黒い黴に覆われた梁がむき出しになった石づくりの建物。
平屋建てで外壁に所々ひびが入った家であり、朽ちかけた木製の扉や、布すら下がっていない吹きさらしの窓が、もう長く人の手が入っていない事を伺わせる。
その中に現在、ンフィーレアとモモンガの二人が立っていた。
「汚いな……。 まあ、雨風は防げそうだが」
「……お金にはあまり余裕が無いですから」
「いや、別に皮肉では無く感想を言っただけだ。 ……家賃が安いし、仕方ないと思うしかないか」
徒歩での旅を続け、何とか王都に辿りついた二人は、まずは秘密裏に王都へと侵入することにした。
とは言え今回は、エ・ランテルのような透明化で門を堂々と突破するものでは無く、旅の間に幾度かモンスターと戦った事でレベルが六に上がったモモンガが習得した《ウェブ・ラダー/蜘蛛の梯子》という魔法を使った。
壁に沿って、梯子として使える粘着質の糸を這わせるこの魔法で夜の間に市壁を登り、都市内に侵入したのだ。
流石に王都といえども長大な市壁の隅々まで常に監視する兵力を貼り付ける事はできず、透明化も併用したモモンガ達は誰にも見つかることなく侵入に成功した。
ただ、それからが難問だった。
ンフィーレアには今の所、リイジーを蘇生させる為の金を稼ぐ手段が無い以上、蘇生魔法の使い手の情報集めと並行して、その手段を見つける必要がある。
その為には腰を落ち着ける拠点が欲しい所だが、宿屋は割高な為に今のンフィーレアの選択肢には入らない。
エ・ランテルでリイジーの財産を確保する為の報酬ということで既に金貨10枚をモモンガに払っており、現在の財産は現金で金貨20枚ほど。
他にも薬品店から持ち出したポーションやスクロール等も金銭的な価値は高いだろうが、ンフィーレアが自力でお金を稼げるようになるまでどれくらい掛かるかと、予想外の出費がある可能性を考慮すると、出来るだけ節約して生活しなければならない。
そこで貸家を扱っている店で、魔法で変装したモモンガと共に出来るだけ安い家を見繕って貰ったのだが、案内された所は広さはそれなりだが、半分朽ちかけたような古い家だった。
家賃は一ヶ月に銀貨4枚で、モモンガとンフィーレアで半分ずつ出し合う事になっている。
裏路地にあり、モモンガが希望した人通りが少なく、目立ちにくい場所にあるという条件は満たしているが、日当たりが悪く建物全体が黴臭い。
しかし、この世界に来てから野宿ばかりだったモモンガにとっては、やっと見つかった比較的安全な拠点だ。
長旅の疲れが出たのか、家の中を掃除する前に床に布を敷いて寝てしまったンフィーレアと同じく、モモンガも眠れはしないものの床に寝そべって休む事にした。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
軋んだ音を立て家のドアが開く。
扉の隙間から差し込んだ夕暮れの赤い光と共に、ンフィーレアが家の中に入って、床の上に書物やノートが入っている布の鞄を置いた。
王都に来て一ヶ月程。
元々リイジーから魔法に関する教育を受けていたンフィーレアは、自分の得意分野とも言えるそれを伸ばそうと、金銭と引き換えに魔法の指導の行っている私塾に通っていた。
第二位階魔法まで使用出来るという魔法詠唱者が経営するそこは週三回授業を行っており、ンフィーレアは毎回通っている。 そして授業がない日は家で自習。
それが最近のンフィーレアの生活だった。
「帰ったか」
声を掛けてきたのはアンデッドの魔法詠唱者であるモモンガ。
簡素な木の椅子に腰掛けており、目の前に置かれたテーブルには子供用の読み書きを学ぶ為の本が置いてある。
人と接する事を可能な限り避けているモモンガは、この世界の書物から知識を得ようとしているが、当然王国語の読み書きは出来ないし、翻訳の魔法も使えない。
故に最近はンフィーレアの協力も得ながら王国語の読み書きを学ぶのが日課になっている。
夜には時折、レベル上げと気分転換も兼ねて王都の周辺を散策しながらモンスターを探しているが、そちらは上手くいっていない。
王都リ・エスティーゼの周囲には広大な草原が広がっており、モンスターの隠れ家となりやすい森は存在しない。
そして大都市の近くという事もあり、危険なモンスターが出現すれば直ぐに兵士や冒険者が討伐に動く為、これまで五回程行った探索で狩ることが出来たモンスターはほんの僅かだった。
「はい。 ……勉強は進みましたか?」
「文字や単語は少しは覚えてきたが、文章となるとな……。 まだ先は長そうだ」
「そうですか……。 僕の方も直ぐには第一位階に手が届きそうもないです」
第一位階には香辛料や紙等の物資を生み出す魔法があり、習得すれば高収入とはいかないまでも金銭を得る手段が手に入る。
しかし魔法と言うものは、知識を得たから直ぐに使えるというものでは無い。
魔法の理論を学ぶことは勿論、第0位階魔法を反復して使用し魔力の扱いに習熟する事、魔法の詠唱に必要な集中力を養う訓練等する事は多い。
それらの努力に加えて、元から備わった才能があって初めて強力な魔法が使えるようになる。
本格的な魔法詠唱者と名乗れるのは第一位階魔法を使用出来るようになってからと言われているが、その第一位階魔法を使用する為には世界との接続という段階を踏む必要があるという。
それは魔法を学び続けていると、ある時突然味わう事になる体験だといい、自身の魔力で世界の一部を変容させる業を扱えるようになった証らしい。
そこに至るまでの期間には才能による個人差があるが、比較的早いものでも五年はかかると言われている。
