第10話 山北の棒踊 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
高知県香美郡香我美町 |
高知県下で、ミカンの産地として名高い香美郡香我美町には、近隣の野市町、夜須町とともに古くから棒術が
伝承されていて、「山北の棒踊」として、県指定の無形民俗文化財となっている。そして、その素晴らしい演技は、
毎年11月18日、当地に鎮座している浅上王子宮にて奉納が行われている。
当地を訪問した平成6年の当日、残念なことに朝から
降り続いた雨は一向に止む気配もなく、非常に不順な
天候であった。
そして、天候が回復し始めた昼頃になって、県道付近の
市場近くに集結していた祭礼の一団は、山手の神社へ
と移動を開始した。
この棒術の起源について次のような話が残されている。
正徳元年(1711)12月26日、山北村安(泰)弘の
里に来住して来た山内家一門の山内主馬規重は、
実は家老深尾某の婚儀に関連した事が原因で
蟄居を命ぜられていた。
この時、家臣の苅谷又右衛門は主君の徒然を慰め
ようと、自身の習得していた小栗流の棒術を土地の
若者達に教授して主君に上覧したという。
以後当地に相伝されることになったこの棒術は、文化年間に花田某によって荒木流の小棒が、さらに文政年間
には、越後高田の住人、矢田又八郎によって浅山流が付加されて、最盛期には48棒あったとのことである。
祭礼の一団が神社へ到着し、巫女達が神楽の奉納を開始した頃から再び豪雨となったが、演技の奉納は強行
された。子供達の演技の後、『二十人棒』(本棒)の演技が披露された。
この演技は4名の青年が交差した棒の上に大将格の
1名を騎乗させ、前衛に5名の青年を配した一団が左右
2組に分かれて相対していると、木遣節の美声に合わせ
て次第に近接、
最後に互いの組の前衛が突入して棒を打ち込んだ後、
様々に隊形を変化させながら棒を打ち合わせて術技
を披露する非常に珍しい演目である。
かつては『四十人棒』もあったという。
次に『小棒(子棒・個棒)』と称し、
2名1組で行う組太刀型の演技が披露された。
『カワキリ』という演目では、相対した両者が歩み寄り垂直に立てた棒を合わせると、間合をとって上下2合ずつ
打ち合わせ飛び違えて下段で一合する。
そして片足立ちで小脇構をとると、棒の先端で円を描き出し、大きく仰け反ってから前屈立ちに構えると突然
グルグルと頭を回転させる。互いに場所を移動して同様の動作を2回行うが、一旦棒を上段に構えた後、両者
進退を繰り返しつつ、後は棒の乱打となって上下に激しく数合、時には脛打ちを跳躍して躱す。
とにかく手捌きも多彩で、掛声、構え等も地方色
豊かで独特な故に表現が難しいが、豪雨の泥濘で
非常に足場の悪い中、非常に高い水準の演技が
披露された。
小棒には他に、『ヒシ』、『ツキ』、『ハナ』、『トビ』等の
演目があるが、さらに余興として、『車返』と称する
軽業的な要素を見せるもの、あるいは『ヨータンボ』と
称して酔った様を演じながら術技を披露するものが
あるという。
棒の演技の後半から、さらに激しい豪雨となったのは非常に残念なことであったが、最後は天狗と獅子が登場
して、こちらも棒踊に劣らぬ素晴らしい熱演が披露された。
(参考文献)
・日本民俗芸能事典 監修 文化庁 編集 日本ナショナル・トラスト 発行所 第一法規出版㈱
・高知県史 民俗編 編集発行 高知県
・土佐の祭り 著者 高木啓夫 発行所 高知新聞社
・高知県文化財調査報告書(第20集) 編集発行 高知県教育委員会
・土佐史談 第47,48(高知の舞踊棒術 野島稻城),50,51号 編集発行 武市佐一郎(土佐史談會)
・民俗芸能辞典 編者 仲井幸二郎 西角井正大 三隅治雄 発行 ㈱東京堂出版
・日本の祭り事典 編者 田中義広 発行 ㈱淡交社
・新全国歴史散歩シリーズ39 新版 高知県の歴史散歩 編者 高知県高等学校教育研究会歴史部会
発行 ㈱山川出版社
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