ニコライ・クジミチョフ2
―色々な戦車に習熟したんですね?
まず最初はT-27という豆戦車に乗せられたよ。その後でT-60、これに慣れたら今度はT-70だ。この戦車の訓練には1年が必要とされていた。カリキュラムは厳しかったな。9時間の訓練、加えて3時間の自主学習、それから昼食、朝食に夕食と。夕食が終わると兵器の手入れ、そして手紙を書くための自由時間。いくら時間があっても足りないくらいだ。事実上、9か月で教育プログラムを終えることになったよ。7月に卒業試験を受けた。その後で野戦訓練があり、数日の間続いた。実戦の時に行軍ルートをどう組み立てるか、とかそういうことをやったのだ。それから卒業になった。私たちは中尉に任官した。2人か3人は少尉の階級をもらったんだけどね。試験の結果があまりよくなかったから。軍服と星の記章が交付された。1943年というのは、ちょうど新しい型の軍服が採用された時期だよ。もっとも、食堂へは隊列を組んで通っていたものだが[この部分はあまり意味がよく分からない。任官したにも拘わらず生徒時代と同じように集団行動を続けた、という意味か?]。長靴は厚布製のやつが支給された。歩兵隊はゲートルを使っていたことを考えると、これでもましな方だと言うべきなんだろうな。8月の末になると、私たちは任地に向かう準備をすっかり整えていた。そこで整列がかけられ、こう言われたよ。
「ソ連最高会議幹部会の決議に基づき、今より[卒業者の]階級は全て少尉とされることとなった」
星の記章にはおさらばさ。また、証明書には「レイテナント」[中尉]と書いてあるのだが、その前に「ml.」[ロシア語で「年少の」「下の」を表す文字の略称。「レイテナント」と組み合わせると「少尉」の意味になる]を書き入れ、点を打った。それで、いよいよ前線へ出動だ。私はブリャンスク戦線へ向かうグループに入った。引率者は中佐だったな。彼は、3日後にリャーシスクへ集合するという条件つきで、私たちを家に帰らせてくれた。
オリョール・トゥーラ間の駅の1つで、最近行われた戦いの痕を目にしたことがある。村があって、教会があって、教会の上には「34」[T-34の愛称]の砲塔が乗っかっており、車体はその脇でバラバラだ。クルーなんかは蒸発してしまっていたよ。この光景は、重苦しい澱のようになって皆の心の中に残った。それからブリャンスクに到着。数日間をそこですごした。私たちは独立集成戦車大隊へ配属ということになった。そのちょうど1週間後、10月の初め頃に、第2沿バルト戦線への配属が決まった。ヴェリーキエ・ルーキまで移動し、さらにウストシカ駅へ。日中はぬかるみ、夜になると零下にまで冷え込むという時期の話だよ。私たちはコチェルギン旅団長率いる第78独立メーメル戦車旅団に配属された。装備していたのはT-70だ。その頃はもう11月になっていた。雨がちで雪混じりの日も多い、そんな秋だったな。ゼムリャンカ[半地下式の土小屋。前線で兵舎などに多用される]の中には水が溜まっていたよ。長靴なんかはすぐ駄目になる。で、ヴァーレンキ[フェルト製の防寒長靴]が支給された。このヴァーレンキが湿っぽいやつで、乾かそうにもそんな場所はなし、とうとう私は肺炎をやってしまい、病院へ運ばれた。おまけに疥癬にまでかかる始末だ。入院だよ…退院して戻ってきた時には、私の戦車は行動不能となっていて、私たちはモスクワへ後送されることが決まった。―故障したのですか?
