキストの吐瀉物と生ゴミにまみれることで、私たちはようやく生きてゆく。
・・・これらの苦しみや快感は、すべて目という器官を通した物質の出入りだ。
目は最も、生命活動に象徴的な器官である。そしてコトバにとっては、それが空気の
出入りに変わる。そのとき口が発するものは、正確には声でなく息である。
息、すなわち、その正直な肉体の収縮によって生まれる「風」=空気によって、私たちは
初めてコミュニケートする。
その、自身で起こす風による声帯の振るえが初めて音になり、声になる。
空気によって私たちは何かを伝え合い感じ合う。
つまりコトバをぶつけるということは空気をぶつけるということである。
・・・ささやきが甘いのは、その風が肌をなでるように触れるからだ。
怒号が萎縮させるのは、そのビリビリとした空気の振動が衝撃として身体を押すからだ。
そして。
筋肉によって生み出される呼吸。身体の内部から風を発することが出来るということは、
何よりも、生きて生命活動を行っていつ証にほかならない。
その証拠に、肉体を失った英利という男のまわりには、時を止めた風しか存在しない。
彼のコートは、ある瞬間を閉じ込めたまま、一定の方向にだけたなびき続ける。
レインが彼をはねのけたときに初めて、彼は外界の風に吹き飛ばされそうになる。
これがまさに、肉体を持つ者と持たざる者の明らかな違いではないか。
私たちの目から吐き出されるもの・・・呼吸により自身の内部から起こす「風」、
そして体外へと絞り出される不要物。この頻繁すぎる出入りが不自然な時代の
適応としてであっても、それはいまだに肉体の必然であり、生命の特権でもある。
「________________________ 止めたんじゃなかったのかよ」
林に文字通り煙たがられながら、カールは苛立たしそうに煙草に火を点ける。
煙の立ち込める空間。そのモヤの先には何がある?
自分の不安が怖れを煙に巻こうとも、煙のその先にはただただ現実が横たわるだけ。
そして一方、世の喫煙人口は老若男女を問わず増え続けるばかり。
この紫煙は反逆の狼煙。この煙は・・・あるいはただ、SOSのサイン。
歩道橋の上には玲音。階段を上るありす。
橋。それは、何かと何かを繋ぎ渡すもの。
橋の上は、古典の頃から逢瀬の舞台として多用されている。
しかし、歩道橋の上となると、そこにはまた違う意味合いがある。
今日、それはあるにも関わらず、利用されることが少なく
「日常と隣接する非日常的な空間」であるともいえる。
私たちを雑踏という日常から一旦切り離し、再び雑踏に繋ぎ渡す、歩道橋。
だからこそ、そこは玲音とありすを出会わせる舞台となりえたのだろう。
「歩く。感覚」
______________________________ 生きていくこと。_____________ 人が人であること。
この夢は、醒めないよ・・・?悪夢の終わり際に“案内人”はそうつぶやいた。
数年前に観た、ある演劇芝居の印象的な1シーンだ。
そして、今、“プレゼント・デイ、プレゼント・タイム”________。
「いっしょにいるんだよ。ずっと・・・」
これは現代の物語。警鐘は常に鳴り響いている。
普段着もなく、時にノイズ混じりに。
凶兆は、前方の死角と背後に満ち溢れている。
時には電波にのり。
それら、警告を聞こえない振りをし、見て見ぬ振りをする人たちにとっての
サバイバルとは何か?
「生き残るという選択」。しかし、もはやこの現実に選択の余地もない。
「生きちゃってる」人々の群れ。もはや私たちは飛べない。
そして私たちは日々忘れる。
私たちは拒絶する。
私たちは、何かを間違えてしまったのだろうか?
だいたい、生きていくためにはやらなくてはならないことがありすぎる。
水分をとり、栄養をとり、酸素をとり、睡眠をとり・・・。
意識的にあるいは無意識的にクリアしているはずのハードルの数を考えると、
生きていることがどれだけ奇跡に近いかということより、
どれだけ骨の折れることかとさえ思ってしまう。
この労苦、血の詰まった袋に過ぎない私たちの、もっとも簡単に考えるならば
これが肉体の限界だ
そもそも人間の進化があらゆる限界へのチャレンジに支えられてきた
とはいえ、それでも私たちは肉体を凌駕できない。
しかしそれを超えることができたところで、肉体さえ、もはや信じられる
確かなものにならないのならば、何が現か幻か・・・?
私たちは、意味ではない何を求めて、生きることを選び、そして確かめるのか?
肉体の限界を超えようとした男、英利。ホムンクルスだと
言い放たれた冷たい体温の中にも、何かを取り戻した「lain」という少女。
肉体という夢の終焉。夢という魂の始まり。彼女が今、どのようにして存在しているかは
描写として語られないが、いつかとは違う確かな足取りで、彼女は今も歩いている。
歩く。
「生き急ぎ駆け抜け」ないにしても、それはあまりにも、生きていることそのものの動作。
実際、重力は私たちを縛り付け、私たちは大地にハリツケにされている。
繋ぎ止められなければ、私たちはてんでバラバラにどこかに飛んでいってしまうから。
そのぶん私たちは想像で飛翔する。
それでも、私たちは飛べない。
そしてどうにか現実と思われるこの場所を歩き回る。
意識よりも鈍重なこの退化した筋肉を引き摺りながら、行きつ戻りつ、
何かに近付き遠ざかり、足を運び、足をまた持ち上げる。
重力という掟によって貼り付けられた足の裏は、しかし筋力という個々の
能力によってまた引き剥がされる。
この歩行によって私たちの身体はデザインされた。
その遅々たる営み。歩けなくなる絶望を味わったことのある者なら容易に
わかること。
「選ばれる」のではなく「進む」という、まさにその感覚だけが、自分を自分で
居させてくれるのだ。
そのとき、私たちは覚醒している。
たとえ何かを間違えていても。そして私たちは・・・。
飛ばない代わりにただただ見上げる。
時々何かを、ふと思い出す。何かを受け入れた結果、私がある。
そして延々と重力を引き剥がし、またハリツケられまた引き剥がし。
そうして段々に辿り着いたちょっとした高みで、たまには風に吹かれたり
見下ろしたりする。
それで充分だ。
この感覚さえあれば、すべてが醒めない夢だったとしても。
___________ close the world , open the neXt .(step ?) ________________________________
___________ back ________________________ My the other self … へ戻る ________