第37話 立川の獅子舞棒仕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
東京都立川市 |
平成16年8月22日、私は立川市柴崎町に鎮座する諏訪神社で奉納される獅子舞と棒術を観るために、JR中央線の立川駅
で下車し改札口を外に出た。この日は神社の例大祭だと聞いていたのに、祭りの日に合わせてイベントが開催されているのか?
駅を一歩出ると大変な賑わいで(『実行委員会』主催の夏祭りで別イベントとのこと)、それが神社まで続いている。
立川は多摩川沿いに、上立川、中立川、下立川と、上流から
3つに分かれていて、それぞれが、棒術、獅子舞、草相撲と、
別個に奉納していたというが、現在は草相撲のみが行われて
いないようだ。しかしかつての名残なのか、奉納は境内の土俵
を舞庭にして行われる。
当地の獅子舞と棒術の起源・由来について資料を探してみた。
先ず神社所蔵文書目録の中に、『祭礼獅子舞覚』という元禄2年
(1689)の古文書の名があるが、その当時に棒術が行われていた
のかは不明である。
獅子の御本家は、五十嵐市左衛門家と伝えられ、棒術は同家の
五十嵐助左衛門が伊勢参りに行き、習得してきたものだとされて
いるが、まさか伊勢神宮で特別な棒術を伝承している訳ではない
だろう。
話の真偽は別にして、棒術自体は元々当地のものではなくて、
他所から伝来したもののようだ。しかしそれが、現在行われて
いる棒術と同じであるかどうかは、これもまた定かではない。
柴崎村名主、鈴木平九郎(1807~1864)の記述である『公私日記』は、天保8年(1837)から安政4年(1857)の21年間の記録
である23冊が現存している。当地の祭礼については、天宝8年7月27日の項に、「快晴 (諏訪社)祭礼ニ付平氏より子供両人
、日野藤左衛門笄者来ル、当年獅子宿あらや敷善蔵、棒ノ宿隣富八、角力者沢村町内当番、諸事無滞相済」という記載がある
ので、この頃には確実に棒術が行われていたようである。
現在のように保存会組織が結成される以前は
棒組。獅子組と別個に活動していたので宿も別であった。
演技者は家の長男が務めたとのことである。
さて、神社の境内へ到着したが、遊戯や飲食などの露店が所狭しと
立ち並び大変な喧騒である。演技奉納が行われる土俵を見つけると
何故か安堵してしまった。周囲とは別の厳かな雰囲気を感じたから
なのかもしれない。ここが本来の祭礼の舞台なのだろう?と
思うと不思議な気分である。
やがて演技奉納の時刻となった。獅子舞に先立ち棒遣いの演技が
披露された。当地の棒は少年のみが行う。化粧を施した白い顔が
印象的である。
次に資料に掲載された演目を紹介する。棒には『大棒』と『小棒』の
別があり、それぞれ名称が異なっている。
小棒
いつまわし ちらし りょうけ 背負投げ
大棒
いつまわし つるの一足 さんか むぎ 表の太刀 ひだりしゃ 右のえん
等となっており、他に『さいさい』、『まわりこみ』といった名称の演目もある。また、当地では、表の太刀の構えに関して、上段
と下段の別で、更に細かく分類されているので、それも併せて紹介する。
上段: たちもみじ あいちょうし どじょう
下段: かすみのえん 正眼 しょうのくらい すわりもみじ たいしゃがはらい
余談ではあるが、ある柔術の流派では、『もみじ』とは『手のひら』の隠語であると聞いたことを思い出した。当地ではどのよう
な意味であるのかと気になった。
いつもの探訪記であれば、印象深かった演技について、実技描写
をして感想を述べるところであるが、情けないことに当地を訪れた後
私事で転居した際、映像記録と資料文献が一部散逸してしまった。
それで長い間、この話を執筆できなかたのだが、その時の印象を
回顧してみると、成人の演技とは違う故に迫力不足は確かに否め
ないが、
構えや個々の動作の中に古流独特のものを感じさせてる良い演技
であった。全体的な演技の構成・内容は、この後に訪ねた、西戸倉
や瀬戸岡と似ていると感じた。演目も一部共通しているものもあるの
で、他の多摩地方の棒術と同様に、天然理心流の影響を受けている
のかもしれない。(第38、39話に詳述)棒遣いの演技の後、獅子舞
の演技奉納が行われた。
古流であれば柔・剣・棒術といった様々な武術を含有している、
『総合武術』でないことの方が少数派である。
天然理心流も『総合』の流派のひとつであるが、小具足(短刀体術を根幹とする柔術以前の中世の格闘術)も伝承されたいるか
らであろうか、現存する伝書の中にも、『竹内』の語が明記されているものがある。柔術に関しては(厳密に言うと柔の語は、関口
流から出た言葉であるが)竹内流の影響が少なからずあるかもしれないが、もしそうであれば、どのような過程を経て竹内流が
流入していったのであろうか。柔術だけではなく棒術はどうであったのであろうか?
今までは誤解を招くと思い避けてきたが、例えば『腰車』、『柴引』と
いった名称の演目(技)は、全国各地で伝承されているし、(『柴引』は
高千穂神楽の演目にもある。)
当地でも伝承されている『鶴の一足』、『散』といった技名も、西日本の
流派(前述の竹内流)でも伝承されている。西戸倉にある『順礼』という
技も竹内流の中にある。
ならば、多摩地方の棒術は竹内流なのか?という問いがあったとして、
断片的に似ている箇所を理由に、同一であるという結論を導くのだと
したら、全国の棒術は全て同流派になってしまう。
古武道を稽古されている読者の中には、自流と同じ名の技が地方の
郷土芸能の中にも伝承されているのを知って、驚かれた方もいると思う。
しかし何流であれ、技の名が同じであることのみを根拠として、ひとつの流派が全国各地に伝播したとは考え難い。
けれども、内容が異なっていても同じ名前の技が全国的に分布しているという『偶然』を、どう説明すればよいので
あろうか・・・?
必ず何かの理由があるはずである。せめて技法で年代を特定できればよいのだが、武術の場合はそれも難しい。
ところで、この探訪記を執筆中に興味深い記事を見つけたので、最後に紹介したい。当地ではなく、野上(青梅市)の春日神社
の例祭についての記録(古文書)である。
「九月十九日を以ってこれを祭る、当日鹿舞の神事あり、また棒使いと称し武技演習の儀あり」
※江戸東京の民俗芸能 ― 3 ■獅子舞 著者 中村規 発行所 ㈱主婦の友社 より
残念ながら書名・年代不詳ではあるが、『棒使い』を見て、昔の人がどのように感じたかが分かると思う。少なくとも当時の人達
の眼には、『舞踊』であるとは写っていなかったようだ。
(参考文献)
・江戸東京の民俗芸能 ― 3 ■獅子舞 著者 中村規 発行所 ㈱主婦の友社
・祭礼事典・東京都 編者 東京都祭礼研究会(監修者 倉林正次) 発行所 ㈱桜楓社
・立川市史 下巻 発行 立川市
・立川市の歴史と文化財 発行者 立川市教育委員会 昭和49年3月30日発行
・立川市文化財調査報告Ⅲ
諏訪神社所蔵文書目録 発行 立川市教育委員会 昭和57年3月30日
・星竹の獅子舞 著者 石川博司 発行者 多摩獅子会の会 平成10年7月30日
・多摩のあゆみ 第86号 特集 多摩の剣術 発行 (財)たましん地域文化財団
編集 たましん歴史・美術館歴史史料室
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