第8話 尾張旭の棒の手②

愛知県尾張旭市                                                  

 多度神社を後にした私は、名鉄線旭前駅に程近い渋川神社を目指した。歩くのには結構距離があったのだが、
境内へ到着した時には、まだ人影もなく閑散としていたため、近所の喫茶店で小休止することにしたが、これが失敗で
あった。

再び神社へ来ると、既に演技奉納は開始されており、大勢の観衆で条件
の良い撮影場所を確保することができない。

 当神社に奉納される棒の手は、直心我流(印場地区北部)、
直師夢想東軍流(印場庄中地区)、東軍流(印場地区北部)と、以上の
2流派3系統の棒の手で、細長い境内で各々に組に別れて同時に演技
奉納している。

一度にこれらの演技をじっくりと
拝見するのは、正直不可能に近いと感じた。

※直師夢想東軍流は、印場地区北部では単に「東軍流」と略称している
そうで、同地区の斉場、塚本などの姓の家伝という。

直心我流は、当山派(醍醐三宝院)の修験者であった比企良雄(菜岳院
辨隆法印)が伝承していた流儀とされ、彼は蓬莱谷観音堂の住持として
愛知郡猪子石村に住していたという。

印場村の住人である八木弥市郎(博章)は多年に渡り比企良雄に師事し、正徳4年(1714)に免許を授けられると、
印場村でも教授を開始し渋川神社での奉納を行ったという。

  この故事により当地では、八木弥市郎を直心我流の元祖としている。また、
 比企良雄の住む猪子石村では、当時「棒会」なる競技が催されていたという。

 「棒会」は柔剣道の試合のように勝敗を決するものではなく、二人一組で出場し「演技
 の内容」の優劣を競うものであったという。

  演技を拝見した印象としては、どの演技も非常に軽やかで技も速く上手い。また
 最後に得物を捨て、柔術を駆使して相手を仕留める演技が多いようにも感じた。
 当流の元祖、八木弥市郎は早業を得意としたそうで、私がそのような印象を受けたの
 も、その事と関係があるのかもしれない。


ただし撮影場所の関係からじっくりと演技を 拝見できなかったのは残念であった。機会があれば、あらためて再訪問
したいと考えている。

なお、資料によると直心我流の演目の一部(本手)として、次の記載がある。

 一陽  曳移  太刀中  二人詰  三人詰  鋒払  太刀止  後真剣  入身投  腕上

 東軍流と称する流派は、いくつか存在するが、中でも比叡山の東軍権僧正を師とし、川崎鑰之助を元祖とする剣術の
流派が有名であろう。ただし棒の手の東軍流が同じ流派であるのかはよく分からない。鞍馬山の僧、東軍坊を遠祖とする
との記載のある資料もあるので、同名異流であろうか。

2系統の東軍流に関する起源・由来であるが、先ず印場の
東軍流は、貞享元年(1684)に平岩清伝なる武芸者から免許を
授けられた、塚本伝寿を元祖とする。

伝寿は明暦元年(1655)に再建された
薬師堂に拠る修験者で、名を伝昌院ともいう。

以後、その子孫である善京が文化2年(1805)に村方に師匠元を
譲るまで、当家の家伝として相伝されてきたという。

平岩清伝は、現在の名古屋市出来町西の切の周辺で道場
を開いていたとされるが、どのような人物か詳細は不明である。


また庄中の東軍流も、代々当地の農民達により行われてきた。
文政4年(1821)に森下理右衛門によって授けられた巻物「真師夢想東軍流棒目録」を「本巻」としているが、口碑伝承
も含めた様々な資料によると、実際には文政4年以前から、既に当地で東軍流が行われていたと推察されている。

 
  さて、実際に演技を拝見した印象であるが、棒、剣(二刀)、
 薙刀、鎗、鎌など様々な術技を含有する総合武術であるが故に
 その武術的特徴を描写するのは正直難しい。ゆったりとした構え、
 長い掛声をとりつつも、ひと度刃を交えると速く激しく斬り結ぶ。

 脛斬りに対しては跳躍して躱すことも度々である。その中でも
 いくつかの印象深い演技があった。

  ある演目では、対峙した両者が互いに真っ向から駆け寄り、
 相手(脇差)の抜き手を鍋蓋で押さえて抜刀を妨げる。
 そのまま鍔競のようにして互いに押し合っていたかと思うと、
 一方(脇差)は、体を開き、間合いをとって抜刀に成功する。

 

そして相手の正面斬に対しては鍋蓋でこれを防ぎ、再び互いの力が拮抗したまま鬩ぎ合いを続ける。するとその刹那、
鍋蓋を得物にしている方は、ヒラリと体捌きして相手の力を躱すと、勢い余った相手の体はそのまま前方へ空を切る。
そして、最後に地に倒れた相手に対して、抜刀して止めを刺していた。

またある演目では、擦れ違いざまに両者の体がぶつかったことから睨み合いとなり、戦いへと移る。
一方は棒を得物とするが他方は無手である。そして下段1回、
上段2回と棒を振り掛かり、透かさず鋭い直突きを繰り出す。

これに対し無手の方は、跳躍や身を低く伏せてこれを躱すと、
繰り出された直突きを掴み取るや、重量挙げのように強力を
駆使して高々と頭上まで持ち上げると、膝関節に低い蹴りを放つ。

堪らず相手は棒を捨て
後方回転の受身で逃れると、刀を抜刀して構える。

戦いは棒対太刀に移行し、棒を奪った方は、下段へと横回転、
次ぎに水車のように縦回転の棒の振り打ちで反撃を続け、
最後に倒れた相手に透かさず棒で止めを刺した。

この難しい演技を
少年が見事に果たしているのには、感心させられた。


なお、現行の演目、及び伝書等に記載のある内容と若干の相違があるかもしれないが、資料に記載された東軍流
(庄中)の演目は、次のとおりとなっている。

 「表」    左右  種落  腰廻  蹴飛返

 「中段」  渦巻籠  霞隠  石付返  蛙蹴飛  三人詰  巻合棒  鎗落

 「中奥」  屏風返  真剣合棒  五輪砕  唐棒  風来  追浪  棒合  石坂落  鎗崩

全ての演技終了後、観衆お待ちかねの餅投げが行われ、境内は老若男女の歓声で溢れ返り、この日の祭礼は幕を閉じた。


 (参考文献)

・愛知の馬の塔と棒の手沿革誌       編集発行  愛知県棒の手保存連合会

・郷土の棒の手                 編集発行  豊田市棒の手保存会

・愛知県文化財調査報告書 第55集 愛知の民俗芸能

―昭和61年~63年度 愛知県民俗芸能総合調査報告書―      発行 愛知県教育委員会

・足助の棒の手                 発行     足助町教育委員会

・旭村の棒の手                 編著者 鈴木藤綱    発行者 旭村教育委員会

・猿投まつりと棒の手(チラシ)        猿投棒の手ふれあい広場

・豊田棒の手の各流派(チラシ)       猿投棒の手ふれあい広場

・愛知県の歴史散歩 上,下         編者 愛知県高等学校郷土史研究会  発行所 ㈱山川出版社




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