レオニード・カーツ2


―乗員たち相互の関係はどのようなものでしたか?あなたが最後の戦いを共にした戦友を例にして、何かお話しいただけないでしょうか?

 私たちはみんな仲よくしていましたし、それ以外の関係は考えられませんでした。お互いに相手を頼りにし、燃え上がる戦車の中に見捨てられることなどない、と信じていましたから。私にとって最後の戦車長となったのはニコライ・ミーシン中尉、非常に勇敢で、年はまだまだ若かったですね。私のせいで[ソヴィエト連邦]英雄の称号をもらい損ねた人です。装填手はジルコフ、カフカースの出身、民族的にはロシア人だったはずですが、見かけはグルジア人そっくりでした。機関手兼操縦手はどこにでもいるロシアの若者で、名字はゾーリン。私は彼らと一緒に戦争を終えたのです。親しいつき合いでしたよ。私たちの共通の使命は、共に生き延び、そして共に戦車の中で燃え上がるまでの間に、できるだけ多くの損害を敵に与えることでした。

―ごめんなさい、ミーシンと英雄称号に関するお話がよく分からなかったのですが。ケルチ市についての本を読んだ時、あなたのクルーについて1ページ近くが割かれ、皆さんの写真が掲載されていたのを見たことがありますし、セヴァストーポリをめぐる戦いでクルーは英雄称号への推薦を受けた、とも書かれていました。ちなみに同じ本では、あなた個人に対しても、非常に暖かい言葉が1段落丸ごと捧げられていたのですけどね。実際のところ、44年の5月に何が起こったのですか?私はかつて、英雄称号に推薦されながら受賞を逃した人々をテーマに研究を行ったことがあるのです。

 あの時の状況ですが、私たちの戦車はケルチ半島への一番乗りを果たし、真っ先にケルチ市へ突入、さらにセヴァストーポリでは旅団で最初にカザーチヤ湾まで到達しました。私たちが最も勇敢であったから、というわけでは全くありませんよ。ただ私たちは幸運に恵まれ、他の戦車が戦列から脱落したり炎上したりする中、最後まで戦うことができただけなのです。セヴァストーポリでは、新任の大隊長ミャスニコフが私の戦車に同乗しました。ブレスト要塞防衛戦の英雄だった人です。作家スミルノフは、有名な著作の中で彼について触れています。大隊長が乗り込んでくると、装填手はクルーから外れ、戦車長が砲側へ座ることになります。サプン山を奪還した後、我が軍はさらに前進を続け、ドイツ軍を海岸まで追い詰めました。カザーチヤ湾へは私たちの戦車が先頭に立って乗り込み、海際まで圧迫されていた何百人ものドイツ兵に、船で脱出するチャンスを与えませんでした。幸い、戦車の中には砲弾が満載状態で残っていましたからね。あそこでは何人を打ち倒したことか!…しかしながら、私のクルーが立てた最大の手柄は、ドイツの輸送機の捕獲でした。何故かルーマニア人によって操縦されていた飛行機で、空路高級将校たちを救い出すべく派遣されてきたのです。現地には急造の滑走路があり、飛行機はすでに離陸するため滑走を始めていたのですが、私たちの戦車はこの輸送機に向かって滑走路上を突っ走り、50メートルのところで停止しました。威嚇射撃で機関銃を数発、パイロットはすぐにエンジンを止めましたよ。こうして、何人かの大物が捕えられたのです。
 クリミアの戦いが終わった後で、旅団司令部は功績があった者たちの叙勲に取りかかり、私の戦車のクルーは全員がソヴィエト連邦英雄に推薦される運びとなりました。しかし、政治担当副旅団長は頑として受け入れません。ユダヤ人に英雄称号をやるなんてとんでもない!というわけなんですね。議論と調整に長い時間が費やされ、最終的にクルー全員分の推薦状が送られたのですが、しかし政治担当副旅団長はあきらめず、この問題に「介入する」ため軍司令部まで出かけたほどです。結局のところ、英雄称号をもらったのはミャスニコフただ1人で、私とミーシンが受け取ったのは軍務赤旗勲章でした。私の姓がイヴァノフだったとしたら、全ては異なっていたでしょうね[註3]。こうしてコーリャ・ミーシンは、英雄となる権利を充分持っていたにも拘らず、称号はもらえずじまいでした。最も奇妙なのは、セヴァストーポリ戦における機関手兼操縦手の功績が全く言及されなかったことでしょう。[彼の]受勲リストは、司令部でなくされてしまったのです。これらの出来事は全て、戦後に行われた戦友会でも取り上げられ、話題となりました。ただ、今となっては過去の話ですが…もしも、カーツは英雄にふさわしいことなど何もしていないと言われたのであれば、私は腹を立てなかったと思いますよ。私なんかより英雄にふさわしかったのに、お墓にさえ星をつけてもらえなかった[没後に英雄称号が追贈されなかった]仲間たちだってたくさんいるんです。しかし私の場合は、民族的な原因によるものだ、とあからさまに言われたわけですから。

―[元兵士への]インタビューを行う際には、雛形となるような質問をあらかじめいくつか準備してあり、その中には民族的少数派の方々に対するものも含まれています。こういうことをお聞きするのは気が引けるのですが、それでもお答えいただければと思います。民族的な理由による対立はあったのでしょうか?

