第42話 小谷ささら獅子舞・棒術

埼玉県鴻巣市                                                  


 埼玉県鴻巣市は、運転免許センターのあることで、埼玉県民にとっては馴染み深い土地である。以前(第21話)にも民俗
武芸の探訪に訪れたことがある。今回の執筆で、あれから10年以上経過していることに気づいた。過ぎ去る時の早さに、
驚かされるばかりだ。

 平成21年10月18日、旧吹上町に位置し、JR高崎線の北鴻巣駅に程近い
 鴻巣市小谷で、当地に伝承されている獅子舞と棒術の演技奉納が行われ
 た。この日は実りの秋を神に感謝するのに相応しく快晴である。

 事前に市役所に電話照会したところ、祭礼の開始時刻は午前10時との
 話であったので、いろいろと思案した挙句、前回の探訪記と同じく自宅から
 バイクで当地を訪れた。

 現地に到着すると、特設の舞台が設けられた日枝神社の境内には、既に
 多数の地元の方々が詰め掛けていた。周囲は長閑な田園風景の中に、
 どこか秋の風情を漂わせていて、祭りとはいえ思わず日常の喧騒を忘れ
 させてくれた。

 
やがて予定の時刻となり、祭礼の一団は神前に礼拝後、行列を整えて出発。道ひとつ隔てた金乗寺と、その西隣の宝勝寺で
演技奉納を行った。

行列の先頭集団には、釈杖や法螺貝を持つ人がいた。かつては祭礼の執行や獅子舞・棒術の伝授に、修験者のような宗教
家が関与していたのかもしれない。

集落の西には大きな土手があり、その向こう側の空にパラグライダーが飛んでいるのが見えた。地図で確認すると荒川が
流れている。乗用車とは違うエンジン音も聞こえたので、河川敷にスカイスポーツを楽しむ場所があるのかな?と思った。


当地の土手とは無関係であろうが、JR高崎線の北鴻巣駅を挟んで
反対側には、石田光成が忍城(現・行田市)を水攻めする際に築い
たと伝えれれる、堤防の遺構が一部残っている。


小谷の棒術との関係を物語るような口碑伝承が残っていれば、
歴史好きの人にはロマンを感じて頂けたかもしれないが、そうした
話は伝わっていないようだ。


現地で配布されていた資料によると当地のささら獅子舞は五穀の
豊作を神に感謝して日枝神社に奉納したものが起源とされ、その
詳細は不明のようであるが、約300年前の江戸中期から行われて
いたとのことである。

棒術については何も記されていいなかったので、現地の方に幾人か話を伺ってみたのだが、起源由来、流派名などの詳細は
不明であった。しかし演目がハッキリ伝承されているのだから、もし古文書などが現存していれば、そこに流派名などの詳細
が記されている(或いはいた)かもしれない。

 この日披露されたものとは多少相違があるが、資料に記された演目は以下のとおりとなっている。掛け声は、「ヤッ」、「ト
(トウ)」、「エイ」の3種と、演技の終了時のみに発する、「ヨイ」の計4種を 使う(聞き取りによる)。


 (子供の演目)

 花棒  振り出し  霞  八方  切り込み  突っ込み 


(大人の演目)

花棒(華棒)   振り出し   天地    霞    肩車    槍棒   片順礼    両順礼    牛棒    車棒

小手揚げ     腰砕き    左棒    両引き    飛棒    払棒(拂棒)    傘棒(笠棒) 

 
 さて、実際の演技は、棒頭(棒術の頭領格)の男性による『四方
 切り』から開始された。剣先を切り返しながら、4方向の地面を突き
 刺す所作を繰り返して行い、場を祓い清める。

 資料によると、辰巳、戌亥、未申、丑寅の順とあるから、東西南北
 からから少し方向がズレている。また、この演目で見せた切り返し
 (刀を前から後ろへ回転させる)の動作は、他の棒術の演目でも
 多用される。

 『四方切り』に続いて、子供達の棒術が行われた。棒術だけでは
 なく組太刀の演技もある。ある演目では互いに獲物を交差して地面
 に置き、コンコンと叩いてから開始したり、演技の最後には対面して
 蹲踞し、得物を垂直に立てる所作が何故か印象的だった。

