ニコライ・クジミチョフ5


 私たちの大隊は、一昼夜の戦いの後に後退を命じられ、帝国議事堂へ突撃をかけるための旅団予備戦力に指定されたから、まる一日戦闘に参加せず待機した。予備に回るってのはどういうことだと思うかね?私たちは1つの通りにとどまり、平行する隣の通りでは戦いの真っ最中。予備といってもこういう状況だったんだよ。結局のところ、[議事堂への]突撃には参加せずじまいだった。シュプレー川を渡る準備ができていなかったのだそうだ。予備として待機している間に、短機関銃手と戦車の乗員たちはビンを見つけ出してきた。レモネードか何かだろうと思ったらそうじゃない、それはシャンパンだった。暑かったから全て飲んでしまって、ちょっとばかり酔いが回ってきた。みんな陽気になったよ。ここらで一休みしないことにはどうにもならない。で、戦車の下に潜り込んだ。まさにその瞬間、敵の重爆撃機が隣の通りを爆撃し始めたから、ちょっとした地震が起きたような騒ぎさ。何しろ戦車が飛び跳ねたんだからね!
 私たちは都心部に近いアレクサンダー・プラッツまで進出した。4月の29日か、あるいは30日だったかもしれない。朝だった。みんな通りの真ん中に固まっている。壁際は危険だ、崩れ落ちてこないとも限らないし、上の階から何かを投げつけられる可能性があったから。前方には同じ旅団のIS-2が、また後方に50メートルくらい離れた壁の近くではSU-76が停車していた。何事もなく、ね。そしていきなり爆発だ!私は自分の戦車の後ろに立っていたが、瞬時に車体の下へ潜って隠れた。どうやら自走砲に迫撃砲弾が命中したものらしい。だがその乗員は地下室に隠れていて無事だった。彼らは、戦闘がなければ自走砲の中へとどまるものではないと知っていたからね。私たちは全く逆で、戦車の下に隠れる癖がついていた。
 アレクサンダー・プラッツに接近。駅から伸びる土手上にはレールが敷かれていたし、駅自体も2階の高さにあった。また土手の下には、監獄に隣接して倉庫のような建物が並んでいる。そこで命令。鉄道が通っている土手の真ん前、2つの家の間の部分で陣地を確保すべしというのだ。自走砲が爆発した通りから少し先へ進み、角を曲がった。そして停止した。私たちの戦車と、もう1両は第3大隊の所属車だが、指揮官は私の知らない男だった。停止していると、何かが動くのが見えたので、私たちは砲と機関銃とで射撃を開始した。そのうちの1発を撃ったところで、砲長がいきなりくずおれ、ひざまずいた。てっきりやられたのだろうと思ったが、実は修理を担当した整備兵たちが、閉鎖機用の特別なカバーをとめるボルトをきちんと締めず、突っ込んだだけの状態にしておいたのが原因だった。何しろ射撃の回数が多かったからね。一昼夜に何回も砲弾を使い果たしたくらいだ。1人でも敵兵を見つけたら撃つ、というような状況だよ。で、そのカバーが飛ばされて、照準手が覗き込んでいた照準器に当たったのだ。もしかしたら、彼はその衝撃で気を失ったのかもしれない。それ以上の射撃は不可能になってしまった。私は無線で報告し、後退命令を受け取った。で、角を曲がって退き、自走砲の残骸のところまで下がった。機関手兼操縦手に戦車を託し、SPAM(故障車両集積所)へ送り出してから、私は2両目の戦車の方へ戻ることにした。元の場所へ着いてみると、戦車は後退し、戦車長が砲塔から飛び下りてくるところだったが、彼は脚を折っていた。脚に負傷し、骨を折ってしまったのだ。後で聞いてみると、その戦車の機関手兼操縦手は[敵戦車もしくは自走砲の]砲身が現れたのを見つけ、後ろに下がったのだという。私のクルーだったらすぐさま射撃を行い、次の弾を装填していたはずなのだが、そうはしなかったらしい。後進とは退却に等しく、容認できる行動ではない。どうやら戦車長が後退を命じたようで、そこに敵が姿を現し、砲塔の下に1発喰らわせたのだ。下の方にいた照準手は戦死し、戦車長は脚に傷を負った。もしもこちらが先手を取っていたら、先にその場所を占拠できたはずだったのに、チャンスというのは何を措いても逃してはならないわけさ。

―ベルリン戦では、戦車隊の損失は大きかったのでしょうか?

