第40話 上三林の棒術

群馬県館林市                                                


 私事だが数年前、住み慣れた関西を離れて上京、結婚して2女を授かった。仕事以外の時間は妻に協力して育児に
一生懸命の日々である。長く続いたこの旅もようやく終わりかと思っていたところ、妻がこの分野にも理解を示してくれて
再び民俗武芸の探訪を行うことになった。

群馬県の南東部に位置する館林市、地理的には栃木県、そして獅子舞の盛んな埼玉県にも程近いこの地にも、ささら
(獅子舞)に併伝された棒術が伝承されている。平成19年9月19日、私は妻子を伴ってこの地を訪れることになった。

事前にネットで調べたり、市役所に照会していたので当日の日程はある程度掴むことができた。ところが翌日が祭日という
こともあって高速道路は渋滞し、車中の子供達も早くも退屈の様子である。途中で休憩して昼食を取り、遊んだりした。

現地への到着が遅れそうだが、これは仕方がない。天候も思わしく
なく小雨がパラついてきた。

当日祭礼の行われる上三林地区に到着した頃には、次第に雨脚が
強くなってきた。地図を頼りに右往左往してようやく雷電神社へ到着
すると、境内から着物姿の地元の方々が出て来られた。昼の奉納
について質問すると、雨天のためこれから隣の集会所(新田)で披露
されるとの話。私も早速、長女と機材を担えて後に従った。

当地の棒術は柳生新陰流(※当地関連の資料が「新影」表記のもの
もある)、あるいはその流れを汲むものといわれている。ささらに関し
ては、武州忍下中条(現埼玉県行田市)からの伝来とされているが、

館林市の作成した調査報告書を一読した限りでは、棒術についての
起源由来等に関する記述もなく、その詳細は不明のようである。
また、資料に記載された当地の棒術の演目は、以下のとおり
となっている。


 実は館林市内には他所(木戸
 町)にも獅子舞に併伝された棒
 術があり、こちらも柳生新陰流
 であるといわれている。

 新陰流が高名であることを
 理由に、当地だけが自称して
 いるのでは決してないので
 ある。

 江戸期の歴代の館林城主は
 徳川家と関係の深い大名家が


多い。新影流が当地に伝来していた可能性は低くはないと思うし、館林藩でどのような流派が修練されたいたかを調べると
いう手もある。だが、「官・民」とでは伝系が違う場合もあるしあくまで、「参考」にしかならない。

本当に「柳生」の棒術であれば、長谷川流の可能性もあると考えた。長谷
川流は江戸時代に中興し広く行われたことが、「武芸流派大辞典」にも記
載されている。しかし、過去の例(第20話 「窪の棒術」)にも見られるように

同じ流派であっても伝承地と伝系が異なると、武術の場合は全く違う内容で
伝承されていることが多い。「民俗武芸」のように年中行事化したものであれ
ば、尚更である。これまでの探訪記と同様で残念であるが、私にはこれ
以上は確かめようがない。

ただし、当日の演技を拝見した限りでは、武道の流行にも殆ど影響を受け
ておらず、その芸態は古態を保持しているものと感じられた。

さて、集会所に到着すると、当地のささらは無形民俗文化材として、館林市
から指定を受けていることもあり、あって、屋内には地区の内外から詰め掛
けた多数の観客で一杯であった。関係者の挨拶の後、早速棒術から演技
開始となった。この日の演技は雨天のため屋内ということもあり、天井の
高さを気にされているようで、やり辛そうな印象を受けた。

長女を抱いての撮影であった。退屈して騒ぐことは予想していつも愛用して
いる一眼は持参しなかったが、やはり無理なことは無理である。隣接する
佐野市に妻の実家があるので、様子を見かねた妻が娘達を連れていってくれた。おかげで私も久々に育児から開放され、
少しずつ平静を取り戻して行くのが実感できた。

 集会所での演技の後、祭礼の一団は出発して、旧村境に位置するので
 あろうJA前の八坂神社や十九夜堂といった小祠前へ移動して、演目「七五
 三」を奉納。これは並列した2人の演技者が抜刀後、姿なき相手を斬り祓う
 かのように7,5,3回毎に区切って片手斬りを行うものである。七・五・三と
 いう数字にどのような意味があるかは不明であるが、重要な演目であるに
 違いない。