 
演技の全体的な構成が、以前野田市(千葉県)で見た棒術と似ているように感じたからかもしれない。

子供達の演技の後、大人の棒術が行われた。最初は棒対棒の攻防がいくつか披露された。左右の連打でも前述の
『四方切り』のように、前から後ろへ大きく回しながら行うので、棒術としては、かなり大振りな印象である。剣術が基本の棒術
技法であるのか、或いはその逆であるのか、薙刀のような全く別の武器術の技法が入っているのかは分からないが、
この『回し打ち』が多用されるので、気になってしまった。


ある演目(『槍棒』、『笠棒』のいずれか)では、槍術も披露された。演技にはもちろん、真槍ではなく手製の穂先がついた
素槍が用いられる。相対した両者が歩み寄ると、前述の『切り返し』を使いながら、槍の下段突きを連続で繰り出す相手に
対し、笠を手にして左右に移動して攻撃を外す。その後、相手の突きを右手の笠で上から押さえ、(少々危な気だが)左手
で穂先を掴んで取り押さえる。その状態で前後に両者前後に移動するので、これは力による奪い合いを表現しているの
だろう。

そして最後は、相手の連続突きを右に左にと捌きながら笠で受け
流した後、何故か笠を被ってしゃがみ込んでしまうので、上から突か
れて終ってしまう。

武道経験者には『締まらなく』写るかもしれないが、しばしば
民俗武芸には、こうした技の哩合が分かり難い演技、勝敗の
不明確な演技が存在するのも事実である。

また、技名は分からなかったが、『切り返し』を用いた棒の連打
(回し打ち)の欠点を補うかのように、棒を胸元に引き込んでから、
飛び足(飛び違い)を用いた短く速い連打を使う演技もあった。

当地の棒術が大振りで武術的ではないと誤解を招くかもしれないの
で、そうした技も伝承されていることも、明記しておきたい。

当地の棒術は、棒だけではなく、剣、槍、笠、そして剣術技法を
応用した傘の演技もあり、素朴ながらも武術としては多種多様、少年から壮年まで、の合った演技が披露されて、なかなか見応えのある内容であった。

金乗寺、次いで西隣の宝勝寺で演技奉納を行った祭礼の一団は、そのまま日枝神社へと戻って昼食休憩となった。隣接
しているので当然だが移動距離が短い。これらの社寺がどのような関係にあるのか、詳しく聞いておけばよかったと後悔
した。棒術の起源由来について、何かの手がかりが掴めたかもしれないと思うと迂闊であった。


 
 そういえば、宝勝寺での棒術の演技終了後、リラックスしてささら
 獅子舞を鑑賞していると、歌詞の中に興味深い一節があり、耳に
 飛び込んできてハッとした。

 「かしまから きりよきりよと せめられて 習い申しちゃ かしま
 きりぶし 習い申しちゃ かしまきりぶし」(切調子)

 『鹿島信仰=鹿島の武術』と早合点し、資料を片手に幾人かの
 地元の方に質問を試みたが詳細不明であった。謎は謎のままに
 しておくのもいいのかもしれない。

 ※後日読んだ資料の中に、ほぼ同じ歌詞(東京都立川市の獅子舞
 唄)を見つけた。由来や意味は分からなかったが、各地で広く伝承
 されているのかもしれない。



午後からは日枝神社の境内で、来賓を招いた演技奉納が行われ るのだが、所用で帰らなくてはならない。残念だが荷物を
まとめて家路についた。


帰り道は、鴻巣市の中心地を通ってみることにした。偶然だがこの日は何かの祭りのようで、道路の脇には露店が立ち並び
以前熊谷で見たような(第34話)、結構立派な山車(屋台?埼玉県下では、江戸型人形山車や秩父型屋台といった分類が
あるそうだ)が停まっていた。

「そうか!ここは中仙道?!」と、車上で気づいた。この日私が通った道を、同じように棒術(の伝承者)が通って、小谷へ
伝えたのではないかと思った。

 (参考文献)