 私のいた旅団では、時にユダヤ人差別と遭遇することもありました。たくさんのユダヤ人将兵が旅団で勤務していたにも拘らず、ですよ。上は旅団参謀長から下は一介の戦車兵までね。このテーマについて、今ここで論じようとは思いません。ただ、今でも私の心をかき乱す1つの思い出があります。クバンにいた頃の話ですが、隣で戦っていた戦車が炎上した時、私は頭に負傷した機関手兼操縦手を救い出しました。傷はそれほど重くなかったのに、その後の彼は旅団の後方でしか勤務しようとしませんでした。私の考えでは、あからさまな「サボり屋」だったのだと思います。そして戦後、セヴァストーポリのレストランで開かれた戦友会の席上、彼はいきなり立ち上がり、嫌らしい笑顔を見せながら、自分の戦車の戦車長、これがユダヤ人だったわけですが、この戦車長が戦闘から離脱してきた時、砲を味方の陣地に向けていた、なんていう話をし始めたのです。よくあることだよ、たぶん臆病風に吹かれたんだろうね、アブラム[典型的なユダヤ人の名]が主人公となる新しいアネクドートの誕生だ、みんなで笑おうぜ、というわけです。それから、全員の前で戦車長の姓を、さらし者にするかのようにゆっくりと発音しました…こんな馬鹿な話があるだろうか!戦場から後退してきた時は異常な興奮状態で、どこに友軍がいてどこにドイツ軍がいるか、全く分からないことも多いというのに。煙の中では何も見えないんですよ。戦友会には何人かのユダヤ人が出席していました。みんな険しい表情でしたが、それでも黙ったままでした。とうとう私はこらえ切れなくなり、立ち上がって言ったのです。
「貴様のような屑を燃える戦車の中から助け出したりして、今さらながら後悔しているよ。今ここで貴様が笑い者にした戦車長は戦って死んだんだぞ。なのに貴様はどうだ、戦争の半分を本部で遊び暮らしたんじゃないのか」
 この一件はそれだけでうやむやになりましたが、わだかまりは残りましたね。人は誰であれ、人生の中で自分だけの十字架を、もしくは星を背負っていかなければならないものなんです。

―あなたの旅団で、戦闘中に怯懦な振る舞いをした者はいませんでしたか?特務機関員は恐れられていましたか?

 当時はあらゆる出来事を経験しましたからね。旅団付の特務機関は、何ひとつ見逃したりはしませんでした。モルドヴィア出身の衛生兵が、私の目の前で特務機関員に射殺されたことがあります。「自傷行為」がその理由でした。もう1人、グルジアの若い兵隊も銃殺されそうになったのですが、彼が「自分で自分を撃った」という証拠は見つかりませんでした。旅団長が助け船を出したので、グルジア兵はさらなる取り調べを受けるため、軍の特務機関へと送られていきました。彼のその後の運命については分かりません。想像したくもない事態ですが、もしも後退命令なしに戦場から離脱してしまった場合、すぐさま特務部へ引っ張っていかれました。そうして、残っていた砲弾の数から戦車の状態に至るまで、全てが取り調べの対象となるのです。多くの者が、ドイツ軍よりも自軍の特務機関員の方を恐れていました。だから、何らかの非常事態が起きた場合、それを隠そうとすることも珍しくありません。私たちの大隊で、クラシコという人が隊長を務めていた時期があります。尊敬できるような人物ではなかったですね。指揮官としての素質はゼロに等しく、さらに臆病なところがあったから、個人的な勇気にも恵まれてはいませんでした。戦いがないときには威勢がよく、ポスターにでも描かれそうな勇ましさで、賑やかに冗談や洒落を並べ立てていたのですが、いざ攻撃開始という段階になってみると、真っ青な顔で戦車の中に潜り込み、手なんかも震えが止まらない。皆から「化学者」[口ばかりで見かけ倒しの指揮官に対する罵倒なのだろうが、何故「化学者」なのかは不明]と呼ばれていたタイプの人間です。で、セヴァストーポリ戦が始まる前、このクラシコが各車を点検していた時のこと。1両の戦車に近づき、両手で砲身をつかんで車内へ乗り込もうとした[註4]のですが、その瞬間に機関銃が鳴り響いたのです。2発の弾が大隊長の脚に命中しました。無線手が戦闘前に機関銃を点検していたのですね。流石のクラシコも良心が咎めたらしく、この無線手を特務に引き渡そうとはしませんでしたし、どこにでもいる密告屋たちも騒ぎ立てる気にはならなかったようで、本件に関しては黙ったままでした。結局、大隊長はドイツの侵略者どもと戦い名誉の負傷をしたということで、大手を振って病院へ向かったのです。隊長が交代すると聞いて、大隊ではみんな大喜びでした。これで生き延びるチャンスが増えたわけですから。ただ、問題の無線手は2日後の戦いで、クルーともども戦車の中で燃え尽きたのですが…別のケースについてお話ししておきましょう。とある戦車長が、他の中尉に対して個人的な恨みを抱き、とうとう射殺してしまいました。その場面を見ていた者がいて、密告しました。それから後は軍事法廷、懲罰大隊、戦死という流れです。お定まりのコースと言っていいでしょう…またある時、隣の大隊で起きた出来事ですが、戦闘の最中に興奮しすぎて見境のつかなくなった戦車が、僚車に弾を撃ち込み炎上させてしまったのです。照準手だけではなく、[クルーの]全員が懲罰隊へ送られましたよ。