ンフィーレアがリイジーに魔法を学び始めてから、およそ三年。
例え自分に才能があっても、第一位階に到達するまで後二年は掛かる。
まるで牛歩のように感じられる自身の進歩に、ンフィーレアの内心には焦りが生まれていた。
(このまま何年もかけて第一位階魔法を習得出来たとして、それだけで金貨を何百枚も稼げるようになる訳じゃないし……、やっぱり何もない僕が一攫千金を目指すなら冒険者になるべきなのかな……。 でもそれにも、強くなきゃ話にならないか……)
彼は黙って鞄から本を取り出すと、床の上に藁を敷いただけの粗末な寝床に寝そべり、枕元の皿の上に立てたロウソクの薄暗い明かりで本を読み始める。
十分な光が無い為に読みにくさで目を瞬かせながら黙々と自習をするンフィーレアと、同じく無言で文字を覚えようとするモモンガ。
黙々と本を読んでいる事は同じだが、モモンガの心はンフィーレアよりも平穏だった。
比較的安全な隠れ家も手に入れたし、この世界の情報も僅かずつではあるが、知りつつある。
ンフィーレアとは違い、一刻も早く果たさなければならないモモンガにとって最近の暮らしは、それほど悪いものではなかった。
(一つ問題があるとすれば、やはりレベル上げが進んでいないという事か……。 だけれど、王都周辺にはモンスターはあまり居ないようだし、かと言って地理も良く分からない状態で遠出するのもな。 ……とすると、依頼書の件を考えてみるか)
王都に来るまでの旅路で経験したモンスターとの戦闘により、絶対正義の証には二ポイントの功績点が溜まっている。
モモンガは王都に来てから、この内の一点を利用して依頼書を一枚購入し、ある検証を試みていた。
それはンフィーレアが使用不可能になっていた依頼書に触れたとき、依頼書の文面が変化し、使用可能になったあの現象。
それが他の人間でも同様に起こるのか、についてだ。
出来るだけ人通りの少ない裏道を移動し、王都の貧困層と思われる路上に座り込んでいる人間を見つけては、『これを見てくれないか』とだけ言って紙を持ってもらう。
彼らは警戒心が強く、変装しているとは言え、紺色のローブを身にまとった怪しい人物であるモモンガに対し警戒心を顕にしていたが、そこは一、二枚の銅貨を渡す事で解消出来る。
数人を相手に同様の検証を行ったが、結果はンフィーレアと同様の現象を引き起こせた者は一人もいないということだけだった。
だとすればンフィーレアという個人に、依頼書を変質させる何らかの要素があると考えるのが自然だが、本人にその事を根掘り葉掘り聞くのは気が引ける。
質問をしていく中で、依頼書の正体について勘付かれるかも知れないし、絶対正義の証というワールドアイテムに繋がる譲歩は例え相手が子供であっても出来る限り表には出したくなかった。
そして他にも、ンフィーレアが眠っている時に依頼書を触れさせた場合は何も変化が起こらない。
この世界の住人とは言葉が通じるが、依頼書に書いてある日本語を見せたときは理解できていなかったという検証結果も得られた。
(やはりマカリとかいった町の例から考えると、依頼書を発動させると、依頼内容に応じて討伐対象のモンスターが出現すると考えるべきか。 ……ただ、実際に見たわけではないし確証はないな)
やはり、もう一度依頼書を発動させて様子を見てみるべきだろう。
もしも自分と同レベル帯のモンスターを予め決まった場所に出現させる事が出来るならレベル上げに大いに役立ってくれる筈だし、報酬のアイテムにも興味がある。
ンフィーレアから体が影になって見えない位置に依頼書を取り出し、改めて内容を確認する。
『ある錬金術師の弟子が、制御出来ない失敗作のゴーレムをしっかりと処分せずに、そのままゴミ捨て場に捨てました。 現在、●●●●に暴走状態のゴーレムが大量に彷徨いています。 街の住人に危害が及ぶ前に討伐していただきたい』
討伐対象は
火に対して脆弱性を持つ
炎、冷気属性に対して耐性を持ち、ゴーレムの種族特性として毒や精神作用も無効化する。
刺突属性の攻撃魔法、《マジック・アロー/魔法の矢》も刺突攻撃に耐性を持つ
(ま、今回の目的はあくまでも依頼書の効果の確認だし、戦う必要はないか)
考えが纏まったモモンガは
「ンフィーレア、これを読んでみてくれないか」
「え?」
まずはンフィーレアには手渡さずに目の前で広げて見せるが、ンフィーレアが首をかしげるだけで、特に何も起こらない。
「何ですそれ……、帝国語ですか?」
「いや、私にも良く分からないのだ。 近くで見てくれ」
そしてモモンガはさり気なく、依頼書の裏面を上に向けてンフィーレアに渡す。
ンフィーレアがそれを受け取り、文字を読もうと表側を自分の方に向けた所で、初めて依頼書が以前のように輝いた。
「わっ! こ、これって前の……」
「……ああ、どうして光ったんだろうな。 ……ありがとう、もう十分だ。 勉強に戻ってくれ」
依頼書を渡す時にモモンガが面倒な手順を踏んだのは、依頼書が修正される条件を詳細に確認する為だった。
ただ文字を見せるだけでは駄目、触れるだけでも駄目。
触れた状態で内容を確認しようとして初めて、修正が発動されるらしい。
ンフィーレアはその後、詳しい事情を聞こうとモモンガに質問をぶつけていたが、モモンガがしらを切り続けた事で、やがて諦めたようだ。
(これ以上怪しまれるのはまずいか。 もう少し、やり方を考えた方がいいだろうな)
一息ついたモモンガが依頼書に目を落とすと、解読不可能だった部分が修正されている。
そこにはリ・エスティーゼ西側、と書かれていた。