・平成21年度 鴻巣市小谷ささら獅子舞奉納(現地配布)    鴻巣市小谷文化財保存会

・埼玉県民俗芸能調査報告書第四集 原馬室の獅子舞・棒術    発行  埼玉県立民俗文化センター

・新編埼玉県史 別編2 民俗2                   編集発行  埼玉県

・埼玉県民俗芸能誌                          著者 倉林正次   発行所 錦正社

・東京都民俗藝能誌 上巻                      著者 本田安次   発行所 錦正社

・江戸東京の民俗芸能 ― 3 ■獅子舞      著者 中村規  発行所 ㈱主婦の友社

・日本民俗芸能事典        監修 文化庁  編集 日本ナショナル・トラスト   発行所 第一法規出版㈱



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付記 「祭礼における棒術と獅子舞の関係について」

よい機会であるので、獅子舞と棒術は何故併伝されてきたのかを考えてみたい。もちろん確かな根拠がある訳ではなく、
あくまで個人的な想像ではあるが・・・。

前回の探訪記で、元々剣(又は棒で)場を祓い清める行事(神事芸能)があったのに、後世に流行した獅子舞が、視覚的に
美麗であったために主役の座を明け渡したのではないか?というのが、私の想像であったのであるが、もしそうだとすれば、
主役を交代した後も、棒術が何某かの役割を担い、意味づけをされて、相伝されてきた理由が必ずあるはずである。

その第1の理由としては、祭礼の露払い的な役割ではないだろうか。獅子舞が五穀豊穣を神々に感謝し、来る年の豊年
を祈願する役割を担わされたとしたら、元々の主役(剣・棒術)にその舞台を祓い清めさせるというのは、正に適役、好都合
であったのだろう。

当地であれば、演技の冒頭に行われた『四方切り』。あれこそが祭礼における棒術(剣術)の元々の姿であり、場を祓い
清め、悪魔を退散させるのであれば、これだけで十分のはずである。

となると、様々な技が付加されて、武術としての棒術(剣術)が獅子舞に併伝されるようになったのは、新たな別の理由、
役割を担うことになったと、考えられはしないだろうか。

武士・農民の別に関係なく、古武術の伝承の秘密性を考えれば、衆人注視の中、現在のように沢山の技を披露するという
のは、先ずありえないことである。こうしたスタイルは明治以降、近世になってからではないだろうか?祭礼の場においては
表型の抜粋か、それらの技法を流用した『花棒』、『宮棒』と称される、人に見せてもいい棒術(剣術)が行われていたと
私は考える。

ならば村落という地域社会の中で、極私的な修練とは別に棒術が稽古された理由とは何か?ひとつは自衛護身、そして
肉体の鍛錬という、現代と共通の武道修行の目的。もうひとつは、地域の青少年育成のための教育的手段としての役割
ではなかろうか。

現代のような学校教育がない時代、武術修行を通じて青少年達は、人と社会との関わり方を学んだのではないだろうか。
祭礼における獅子舞は、学ぶ人間に限りがあるが、多数の青少年達を同時に薫陶するには、武術の方が向いているよう
に思うのである。

他に理由はないかと考えてみる。それは祭礼の警護役としての棒術(剣術)の存在である。実際に『警固』とか、そのように
呼んでいるところもあるが、最初私は『悪魔退散の露払い役』としての『警護』だと考えていた。

しかし、よく考えてみれば、現代のような警察がない時代は、祭礼の執行を妨害するような悪意ある観客に対して、自衛する
必要があったはずである。獅子舞に難癖をつけたり、冷やかしたりだけではなく、観衆同士が喧嘩を始めたり、酔客が狼藉
を働いたりといったこともあったはずである。

娯楽の少なかった時代、村祭ともなれば内外から多数の観衆が見物に来たと思う。中には殺人、誘拐、暴行、窃盗等と、
許し難い悪事を働く『招かざる客』もいたであろう。

祭礼において棒・剣術の使い手たちは、それらの悪人に対し、時には制裁を加えることもあったかもしれないし、観衆の中
にいる『見えない敵』に対して、威圧感を与える必要があったのではないか。

武術の心得がなくても昔の人であれば、例え花棒・宮棒といった演目であっても、その棒捌きを見れば、使い手たちがどの
程度の力量であるとか、悪事を働けばどのような仕打ちをされるかとかが、容易に理解できたのではないだろうか。

もしそうだとしても、電話一本でパトカーが来てくれる時代ではないのだから、現代人の視点で事の是非には言及しないこと
にする。

以上、祭礼における獅子舞と棒術の関係と、何故今日まで伝承されてきたのかについて、とりとめなく綴ってみた。民俗武芸
は、単なるサムライの体育ではない。地域社会と密接に繋がり、様々な目的・役割を重層的に担ってきたのではないだろう
か。

 

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