故障したのかやられたのか、そんなのは悪魔にしか分からんよ。代わりに乗るべき戦車は1両もなかった。
私たちはモスクワに到着した。それからスィズラニへ送られ、T-70をベースに作られた自走砲SU-76に乗り換えるための教育を受けることになった。クイブィシェフへ向かう途中の汽車の中でちょうど、それは7日から8日にかけての夜だったが、私は20歳の誕生日を迎えた。モスクワでウォッカを2本買い、またつまみの代わりに携帯口糧をもらったことを憶えている。ウォッカは1本が400ルーブリした。私たちの給金はというと、戦車長が650ルーブリ、階級手当て(私の場合は少尉手当てだね)が400ルーブリ、さらに野戦手当てとして50%。つまり、私は合計で800ルーブリを[酒に]費やすことができたから、道中で[20歳の]お祝いをしたわけだよ。スィズラニに着いてみると、私は心臓の状態がよくなかったから、教育は受けられないと言われた[何故心臓が悪いとSU-76に乗れないのかは不明だが、それほどこの車種での勤務は過酷なものと考えられていたのだろう]。率直なところ、私は嬉しかったよ。SU-76というのは、乗員にとっては非常に評判の悪い兵器だったから。それから私はT-34で訓練を受けることになった。
1944年7月の末、私たちはゴーリキー[現ニージニー・ノヴゴロド]に送られた。その郊外に予備戦車連隊が駐留していたのだ。連隊では戦車のクルーや小隊、中隊などの組織作業が行われている。つまり、編成の場だったんだね。私も機関手兼操縦手と砲長[照準手のこと]、装填手を[クルーとして]与えられた。一方、無線手兼機関銃手は隊長車にしか乗っていない。私より年上で階級も上の連中がいて、彼らは小隊長に任ぜられていた。中隊長になった者もいる。私たちはクルーとしての慣熟訓練を受け、お互いの意思疎通や基本動作を学んだ。それからまた、私たち将校は小隊単位の訓練もやらなくてはならない。宿舎はテントではなくゼムリャンカだった。7月のことだったから、とにかく暑かったよ。その辺りは松林のある砂地で、寝入ったかと思うとすぐにブヨの群れが襲ってくる。朝が来て、皆で話をした時、仲間たちはこう言った。
「俺らはここから出て、森の奥へ入っていって、木の下で寝ることにするよ」
広葉樹の木がたくさん生えていたからね。私もいよいよ堪え切れなくなった時に、一度だけ試してみた。一睡もできんかったからなあ。イスに座っていることさえ難しいのに、あそこで眠ろうなんてのは…そんな環境の中で暮らしたわけさ。しばらくしてから、私たちはソルモヴォの工場へ行くことになった。河川用の船の製作で有名だった工場だが、私たちはそこで戦車の組み立てを手伝い、同時にその構造について学習した。こうして戦車を受領し、実戦向けの射撃訓練を行い、クルーの編成をすませると、汽車に乗せられて中継地点であるモスクワへ、ベラルーシ駅へ移動させられた。行き先は分かり切っていたよ。バルト方面でもカレリアでもウクライナでもない、西方へ向かって進むしかない。それは天気のよい日のことだった。私たちは夜も遅くなってから到着したのだが、花火をやっていたよ。ウクライナの何とかいう街が解放されたお祝いにね。その後で移動を開始し、クンツェヴォ、ヴャージマ、さらにその先へ進んだ。とある駅まで来た時、新たな駐留地へ向かう野戦病院の先遣隊が私たちと一緒になった。列車が停まっている間に外へ出てみると、[病院で勤務する]女性や若い娘たち、特に若い子が多かったんだが、女たちが歩き回っている。私たちはそこで仲良くなった。中にまだ17の娘がいてね。その後は離ればなれになったけれども、住所だけは交換しておいた。私たちは手紙をやり取りするようになった。後にそれも途切れてしまったんだが。しかし私は彼女のモスクワの住所を控えておいた。戦後になって彼女の家に訪ねていって、それで結婚したんだ。以来、ずっと一緒に暮らしているよ。
私たちはポーランドのプワヴィ橋頭堡に到着し、第11ベルリン記念・赤旗・スヴォーロフ・クトゥーゾフ勲章受勲戦車軍団所属の第36赤旗・スヴォーロフ・クトゥーゾフ勲章受勲戦車旅団に配属された。その橋頭堡はラメンカ市の真向かいに構成されていたから、軍団は街の解放の功に対してラメンスキー[「ラメンカ記念」の意]という称号を帯びることを許された。行軍の間中ずっと味方の空軍が援護してくれていたから、敵も私たちに手出しはできなかった。
川のこちらの岸にしばらく滞在している間、私たちは演習をやり、射撃も訓練した。こんな練習法があったよ。装填手がスコップを持ち、戦車より10~20メートル前に出ると、スコップの先端を左に右に、あるいは上に下に動かす。一方、照準手はこのスコップに狙いを定め、これに追随して砲を操作するわけだ。私も練習したが、あれは本当に大変だった。クルーはどの役割でもこなせるようになる必要がある。機関手兼操縦手も同じような訓練を行った。実戦の中では何が起きるか分からないからね。彼はそれほど[射撃訓練を]たくさんはやらなかったが、しかし必要とあらば砲でも機関銃でも撃つことができるよう、一通りのやり方は身につけている。
(11.12.07)
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