【ドラニュース】【龍の背に乗って】与田監督デビュー、最後の星野竜…縁ある横浜開幕戦2019年3月30日 紙面から 両手首に受けた衝撃が本物の証しだった。 「津田(広島)、槙原(巨人)、小松(中日)に同年代なら孝政(鈴木)だろ…。スピードガンの数字とオレの体が感じたものは違うから一概には言えないけど、同じくらい速かったよね。次の日、手首が痛かったの覚えてるもん」 1990年の開幕戦(4月7日、ナゴヤ)。与田が初めて対戦した打者が田代富雄だった。同点の延長11回、無死一、三塁という大ピンチに、星野監督は新人を送り出した。代打で登場した田代は当時35歳。翌年限りで引退するとはいえ、通算278発のスラッガーは威圧感があった。 第1球はフォーク。捕手の中村武志のサインはストレートだったのに、緊張のあまり与田が見間違えた。ところが2球目に一変する。社会人時代はMAX147キロだった与田が150キロを連発した。「とてつもない緊張感と恐怖感が、とてつもない開き直りを生んだんだろうね。怖かったよ。ものすごくね。でもあの1球目を投げたときに、吹き飛んだんだ」。修羅場で身がすくんだまま打ち込まれる投手と、眠っていた力を手に入れる投手がいる。与田は恐怖心をねじ伏せた。 ファウルを重ね、9球目に投ゴロで決着がついた。本塁に突入した走者と中村が衝突し、倒されたがボールは離さなかった。与田は年上の走者に食ってかかり、あわや乱闘の騒ぎになった。 「星野さんが次の日に言うんだよ。『おい田代、あの新人速かっただろ?』って」。まだホエールズを名乗っていた。クジラの頭領は与田を「本物」だと認めた。今季は田代が9年ぶりにチーフ打撃コーチとして復帰し、与田は23年ぶりに古巣のユニホームに袖を通した。選手としても監督としても同じチームと戦ったデビュー戦。試合後の与田監督は、もうひとつの縁を教えてくれた。 「星野さんがドラゴンズで最後の試合を戦ったのが、この球場だったんだ」。2001年10月11日。星野が愛するドラゴンズと決別した同じ横浜で、監督・与田が第一歩を刻んだのも運命なのだろう。 (渋谷真)
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