 損失かね…私自身にも損失があったんだよ!全損ではないが、やっぱり戦車を失って、戦いを続けられる状態ではなくなった。もっとも、大隊長は酒でも飲んで休め、と言ってくれたんだが。そして、次の日にはこう言われた。
「貴様に別のクルーをあずける、指揮官のいない戦車があるのだ。それに乗って前進せよ」
 5月1日にどうしていたかは記憶にない。5月2日は前進を続け、フランクフルター・アレーを横切った。そして、敵[ベルリン守備隊]は降伏した!私たちは射撃を止めるよう命令を受けた。素晴らしい!これで生き残るチャンスは高くなったわけだ。我が軍は降伏を受け入れた。で、この時にも後の戒めになるような出来事が起きたよ。もっとも、いつだって注意されているような話ではあったが。ある短機関銃手が、[戦車の上に?]腰かけたままピストルをいじくり回していた。扱い方を全く知らずに、だよ。いろんなことをやっているうちに発射してしまい、それで機関手兼操縦手が重傷を負ったのだ。そんなこともあったが、ともかく5月2日に私たちは敵の降伏を受け入れた。基本的には、歩兵隊がこれに携わったのだけれども。私たちは100~150メートルほど離れた場所にとどまり、見守っているだけだった。その時、1人のドイツ兵が現れて短機関銃を乱射し始めたが、傍にいた同じドイツ人たちが彼の頭を殴りつけた。

―西側では多くの人々が、ベルリン市民は一人残らず強姦され、殺害されたと信じているようですが。

 とんでもない!確かに、窓から撃たれたら、その階に機関銃や短機関銃で撃ち返してやったよ。それから中を確かめ、地下室に市民が隠れているところでは、中に軍人が混ざっていないか確認した。もしかしたら、誰かそういう行為をする者もいたかもしれんが、しかし一人残らずなんてことはあり得ない。一般市民には手を触れなかった。相手が女性や子供だったらなおさらだ。ポズナンの近く、ベンチェン市でポーランドの旧国境を越えた時のこと。朝にそこへ到着し、ある家の傍で停止した。私も短機関銃を持ち、家の中に入ってみた。テーブルがあって、その上に大小様々な皿が乗っていて、何かがよそってあるのだが、人は誰もいない。私たちは地下室に入っていった。何しろ言葉が分からないからね。出て来なさい!お召し上がりなさい!お座りなさい!とこんな感じで[おそらく地下室でこの家の住人と出会い、意思疎通ができないまま混乱したやり取りがあったのだろう]。私たちは食べたいとは思わなかった。ただ、飲ませてくれるように頼み、「ドリンケン、ドリンケン」と繰り返したな。で、コップ1杯ずつ注いでもらった。
「ご主人、あんたが先に飲むんだ」
 彼は笑って、飲み干したよ。私たちもそれだけで外に出た。もしかすると、後方で勤務していた連中、とりわけウクライナやベラルーシで家族を[ドイツ軍に]撃ち殺されたような人々は、色々やらかしたかもしれん。私は略奪行為なんてのは一度も見たことがないが、いろんな人がいるわけだし、家族を殺された者は恨みを持っていた可能性もある。性格は人それぞれだからね。オーデル橋頭堡の段階ですでに、私たちの前で最高司令官スターリンからの命令が読み上げられた。
「わずかながらではあるが、これこれの場所で略奪及び殺人事件が発生した」
 犯人たちは軍事法廷で非常に厳しい判決を言い渡され、銃殺を含む厳罰に処された。ベルリンでは、ドイツ人は味方を殺した数の方が多かったんじゃないかと思う。

 その日[ベルリン降伏の日?]の夜は同じ場所ですごした。次の朝になると、「行軍縦列を編成せよ」との命令だ。私たちは市南東部の郊外に移され、ベルリン防空隊の高射砲陣地へ駐留することになった。陣地はベトンでできていたよ。数日をそこですごした。確か私が非番の時だったはずだが、夜遅くに射撃音が響きわたった。畜生め、また始めやがったのか!と思ったよ。信号ロケットや曳光弾が空に向かって打ち上げられた。だが、飛行機の爆音は聞こえない。そして突然、明らかになった。ドイツが降伏したんだ!!!みんなピストルを撃ち始めた。勿論、嬉しかったよ。これで生き残る可能性が大きくなったわけだから。
 それから私たちはオーデル・シュプレー運河を渡って移動するよう指示を受け、パネル組み立て式のバラックを宿舎として与えられた。部隊は公園に駐留し、みんな戦車の手入れをしてすごした。5月の終わり頃になって、ドレスデン地区への行軍命令が出た。あの頃は混乱した時期だった、という印象があるね。何しろ、よその国で戦時から平時の体制へ移行したわけだから。頭の中を整理し直すような、そんなことをしなくちゃならない。このプロセスは楽しいものでも、喜ばしいものでもなかった。ただ、重苦しく陰鬱な時期だったとまでは言い切れないのだが。

(了)

(11.12.07)

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