第31話 小木の棒の手 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
岐阜県多治見市諏訪町 |
岐阜県下で唯一、棒の手を伝承している多治見市諏訪町小木は、江戸時代には尾張藩の領地であった。寛永
年間に著された『濃州徇行記』にも、
「民戸は山腰に散在せり、高(33石)に準じては戸口(49戸
230人)多き故山かせぎをも第一として、柴薪を採り春日井原
あたりへ売りつかはし、又秋に至っては栗を拾ひ名古屋へ多く
売出すと云」との記載があるといい、
古くから同じ藩領の尾州とは経済的にも関係が深く、故に彼の
地の棒の手が当地へ伝来したのであろう。
当地の棒の手は、木曽義仲の家臣の今井四郎兼平を遠祖
に仰いでいる。近江国粟津での合戦後、敗走した兼平がその
一族とともに当地へ来住し、再起を願ったのか土地の者へ武術
を教授したところ、いつしかそれが芸能化して今日に至ったの
だという。
しかし実際に、現在当地で行われている棒の手(芸態に地域差があるかもしれないが)は、愛知県尾張旭市でも伝承され
ている『無二流』である。
平成12年10月15日、JR中央線古虎渓駅にて下車後、徒歩
にて小木を目指した。この時に道順を尋ねた御婦人が同行して
くださって、当地の事など様々な話を賜った。御婦人はこの日の
祭礼に合わせて帰郷したのだという。
演技奉納の行われる諏訪神社に到着したが、奉納開始は
正午以降とのことで、しばし神社の前で佇む。その間、農作業中
のご年配の方や交通整理の警官の方など、私の姿を見止めて声
を掛けて下さった。
皆気さくな方ばかりで、しばし和やかな時が流れる。
さて、いよいよ祭礼が開始される時刻となった。辺りに爆竹の音が
響き渡り、神社の彼方に幟が翻る。
その場所を目指して、見物人の老若男女、武具を担えた少年達が次々と駆けて行く。さながら合戦に出陣するかのようで
ある。
やがて、神社を目指して出発した一団は神社の境内へと練り込んで来た。
この日の模様は後日地元のTV番組で放送されるとのことで、境内には機材
を担えた一団も陣取っていた。
演技奉納は、少年達の組から続々と行われる。
棒、剣、薙刀、槍、長柄鎌、傘、そして鍋蓋、変わったところでは、棒の手では珍しい櫂を
用いた攻防を行い、皆が複雑な手順の演技を見事に披露している。
無二流は他の流派と違い(前足に重心を置いた)前屈立ちがなく、前後に大きく開脚した独特の
構えをとる。この点は、以前拝見した尾張旭市のものと同一であった。
演技も終盤となると、真打ちである壮年の方々が続々と登場し境内を沸かせた。中でも鍋蓋対槍の攻防は見ごたえ十分
のすばらしい演技であった。演技は先ず槍を担えて歩を進める相手を、背後から突き飛ばす場面から開始される。
この後両者対峙した後、相手の面打ちを上段正面に受け、
その後、次々に繰り出される中段突きを、体の内から外へと左右
に受け流す。
すなわち、槍の穂先を鍋蓋でガードしつつ、相手の攻撃線を自分の
中心線から外へと変更させているのであり、極めて理に適った術技
である。
槍の使い手も、細身で軽量、そして長柄という得物の利点を生かし、
双手突きではなく半身の片手突きで攻撃を加える。
これに対して鍋蓋の用い手は、体を躱しつつの背面受け、
下段突きは地面に押さえ付ける等の妙技を披露。
次第に間合を詰めて相手の槍の柄を掴むと、鍋蓋でこれを打ち払い鮮やかに奪い取った。その刹那、この名演に境内の
観衆からは惜しみない声援と拍手が送られた。
諏訪神社での演技終了後、観衆お待ちかねの餅投げが行われ、境内は善男善女の歓声で溢れかえった。またこの日、
演技中に刀が折れてしまうというアクシデントがあった。土地の方々によると、再びこうした道具を購入するための経済的
負担は大変とのお話である。
自治体からの経済的な助成等もあるようだが、さほど高額でもなさそうである。(もちろん刀が折れたのは故意ではない。)
伝統を維持継承する中で度々直面する問題のひとつではあるが、何か良い知恵はないものであろうか。
(参考文献)
・愛知の馬の塔と棒の手沿革誌 編集・発行 愛知県棒の手保存連合会
・郷土の棒の手 編集発行 豊田市棒の手保存会
・昭和42年3月31日発行 岐阜県指定文化財調査報告書 第十巻 発行 岐阜県教育委員会
・昭和46年3月 岐阜県無形民俗資料記録作成報告書 第三輯 岐阜県教育委員会
・岐阜県文化財図録 平成11年3月31日発行 編集 岐阜県教育委員会
・ふるさとの想い出 写真集 明治大正昭和 多治見 編著者 笠井美保 発行所 ㈱国書刊行会
・東濃の祭 編集者 東濃教育事務所学校教育課 発行所 ききょう出版
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