 その後、他の集会所(本郷)で演技を披露した後、祭礼の一団は再び雷光
 寺境内の新田集会所に戻ってきた。最後の演技ということもあり、幸い雨も
 上がったので屋外での演技となったが、雨後ということで、地面にブルーシ
 ートを敷いての演技となった。やはり慣れていないとやり辛いことには違い
 ない。

 前述の「七五三」の後、「花棒」など少年達の演目から順次演技奉納され
 た。少年達は 練習の成果を発揮して、複雑な手順の演技を披露してくれ
 たが、この日の演技で興味深い演目に「鎌棒」があった。

抜刀捕りの一種である。演技に用いる鎌は、一木を削り出した珍しい形状で、「鎌棒」の中に2通りの演技がある。先ず相手
の正面斬に対して刃の方を持って、左右から柄の部分を繰り出して打ち払う。最初、少年が間違っているのかと思ったが、
資料を見るとそのように記載されている。

古い短刀術の中には、意図的に相手の後から抜刀する型(形)があると聞いたことがある。これは相手より先(最初から)に
抜刀して応戦すると、罪になるからだと推理する人もいた。刃の部分を握って応戦するという所作も武術的には理解し難いが
何か特別な意味があるのかもしれない。

2つ目の演技でも、先ず相手の正面斬りに対して刃の部分で受けているように見えたが、逆手であるのと握り手がかなり
刃元なので危なげな印象である。数回繰り返した後、左右の脛斬りに対しては跳躍して逃れる。最後に相手の正面斬りを
鎌で受けると、刀の柄に手をかけて、これを回転させながら相手の腕を捻り、大きく左脇へ引き込んで相手を崩した後、
相手の右肩から肘の方へと鎌を引っ掛けて奪い取る。

相手に奪った刀を返すのも慎重で、鎌と太刀を交差して相手に接近すると、相手が刀を掴んだ瞬間、右手の鎌を上手く利用
しながら、左手で柄に手を掛けて捻り、切っ先を地面に突き刺すかのようにした後、相手から離れる。といった内容が印象的
であった。

また時折、周囲で見守る師匠格の大人達から、
「もっとゆっくり」と助言が飛ぶ場面が度々あった。

「もっとゆっくり」には、いろんな意味があると思う
が、ひとつに「ゆっくり丁寧にして個々の動作をきちんとする」
ということもあるのではないだろうか。

初心の頃は、意識して相手と動作を合わせようとすると、
どうしても片方の相手の動作が全て遅れがちになるし、逆に
相手を振り負かそう、圧倒しようと全速で棒を振ると、早く
振っているはずなのに、最初から最後まで同じ調子(速さ)と
なり、メリハリのない演技になってしまう。
本当に難しいところだ。

私の手元にある資料(文化財総合調査 館林市の民俗芸能
第一集 上三林のささら)は、ささらの調査報告書なのに、

内容の大半を写真入で棒術の実技解説に費やしている珍しい資料であるが、これを見ると、両者得物を打ち合わせたり、
斬り結んだ後、後退(間合いをとる)した時は、動作を一致させキッチリと構えを極めている。美しい。

こうして動作をピタリと止まるところは止めるようにすると、次に動く時の動作(速さ)が活きてくる。本に掲載されているような
模範演技の域に達するには大変であろうが、当地の棒術はじっくりやり込むと非常に美しい演技になるであろうとの印象を
受けたので、次代を担う子供達には末永く棒術を続けて欲しいと感じた。


(参考文献等)

・文化財総合調査 館林市の民俗芸能 第一集 上三林のささら

                  編集・発行 館林市教育委員会文化振興課 発行年月日 昭和60年3月21日

・館林市の文化財       発行 館林市教育委員会文化振興課  平成18年3月発行

・上毛新聞ニュース(記事・web版)   07年8月30日記事 「上三林のささら」で少年少女教室
                        07年9月24日記事 伝統の「ささら」奉納

・増補大改定 武芸流派大辞典
                
         編者 綿谷雪・山田忠史  発行所 東京コピイ出版部  昭和53年12月10日発行

・館林市公式ホームページ http://www.city.tatebayashi.gunma.jp/

・kame のページ 「関東各地の民謡と民俗芸能」 http://www2.accsnet.ne.jp/~kamey/

・-真夏の大地に雨を祈る- 館林市木戸町のささら舞を追って
        http://homepage1.nifty.com/sawarabi/040725isasaramai/sasaramai1.htm



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