※ このページは『ドラゴンボール』ではなく『serial experiments lain』 という
作品の解説のようなものです。管理人が偏愛している作品のひとつだったり。
頭上の空間を覆う電線、坂道をひとり歩く玲音。
二足歩行は人間の特徴であり宿命である。普段の歩き方ひとつでカラダ全体の
すべてのバランスが決まってしまう。
見てのとおり。他の同級生に比べて頭一つ低い分、歩幅が狭いのは当然だが、
それにしても玲音の歩き方は独特である。
うつむきながらの重い足取りでさえ、体重を感じさせない。
それは家でかぶっているくま着ぐるみに似合った、トコトコとした歩き方なのである。
「あんたねえ、夜には夜の格好ってもんがあるでしょうが」
衣服はT.P.O.に応じて変えられる。衣服を身に纏うということは、
むき出しの表皮を持つ人間という動物特有の行為であり、したがってそこから
生まれる気分なんてものも、人間固有の感情である。
持って生まれた毛並みで決まる優劣ではなく、後付けの衣で決まる優劣。
そう考えれば、人間ほど後天的要素によって行く先の変わる存在は少ないの
じゃないのだろうか。
纏うものを変えるだけで、こんなにも自分の視点の位置が変わる。
しかしそれがゆえに、人はある種の(自分の対しての?)
ごまかしが前提とされた存在でもあるのだ。
トブ、トイウコト
とぶ、とはどのような行為か?
少女は屋上から飛んだ。
少年はアクセラでとんだ。
彼らは何かを飛び越えようとしたのか?
だとすれば「とぶ」とは何かを超越しようとする行為に喩えられる。
彼らが「超越」しようとしたもの。
歴史的には、人が超越しようとしてきたのは「限界」や「存在」そのものだった。
限界--------能力の限界、それは多くの場合肉体の限界である。
そして、存在-------他との位置関係によって初めて際立たされる、ある種の確かさ。
それは、だからこそ人がつながろうとする要因の多くでもある。
では、それを超えたと思った瞬間--------飛躍の瞬間に彼らが見た光景とは
何だったのか?
金銭が主因でないいわゆる自殺の場合、生命を絶つことの苦しみは、本人にしてみれば、
解放への扉であるらしい。
千砂の「跳躍」の瞬間の安らかな表情は、それを物語っているのだろうか。
一方、もうひとつの「トブ」=「飛躍」の場合。
現実のいわゆるドラッグ系のものには、自分が超越すること以上に、すべて超越した
(される)存在-------「神」を見ることに快楽を求める者も多いという。
少年が求めた加速は、死に急ぐものだったか?生き急ぐものだったか?
・・・どちらの場合にも「とぶ」そのものの瞬間には、今、ここにある現実とは別の世界が
開けることを期待している。
確かにその快楽の側面には、別の感慨もあるかもしれない。
「とぶ」ではなくて「堕ちる」悦びとでもいうべきもの。あるいは
ただ、その悦楽に抗えなかっただけなのか・・・。
しかし、肉体を捨てた千砂の呼び掛けに応えたのは、玲音ただひとりだった。
そして、アクセラの少年が見たものは、玲音に似たもうひとりに責められる
ビジョンでしかなかった。結局、重力の制約から逃れられない世界にいる以上、
跳躍のあとには、着地が待っている。いかな美しき飛翔も「着地失敗」して
しまえば元も子もない。生きる以上に生きようとした彼ら。
彼らの着地は、はたして成功したのだろうか?
広すぎるリビング、四人掛けの食卓・・・岩倉家の団欒
岩倉家の、家族そろっての食卓風景は、本編中で何度か描かれている。
それを見ると、岩倉家の食卓にのぼるメニューは淡白だ。
透明感のある淡い色彩のものが多いという印象を受ける。
東洋的な見地でいうと「体を温める」よりは「体を冷やす」とされるものが、
その主流を占めているようだ。
食器の音やもくもくと食む音ばかりが響く「一家団欒」と呼ぶには程遠い
静かな食事風景の中、玲音といえば・・・いちばん静かに、うつむいたまま
透明なスープをかきまぜている。
幼女のその小さな腕には、いつも縫いぐるみが抱かれていた。
縫いぐるみや人形に表されるのは「子供の夢」や「あどけない幼児性」などという
かわいらしいものではない。
たとえば、こけしはもともと「子消し」だった。
間引かれた子供の身代わりであり、墓標でもあった。
人形、そして縫いぐるみ・・・そもそも人や動物をかたどったこれらの布や綿の塊は、
そのように「存在の代替物」として、人間に捧げられたものに過ぎない。
あくまでも、無を前提とした、身代わりの存在。
それがそこにあるということは、本来あるべきものが無いことを逆に指し示す。
「スパムよ、迷惑メール。しつこいんだ、これ」
それは他人の日常に、一方的に割り込んでくる。
割り込むほどに強引にならざるを得ないその自己顕示欲。
システムがいよいよ強固になるにつれ、ねじ曲がった方向へと暴走するプライド。
本質的な破壊衝動と、そして優越感と。
特定の誰かへの恨み辛みではなく、万人に対して為手であるという満足感。
そんなもので、己の存在の確信をいったいどこまで強められるというのか?