―あなたは家族の全員をドイツ軍に奪われています。ドイツの捕虜に対してはどのような感情を抱かれていたのでしょうか?

 武器を持たない者を撃ったりはしていません。私の2人の兄は、41年のうちに前線で戦死しました。両親、そして全ての親族は、ドイツ軍によりゲットーで射殺されています。私は復讐の権利を持っていましたし、現に戦いの中で復讐を果たしたのですが、捕虜を殺すようなことはしていません。人間らしい心は失いたくありませんでしたから。最も残酷な戦いの後でさえ、捕虜に対する集団的なリンチは行われなかったですね。ただ一件だけ、例外的な事件が記憶の中に残っています。ケルチ郊外でドイツ軍を追い詰めた時、敵はどこにも逃れようがなかったにも拘らず降伏を拒否し、頑強に戦って突破を試みました。最終的に捕虜となったのはドイツ軍の大隊長ただ1人、年は35前後の大尉でした。彼は私たちと並んで戦車の上に腰かけ、家族の写真を見せながら、戦前の暮らしぶりについて話してくれました。私たちは彼の話に耳を傾け、傍から見たら仲よくおしゃべりをしているかのように見えたでしょうね。そこへルダコフ旅団長がやって来ました。私たちにとっては神にもツァーリにも等しい存在で、みんなに崇拝されていました。旅団長はドイツ人に尋ねます。
「お前の部下の兵隊がみんな死んだというのに、お前はどうして生きている?お前たちが生き残るチャンスがないことは分かっていたはずなのに、降伏命令を出さず、最後の一兵まで戦わせたのは何故なのだ?」
 私は彼の問いを訳しました。大尉は黙ったままです。
 するとルダコフは、ドイツ人将校に対してこう言いました。
「お前は自分の兵士たちと同じ運命をたどるべきなんだ」
 そして、このドイツ人を射殺するよう命じたのです。進んで捕虜を撃ち殺そうとする者は誰もいませんでした。旅団長は私たちを脅しつけましたよ。小隊長がPPShで1連射、それでおしまいでした…
 捕虜たちを脇へ連れていき、その場で撃ち殺すという出来事はただ1回だけ、セヴァストーポリで起きました。5月12日になってからの話です。撃たれたのは、ドイツの軍服を着たヴラーソフ軍[捕虜となった元ソ連兵により編成された対独協力部隊]兵士やクリミア・タタールだけでした。指揮官たちは誰も咎めようとしません。当時としては、これが正義のあるべき姿だったのです。


註3:言うまでもなく、「イヴァノフ」はごくありふれたロシア人の姓である。一方の「カーツ」は、ユダヤ人の姓としては典型的なもののひとつであり、たとえ名前をロシア風にしていたと場合でも、姓を聞けばユダヤ系であることがすぐに分かってしまう。ここで語られているように、反ユダヤ主義の標的とされやすい姓だったのだろう。
註4:当時の映像を見ると、T-34の操縦手が車内へ入る場合、最初に手で砲身にぶら下がり、両脚から先に操縦手用ハッチへ飛び込むという手順が一般的であったらしい。クラシコ大隊長も同じやり方で乗車しようとし、ぶら下がった瞬間に機銃弾で脚をやられたわけである。

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(12.10.23)

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