イヴァン・マスロフ5


 ベルリンでは、私は突撃集団の指揮を執りました。5両の戦車に短機関銃手1個小隊、それから工兵が1個小隊。家々の壁にぴったりと寄り添うようにして進んだのは、せめて戦車の片側だけでもパンツァーファウストの攻撃から守るためです。通りの真ん中に飛び出した戦車は、すぐに炎上させられてしまいました。大きな十字路まで行き着くと、敵は角の家の陰から猛烈に撃ってきます。凄まじい砲火でしたよ。歩兵たちは伏せてしまうし、パンツァーファウストや対空砲に攻撃されると分かっていながら考えなしに戦車を前進させる権利は、私にはありませんでした。で、短機関銃を手に取ると戦車から這い出し、まず偵察をして、それから歩兵と共にドイツ兵を追い出すべく建物へ潜入したのです。1階は奪取に成功しましたが、2階では敵の弾が私の脚を貫きました。骨にはさわらなかったですけどね。私は後送され、1軒の家に入って、そこで手当てを受けました。仲間のうちの誰かから聞いたのですが、戦前にはパウルス元帥がこの家に住んでいたんだそうですな。2日間は衛生大隊で「病臥して」体を休め、その後は足を引きずりながら中隊に戻ってきました。勝利を目の前に敵の巣窟で命を落とすなんてとんでもない、とかいうようなお題目には耳を貸さずにね。私は自分の身を惜しもうとは思いませんでしたし、死への恐怖もありませんでした。そして、私たちがベルリンからプラハ方面へ投入された時にも、私は戦車で旅団の先頭を進んだのです。最初に行軍前哨を務めることになっていたのはソヴィエト連邦英雄クライノフ上級中尉でした。しかし、私にはクライノフが神経質になっているのが分かり、ベルリンの後で死の危険を冒すことが彼にはどんなに辛いか理解できたので、自分が代わりに行くと申し出ました。実際、私たちのプラハ行軍は、何の危険もない散策などではなかったのですからね。あらゆる道路に地雷が仕掛けられていましたし、ドイツ軍は四方八方から執拗に攻撃してきました。けれども幸運の女神は私に微笑み、1945年の5月の日々を乗り越えさせてくれたのです。

―ベルリン郊外におけるバルート駅の奪取については、ジューコフ元帥の回想を含む数多くの記録文学で言及されています。しかしながら、実際に駅を占領したのはあなたとあなたの戦車中隊であったわけです。戦いはどのようなものでしたか?

 私はあの駅を占領したわけではなく、ただ行軍前哨と共に突入して、ドイツ人の「リクエストにお応えしたコンサート」を派手にやらかしてやっただけですよ。3両の戦車だけであんなに大きな駅を支え切れるわけはないし、そもそもそんな命令は受けていません。あれは1945年4月20日、ツォッセン防衛地区への突入戦[に伴って生じた戦い]でした。それまで私たちは、戦いらしい戦いもないまま30キロほど前進していました。駅に接近して見ると、右手に列車が停まっています。あれは友軍だろうなと思ったのですが、そこではっと気がつきました。何を考えてるんだ、畜生め、友軍なんかじゃない、レールの幅がまるきり違ってるじゃないか。砲塔を回し、列車を目がけてぶっ放しましたよ。貨車には歩兵が乗っていました。長いこと彼らを叩き続け、とてもたくさんのドイツ兵を殺しました。あそこでは何人のドイツ人をあの世へ送ってやったことか…死神が自ら、鎌を手にやって来たような有様で…数百人が死体となって転がりました…すぐ脇のプラットフォーム上には、ドイツ軍の新しい戦車が8両並んでいます。それらも同じように「めった切り」です。周りにいた敵はみな殲滅したように思われました。で、私の行軍前哨はさらに先へと進んでいきました。ところが、ドイツ軍はその後になって駅の守りを固めることに成功し、我が軍は2個旅団を投入してようやくこれを奪取したのです。私が属していた第52親衛戦車旅団と、それからアルヒポフ将軍の第53親衛戦車旅団でした。数時間は激戦が続きましたよ。

―バルートでの功績にも拘らず、あなたがソヴィエト連邦英雄の称号を授与されなかったのは何故なのでしょうか?

 どうしてそんなことを聞こうと思ったんです?称号が与えられなかった理由なんて、私が詳しく知っているはずはないでしょう?当初は、少なくとも私を含め中隊の5人が、必ずや英雄になって星をもらう[ソヴィエト連邦英雄は黄金の星型のメダルを授与されることになっていた]だろうと言われました。バルート駅での具体的な戦功と、その後のベルリン市街戦での働きに対して、です。すでに受勲推薦リストが作られ、承認をもらうためルィバルコのところへ送られたという話でしたよ。しかしながら、この話題はそれっきりみんなから忘れられてしまった。そもそも私たちは、どの勲章に推薦され、申請書はその後どうなったのか、などという説明を一切受けていませんでした。ベルリンの戦いで、私はアレクサンドル・ネフスキー勲章を授かりました。それだけでもありがたいと思え、というやつで…全く無視されても不思議ではなく、実際にそのようなケースが珍しくはなかったのです。
 
 戦争が終わってから30年ほどがすぎた後、グロドノで第3戦車軍の戦友会が開かれたことがあります。花束、ピオネールたちとの交流、講堂での集会。あの当時は一般的だった戦友会風景です。突然、他の戦車軍団で勤務していた元戦車兵が立ち上がり、私たちの旅団長リュドヴィク・クリストに質問しました。
「あなたはどういうわけで英雄の称号を授与されたんですかね?」
 気の毒な旅団長は当惑し、どうやって答えたものか分からない風でした。講堂には彼の旅団で戦った戦車兵たちがたくさんいるから、ごまかしなんか通じないわけです。それで、沈黙が続きました。私は立ち上がってこう言いました。
「クリストさんは、どうして英雄の称号をもらえたのか分からないんだ。私の中隊の戦車兵たちが、自分は何故それをもらえなかったのか理解できないのと同じようにね」
 残酷な言葉だったとは思ってないですよ。お偉方ってのは、下っ端の戦車兵たちの血でもって自らのキャリアを稼ぎ、胸に勲章をじゃらつかせることに慣れてしまっているものだから…あの瞬間だけでも、クリストが自らの良心に目覚めてくれたのであれば、と思うのですが…

―旅団長としてのクリストはどのように評価されますか?

 ちょっと答えにくい質問ですね。どうしても他の指揮官と比較しないわけにはいかないから…クリスト中佐はレニングラード出身のエストニア人、ただし育ちはウラルでという人物で、参謀将校としては、あるいは組織者としては悪くなかったと思いますが、戦車隊の指揮官ということになると中程度のレベルでしょう。戦争の間ずっと、彼は旅団長の職にありました。功績と見なすべき行為もないわけではありませんが、しかし全体的な印象を言うと、輝くような才智には恵まれてなかったですね。けれども、胸には英雄の星を輝かせることができた。神様がお授けになったんでしょうよ。

―戦車隊の指揮官の中で、乗員たちが心から敬意を払っていたのは誰だったのでしょうか?

 それは言うまでもなく私たちの軍司令官ルィバルコと、軍団司令官ミトロファノフ、ノヴィコフ将軍、ドラグンスキー旅団長です。ここでちょっとお断りしておきますが、経験のある戦車兵たちはどの指揮官がどれだけの価値を持っているかをよく知っていたし、自らの上官に対しても冷静な判断を下すことができました…私は今でも、多くの事柄についてお話しするわけにはいかないのだという事情をご理解下さいよ…

→その6へ

(12.01.28)

戻る