はたして、彼らはそんなに寂しいのだろうか?
「フリムクサキニハ?」・・・振り向く先に見るものは何だろうか?
「ファントマ」にハマって深入りしてしまった少年達。
後から後から、予言にまつわるメッセージに行く手を阻まれる美香。
心に恐れのあるものは、振り向いてはならない。
逃げ惑う彼らが振り向く度、目に映るのは歓迎できない----影の存在だった。
人間の視野は極端に狭い。
どんなに発達し人であっても、せいぜい180度からプラスα、という程度のものだろう。
基本的に、四つ足の動物より機能の勝った感覚器を持たない我々。
そのかわりに持たされたいくつかの動作は「鈍い」私たちの、種としての劣等器官を補う。
例えば、四つ足の動物にできない「後戻り」ができる我々は、彼らのように一心不乱に
前を向いて逃げる必要はない。
目標を確認しながら、逃げおおせればそれでいいのだ。
しかし、人間の視野はせいぜい180度に近いだけしかない。
他の動物に比べて視界が半分ということは、
常に世界の半分しか人間には与えられていないことになる。
「人間」の場合、常に、世界の半分しか目にすることはできない」
もしかしたら、それが人間の想像力のゆえんなのかもしれない。
確かにこの想像力とという力は。人間を飛躍的に進歩せしめた。
それでも、視野が限られているがゆえに、人は本能的に背後に関して恐怖感を抱いている
存在でもあるのだ。
背後にあるものに関して人はあまりにも無頓着であると同時に必要以上に神経質である。
そして・・・何かに呼び掛けられ、振り向く人々。
ある意味振り向くという行為は、背後の世界、すなわち「想像に任された非現実の世界」を
目撃して己の現実とする行為だといえる。
しかし、私たちが与えられた想像力は、心に隙さえあれば「妄想」に変わる。
背後の世界に恐怖・驚愕するのは普段からそれに気を払ってないからだ。
その証拠に玲音は、振り向いても囚われることがなかった。
「振り向かずに前を見ろ」とは一見良心的なアドバイスだが、人間の場合動物のように
シンプルに前向きに、とういわけにはいかない。
逆にこの遅い足では、この狭い視界では、せめてよそ見でもして違う方向に注意を払わずには、
かえって命取りになってしまうからだ。
それよりも普段からあたりを見回して、残りの半分にも光を当てていれば・・・
人の宿命である未知の背後の世界に、呑み込まれることもないかもしれないのに。
振り向く、という明らかなベクトルの転換に伴う危機、そしてその瞬間に生じる隙。
振り向かされてしまった人の目に映るものはなんだろう。
振り向けと呼ぶのは何の声だろう?
そう、それこそが日々何気に通り過ぎて気付かずにいた視界で世界。
踏み付けてきた無視してきた、不可視だった、累々たる屍の声なのである。
振り向く先にあるものは、背後の世界。
忘れてはならない。
私たちはすでに、常に、世界の半分を失っているのだ。
「大概の子供は微弱ながらも持っているものだ。私はそれを----」
日本民俗学では「七つまでは子供は神の子」だとする考え方がある。
日本の各地には「神の子」から「人の子」になった事を祝う行事が残されている。
民俗学とは、各地に残る習慣や伝承などを通してその民族に固有の意識を探ろうとする
学問だが、科学の発達していない当時においても深層の部分で
彼らは「生の世界と死の世界の重なる部分にいる存在」として畏れられ、
神の子としての不可思議な直感をも認められていた。
「子供にはなんだって遊びになるのよ」
そんな彼らの遊びも不可思議な内容を持つものが多く、代表的な幼児遊びである
「かごめかごめ」が、流産と水子のたとえ話だと捉える説も有名だ。
現在、システムが確立され、子供の地位は大人に準ずる無力なものに甘んじているが、
確かに、昔から「神の子」たちには大人にはない力があるのだ・・・。
「このニュースが届くのは明日、もしくは昨日になるかもしれません」
ネットニューズで起きた情報の混乱。
同じ言葉が、今、実際に自分の見ている、聞いているニュース番組から流れてきたとしたら?
信用すべき情報として疑いもなく受け取っていたニュースは、いきなり戒厳令下につきものの
流言のごとく、私たちの日常を本能的な危機感に晒すものに変わってしまう。
そこで気付かされるのは「誰の言うどんなこに信用を置くか」。
判断は、個人の価値観にめでたくも任されているということだ。
虚と実の間の境界線は、あくまでも個人の判断に委ねられている。
そんな「自由」そのものが既に人間の社会を、移ろいやすく危なっかしいものにしている。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
問いかけに対する父親と母親の沈黙の返答。
ありすを求めて校内をさまよう玲音。彼女を追いかける無数の視線と沈黙。
それらは、すがりつこうとする玲音を拒否し、押しつぶしていく。
そう、音はなくても、沈黙は語りかけ、投げ掛けてくる。
ことばで薄められない分だけ強い、その圧倒的なコミュニケーションは穏やかな静寂とは裏腹に、
私たちの神経を掻き乱してやまない・・・。
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