第11話 吉野の棒術

大分県大分市                                                  

 大分県大分市の中心地から内陸部へと大野川を遡上して、臼杵市方面に向かう途上の丘陵地帯に鎮座して
いる高尾神社(大字吉野字宮尾)では、平成7年4月9日、当地に伝承されている獅子舞等ともに棒術の演技奉納
が行われ、地元の方々を中心に詰め掛けた多数の観衆に披露された。

 
  資料によると当地の棒術は、薩摩藩士東江長門守を
 元祖とする自現(見)流といい、以下本田隼人、同大四郎
 と相伝されてきたそうで、高尾神社にも元和3年(1617)
 の自見流棒術極意書二巻の古文書が残されていると
 いう。


  また、当地の棒術の伝承経路に関しては、文化13年
 (1816)、久木小野村の佐藤源蔵が、吉野村の中津留
 藤作に伝授した「免状目録」が、明治・大正年間の「允可
 目録」、「免状目録」と同様の内容であることから、当地
 の棒術が久木小野村から伝来したものと推察される。



 
 連綿と伝承されてきた当流は、明治から大正年間に相馬関蔵という棒術の名手を輩出した。関蔵は、三年以上
毎夜の修行を続け、棒術36本、手棒24手、忍法免状目録を習得した者に師範免許状を伝授したといい、同年間
に、関蔵から免許を伝授された者には、釘宮勝蔵、仲間福太郎、帆足角市、和田三代蔵、仲間伝平、相馬秀雄、
相馬春喜らの名前が知られている。

 
盛時には数十組が演技奉納を行っていたという
本祭も、戦時中から戦後にかけて中止と復活を繰り
返していたが、

昭和52年に甲斐安生が自治委員の時、郷土芸能
の復活がふるさとづくり活動として取り上げられ、
吉野棒術保存会が結成、甲斐安生、同重光が師範
となり、地元の若者達に教授を開始した。(敬称略)

 そして、昭和62年から吉野小学校でも体育の授業
の中で棒術を教授するようになったそうで、県教育
委員会が作成した資料にも、同校で使用されている
教本の一部が掲載されている。
 

 鞍馬流とも称される当地の棒術の演目は次のとおりである。祭礼ではこの中の11手から、演技者の得意な演目
を抜粋して行うそうである。
 
  碁法  差合  腰弛  日之杖  肩休  笠弛  腰車  芝引  水引  物見  からかい  稲妻

  薄雲  無双  一拍子  五輪  横杖  上段  忍杖  大構  猿之延足  表裏  奥之無双

  差合崩  鎗之杖  森倒  下段払  夜之杖  裏杖  無双之杖  実之杖  宗乗坊

  当日は残念なことに朝から雨が降り続き、境内には相撲の土俵型の
 舞庭が用意されいたが、実際の演技は本殿脇の舞台上で行われた。

 県南部に広く分布する杖術(荒川流)と同様に、毛の被り物(がっそう)を
 着用していたが、激しい動作の為に視界を遮断されることがあるらしく、
 「前が見えん!」と怒鳴っている方がいて、観衆に笑いの渦に引き込んで
 いた。

  「柴引」の演技では、ズルズルと棒を引き摺りつつ歩を進める両者が
 擦れ違う時、敵が棒を踏み落した瞬間、振り向き様、上段面打に来た
 時、無手で素早くこれを受けて巻き取ると、1本の棒を互いに奪わんと
 して前後に引き合う攻防から開始される。

  跳躍を多用するのも特徴で、横方向への移動や直突きも場合も
 飛び足を用いていた。どの演目も手数が多く演技の中盤から連続打ち
 の速い攻防があり、演技者の扮装と相俟って異様な迫力である。

  他にも太刀対薙刀、十手、鎖鎌術などもあり、総合武術の体裁を
 整えている。納刀の際には刃を下方に向けた太刀差しであるのが
 興味深い点であった。



 
 また、十手、鎖鎌の演技では、残心の気合の際に、『捕った!』と発声していた。現在ではあまり用いられない
古風な掛声である。

(参考文献)

・大分県文化財調査報告書 第八十六輯

 大分県の民俗芸能 -大分県民俗芸能緊急調査報告書-     発行   大分県教育委員会

・大分県の民俗芸能(一) 大分県文化財調査報告書第十四輯    発行   大分県教育委員会

・大分県史 民俗編                              発行   大分県

・大分祭事記            著者  松岡 実      製作発行  ㈱アドバンス大分





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