第17話 宮口町の棒の手

愛知県豊田市                                                  

 愛知県内で伝承されている棒の手には、現在も10余の流派があり、各地で保存会が結成され、有志の方々
によって、その保存と振興が図られている。
 平成7年10月22日、豊田市宮口町の宮口神社の境内では、町内の3地区から棒の手が奉納され、詰め掛けた
多数の観衆で大変な盛況であった。

 当地の棒の手は、その名を鎌田流といい、棒の手
 を代表する流派の一つとして古くから名高い流派の
 ひとつである。

 鎌田流は天正の頃、岩崎城主丹羽勘助氏次により、
 領民の武術指南役として家臣に迎えられた武術の
 達人で棒術を得意とする浪人、鎌田兵太寛信を元祖
 とする。

 彼はその後、小牧長久手の合戦が勃発した際は、
 岩崎城攻防戦で勇戦、戦後は戦没者の菩提を弔う
 為に仏門に入り、名を寛信坊を改め諸国を遍歴、
 回國行脚の途中に郷里尾張を訪れ、末森村蝮ヶ池


の村落に至った際、村民の懇願で一草庵の庵主となった。
 その後、旧知や村民の懇望で、当地に鎌田流の道場を開設。やがて寛信坊が武術の達人であることが知れ
ると、近隣、さらに三河地方からも教えを乞う者が後を絶たなかった。

 こうして寛信坊は武術を通じて門人の薫陶に尽力し、
寛永4年(1627)、齢85歳で病没したと伝えられる。

 それから百数十年後、
三河国宮口村に深田佐兵満孫という者が現れた。
彼は幼少の頃から武術を志して剣術に優れ、自流を
石巻我心流と称すほどの名手であったが、

小嶋幸吉公良の門下に入り、寛信坊直伝の鎌田流を
学ぶと、天明3年(1783)に免許皆伝を得、三河鎌田流
の開祖となり、当流は宮口を始めとして西三河一円に
広まり現在に至っている。

当日境内では、警固の鉄砲の轟音が響く中、幼児
から壮年まで幅広い年代の演技が披露された。

当流の演技は、異種武器による攻防が殆どであり、
『差合』のように比較的ゆっくりとした拍子で、木剣と棒による基本的操法で攻防を演ずるものから、激しい気合
を発しつつ動きも豪快で俊敏なものまで様々な演目が伝承されている。

  中でも、伊勢神宮での奉納で喝采を浴びたという、
 『殴り鎌』と呼ばれる長柄の鎌と剣術による攻防の
 演技は、当地の鎌田流の誇る演技の一つである。

 凄まじい速さで繰り出される鎌は、相手の頭へ足へ
 と何度も襲い掛かる。

 演者はこれを跳躍で躱し、剣で受けたりと必死の
 防戦である。最後は剣を捨てて鉢巻で鎌を搦め捕ると、
 一転して強力を駆使した棒取りの攻防となり、

 投げ放たれた相手は、鮮やかに空を切って受身を
 とった。この気迫の演技に、観衆から惜しみない声援
 と拍手が送られた。


 棒の手の演技は、定期的な短い動作の「手」(形)を基本として、手をいくつも組み合わせた連続形で構成
されている。棒の手の表形では、真剣を使わないとされているが、明治以降はキレモノと称して、真剣が公然と
使われるようになった。

また、棒の手の基礎は棒とされ、棒から入り、次いでキレモノと呼ばれる槍、薙刀などに移る。しかし、実際
には他にも、剣、鎌、傘、十手術、その上体術など様々な術技の心得が要求される総合武術である。

 なお、現在使われている演技の呼称等とは相違があるが、古文書等によれば当流の演目は以下のとおり
となっている。

 鎌田流目録

  差合  受込  谷合  引合  一戸打

 中段

  小手碎  小手返  山落鎌  山越  坂太刀  踏落  吟結

 鑓術

  上段  下段  中段  生眼

 長刀

  初重  逆身  清眼  開込

 虎乱水車

 苛烈な歴史を有する鎌田流も、現在は郷土の財産
として地域社会の理解を得て、人々の暮らしの中で
その火を灯している。


 (参考文献)

・愛知の馬の塔と棒の手沿革誌       編集発行  愛知県棒の手保存連合会

・郷土の棒の手                 編集発行  豊田市棒の手保存会

・足助の棒の手                 発行     足助町教育委員会

・旭村の棒の手                 編著者 鈴木藤綱    発行者 旭村教育委員会

・猿投まつりと棒の手(チラシ)        猿投棒の手ふれあい広場

・豊田棒の手の各流派(チラシ)       猿投棒の手ふれあい広場

・愛知県の歴史散歩 上,下         編者 愛知県高等学校郷土史研究会  発行所 ㈱山川出版社




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