ニコライ・クジミチョフ3
ドイツ軍は私たちをヴィスワ川に追い落とそうとしていたから、こちらは常に第1級の警戒態勢を続けていた。敵戦車の出現が予想される地点には壕を掘った。そうした戦車警戒地区の1つで、私たちは夜中に塹壕掘りをやった。朝になると、全ての戦車長と小隊長が集まり、今後前進すべきルートの策定を行った。私たちの壕は開けた場所に掘られていて、右には森、左には小川が流れ、前方には何もない空間と森とが広がり、その向こうにドイツ軍がいた。霧が出ていたな。わいわいやっているうちにその霧が薄れ始め、私たちはドイツ軍に見つかってしまい、迫撃砲の音が聞こえてきたから、みんな四方八方に逃げ去った。すぐ近くに塹壕があったことはあったが、水が溜まっていて、中に入る気にはなれない。私は手足を使って塹壕の端まで這っていき、それから下りていくと、数発の迫撃砲弾が飛んできて、その後で静かになった。手も足もすでに感覚がなくなりかけで、やっとのことで這い上がったのだが、どうやら水には濡れずにすんだ。
その地区にはかなり長く滞在したものだ。そして1月14日の朝、準備砲撃が始まった。信号代わりにカチューシャの一斉射撃があり、続いて前進。最初の日、私たちは戦闘には加わらなかった。参加したのは歩兵の直接支援にあてられた戦車だけだった。何と言っても、対戦車砲で固められた敵陣を突破するというのは戦車兵にとってきつい任務なのだが、しかし私は道中で破壊された友軍の戦車は一度も見ていない。3日目にあたる16日、私たちの小隊は行軍縦列の前衛となり、小隊の中でも私のクルーが先頭に立ってクラクフヘ接近した。それから停止。丸太作りの納屋が立っていて、西の面ではニワトリが土台の丸太の下に集まり、日なたぼっこをしている。そこで食事だ。行軍中は、状況が許すなら1日に2度飯を食う決まりだった。太陽はじきに沈んでしまう。100グラムの配給[実戦部隊の兵士が1日に100グラムずつ与えられていたウォッカのこと]があり、飯盒の蓋に酒を注いだものが運ばれてきた。それを43.5立方センチずつ分けるのだ[何故43.5立方センチなのかは不明]。皆で腰を下ろしたまさにその時、「乗車!」という号令がかかった。飯盒はまだ諦めもつく。しかし酒はどうしたらいい?私たちは、また戻ってきて飲めるだろうと思い、そのままにしておくことにした。で、戦車に乗り込んだ。前進。その場所はちょっとした上り坂になっていた。小さな家が見え、脇に大砲が据えつけてある。私は命令した。
「榴弾、装填!」
私の部下の砲長はプガチョフといって、モスクワ出身の男だった。髪なんかは赤毛で、頑丈な体つきをしたやつだったな。私は「発射」と号令をかけた。ところが、彼は震え上がってしまってね。距離は200メートルかそこらの近さで、家からは砲員たちが飛び出してくるのが見えた。私は彼を押しのけて発射すると、弾は砲のすぐ近くで炸裂、敵の砲兵は逃げ散った。照準手も落ち着きを取り戻し、2発目でその砲を粉砕することができた。さらに先に進んでみると、周りには野原が広がっている。何だかくさいぞ、という感じがした。地雷がありそうだ、と。無線で「地雷原と思われます」と報告。それから左へ迂回することにした。左に旋回し、そこで道の横を戦車の列が進んでいるのに気がついた。私は指示を出した。
「硬芯徹甲弾、装填!まだ撃つなよ。命令を待て」
見たところはドイツ戦車のようで、[砲身の先が]杖の握りのように膨らんでいる(原註:マズルブレーキのこと)。私たちは道を横切るような形で進んでいたが、彼らの方はこちらに全く注意を払わず、そのまま近づいてきたところを見れば[友軍の]IS-2じゃないか。IS-2の列は停止した。で、私たちは道に出、街道沿いに前進した。街道の脇はちょっとした上り勾配になり、土手が伸びていたから、操縦手がこれを見て言った。
「道からそれて、土手に隠れながら進みませんか」
私たちはそうすることにした。まさにその時、敵がこちらを狙って撃ち始めたのだ。砲弾は土手に当たり、戦車の周りで炸裂する。私たちは停車した。すでに辺りは暗くなっていて、私の戦車の無線機は故障していたのだが、大隊長の伝令兵が私たちに追いついてきた。戻ってこいとの隊長命令だったから、後進で退却することにした。帰還したよ。クルーは戦車の中に残し、短機関銃手たち[おそらく跨乗歩兵として随伴していたのだろう]も戦車の脇で待たせておいた。私自身は大隊長に報告だ。
「命令に従い、戻ってまいりました」
大隊長は小隊長をこっぴどく叱りとばした。
「今回が初陣も同然の若いやつらが状況を判断できたのに、貴様は何と無鉄砲な真似をしおったのだ!」
実は、小隊長車は街道を進んでいる間に撃破されていたんだね。機関手兼操縦手が負傷し、戦車は炎上こそしなかったものの損傷を受けたそうだ。合計で2両の戦車がやられた。もう1つの中隊ではベローフという名の砲長が戦死した。88ミリ高射砲部隊が私たちを迎え撃ったのだ。次の日の朝、さらに先へ進むと、前方で敵の砲を照準に捉えることができた。ドカンと一発、それで砲はおしまいだ。おそらく、[昨日]私たちを撃ってきたのはこの砲だったのだろうと思う。トマシュフ市、これはヴィスワの東の支流であるピリツァ川に面した街だが、ドイツ軍はここで川に架かる橋を爆破していたから、私たちは川底を走行して渡河する羽目になった。ちなみに、その前にドイツ軍の車列を粉砕したんだがね。―自動車の列ですか?
自動車もいたし、撤退する自走砲もいた。フェルディナントではなく、アルトシトゥルムと呼ばれていたタイプのやつだ。で、川底を渡らなければならなかった。つまり、クルーはみんな氷の上を通って対岸へ渡り、旅団長であったソヴィエト連邦英雄イヴァン・アレクセーエヴィチ・ジャリコフ大佐、今はもう亡くなってしまった人だが、この旅団長が私たちを迎えてくれた。酒をコップに1杯、つまみもつけてくれたよ。
―川底を渡ったということですが、戦車は防水されていなかったのではないでしょうか?
勿論その通りで、至る所から水が漏ってきて、びしょ濡れになってしまった。だから、すぐにウォッカを小さなグラス1杯ずつもらったんだ。体が温まりはしたが、依然として濡れたままの状態で先へ進んだ。前方にウッチ市が見えてくる。そこで、私たちの戦車ではエンジンのスターターが動かなくなった。水に浸かったのが響いたんだな。その後は[僚車に?]押してもらってエンジンをかけるしかなかったが、そんな状態でとにもかくにもオーデルまでは行き着いた。ウッチは損害も出さずに占領することができ、さらに前進を続け、何も問題はなかった。我が軍はドイツ軍に先んじて進み、彼らは後方に取り残されるという状況だったから。ある時、夜中に行軍を続けている間、右手に丘が盛り上がっているところがあり、その上からパンツァーファウストで狙い撃たれたのだが、これは命中しなかったよ。
ウッチの郊外で、私たちはアルコール工場を占拠した。部下たちは言った。
「酒を補充する必要がありますね」
「どこへ入れるんだ?水タンクか?」
飲料水用のタンクというのはアルミの合金でできていて、1つあたり2リットルの容量があり、蓋をネジでとめる形式だった。
「2日でベルリンまで行かれるわけじゃあるまいし、足りやしませんよ!」
「だったら90リットルの燃料タンクに入れるしかないだろう(ちなみに燃料タンクは2つ、それから予備用の潤滑油のタンクが1つあった)。酒でよく洗って、ギリギリ一杯まで入れたらいい。では作業にかかれ…」
「実は俺たち、もう入れちまったんですよね」
さっきも話した通り、私たちは攻勢を続ける中でドイツ軍よりも前へ出ていたから、当然のことながらスピードを上げて前進しており、機関手兼操縦手はハッチを開けっ放し、私も戦車長の席に座って、やはりハッチを開けていた。風があり、気温は10℃から15℃くらいで、隙間風が吹き込んできたよ。大隊長が「小休止!」の命令を下した。そこで例のタンクを開け、つまみはすでに手に入れてあったから(私自身、戦前のトゥーラでもあれほど太いソーセージを見たことはない。他にも手のひらほどの厚さがあるウクライナのサーロ[豚の脂身の塩漬け]とか、チョコレートとか、干しぶどうなんかもあった)、70度の酒を150グラムくらい注いで飲み、すぐに水で口直しをしてつまみを食った。その後、「乗車」の号令がかかり、再び前進だ。一昼夜に戦車で90キロは突っ走り、さらに敵との撃ち合いもあったんだからね。全体として、一昼夜に8回から10回は停止するようなペースだった。その後、オーデルまで行き着いて対岸の橋頭堡へと送られたのだが、ここにもアルコールの工場があることが分かった。友軍の兵士たちは工場を奪取し、酒を作っていると知ると、たらふく飲むわけだ。そこへドイツ軍が攻撃をかけてきて、みんなやられてしまう。我が軍は損害を出しながらも工場を奪い返し、再び酒を飲み、工場を放棄し、またまた取り返した。上層部にも何が起きているか見当がついたんだろう、酒の貯蔵タンクを見つけ出し、中身をみんな地面に流してしまった。これが2月初め頃の話なんだが、雪はあんまり残っていない、住民も逃げてしまっているという状況で、牛だけが残されていてね。牛どもがこの酒を飲み、酔っ払っていたんだそうだ。後からそんな話を聞いたよ。2月23日は[ソ連軍の創設を祝う]記念日だったが、ジューコフはその前に命令を出していた。
「橋頭堡に駐留している部隊に対しては、100グラム[のウォッカの配給]は停止される」
どうしてかって?そりゃ、自分たちで充分な量の酒を手に入れていたからさ!(11.12.07)
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