ニコライ・クジミチョフ4
私たちはオーデルに着いた後、川沿いに北上するよう指示を受けた。それから船で対岸に渡った。左手にはダムが見える。[ダムの上に?]車が停めてあって、[その車に積まれた?]友軍の37ミリ対空砲がうなり声を立て始めた。
空を見上げると、フォッケウルフFw190が旋回し、こちらへ舞い降りてくるじゃないか。どこへも逃げようがないだろう?クルーは皆、せめて物陰に隠れようと戦車の後ろに回り込んだが、それから上空を見ると、爆弾が降ってくるのが分かった。その時の感触といったら、あなたに分かるだろうかね?しかし、爆弾はダムの対岸側に命中し、そこで炸裂した。私たちは運がよかったんだ。
川を渡ったところでも、橋頭堡を押し広げるための戦いが続き、3月2日には2つの橋頭堡が合体してキュストリンを包囲した。私たちはチュイコフ司令官の第8打撃軍に配属されていた。受け持ちは包囲環の外の線で、その辺りに壕を掘って陣地を作り始めた。考えてもみてほしいのだが、戦車を隠すための壕を掘るには、おおよそ28立方メートルの土をかき出さなければならないんだよ!―短機関銃手たちも[戦車跨乗兵として]一緒に戦っていたのですか?
そうだよ。で、壕を掘った。私は座って見張りをしてたんだが、どんよりと曇った日のことで、しかし雨は降っておらず、私の手許にはドイツの双眼鏡があったから、それで前方を監視した。機関手兼操縦手が食事を運んでくる。その時の私は、砲塔の上に座り、装填手のハッチにもたれかかっていたわけだ。だから、まずは砲塔から車体後部に飛び下り、さらに地面へと下りていったんだが、その瞬間に頭上を砲弾が飛び去ったのが分かった。飯を食い終え、再び砲塔に這い上がったところで、私はゾッとしたね。ハッチ上には、スリットから水が入ってこないよう直径100ミリの金属製ローラーが取りつけられていたんだが、飛んでいった砲弾のせいで、このローラーがへこんでいるじゃないか。もう10秒から15秒も長くそこにいたら、私は跡形もなくなっていたはずだ。戦いの最中の話じゃないからね。戦いの時であれば[話は別で]、無我夢中になることができる。命令が出たとしよう。皆で攻撃開始の信号を待ち受ける。待っている間はいろんな考えが頭の中に入り込んでくるものだよ。
「どうなるだろうか?生き残れるか、それとも体のどこかをなくしちまうか?ツキに恵まれるか、どうだろうか?」
傷痍軍人になるくらいなら死んだ方がましだ、と思っていた。勿論、母は傷痍軍人になってでも生きていてほしいと願っただろうがね。だが、[戦闘が始まって]最初の1発を発射すると、すぐに落ち着きを取り戻すことができた。
それで、歩兵が交代するという指示を受けた。これより前、ちょうど3月2日の話なのだけども、橋頭堡を広げる戦いが続いていた時に、私の戦車の砲長ミハイル・ミハイロヴィチ・アジゾフ(本名はマゴメド・マゴメドヴィチだったはずだ)が負傷した。私たちはとある小さな村を奪取したんだが、味方の外套を着てカービン銃を持った男が立っていて、そいつに撃たれてしまった。正体はヴラーソフ軍[ドイツ軍の捕虜になった元赤軍兵士により構成された対独協力部隊]の者だったんだね。弾は[アジゾフが持っていた]短機関銃に命中した。敵兵は後で始末されたよ。照準手は後方へ送られることになった。彼は自力で無事に目的地へ着いたそうだ。戦勝の後に原隊へ戻ってきた。[その時は]彼の代わりに新しい照準手が配属された。スターリングラード州出身の若者だよ。名前はソルヴィゴロフ。
3月の初め頃、敵はキュストリンからの脱出を試みた。さっきも言った通り、私たちは歩兵が交代になるという話を聞いていた。で、[包囲環の]内側から車列が近づいてくるのが見えた。「止まれ!誰か?!」と叫んだ。すると、相手はこちらに向かって撃ってくる…戦車の車体後部には、イタリア製の手榴弾が箱に入って積んであった。卵みたいに丸いやつだ。私は50メートルほど先までそれを放り投げた。それで戦闘開始だ。敵は後方から私たちに攻めかかってきたので、前方機銃を外して持ち出した。砲塔も後ろへ向けた。短機関銃手たちと一緒になっての戦いだ。機関銃を胸壁の上に据えて撃ったよ。当たったか、それとも当たらなかったかなんてのは分からない。その時、いきなり爆発が起きた!手に持っていたDT機関銃が衝撃で吹き飛ばされ、円盤弾倉が鼻っ面に当たったから、私はしばらくの間意識を失ってしまった。どうやら、敵の1人がパンツァーファウストを発射したのだが、私のところまでとどかずに地面へ落ちたものらしい。爆発の衝撃の大部分は地面に吸収され、ただ私だけが機関銃で鼻を折られたというわけだ。敵の攻撃は撃退された。消費したのは砲弾を8発、それに機関銃弾が弾倉16個分。800人ほどの敵兵をなぎ倒した。夜が明ける頃、敵は白旗を掲げたよ。10日か、それとも9日だったかもしれないが、私たちは小さな窪地に移された。橋頭堡にはすでに多くの部隊が集まっていたよ。再び壕を掘ることになった。よく晴れた明るい日だったな。4月16日も近い時期だったから[この4月16日というのが何の日付であるかは不明]、各戦車に1人ずつを残し、残りの人員は入浴に出かけた。私は[戦車底部に格納してある]砲弾の上に立ち、装填手のハッチを開け、頭を戦車の外へ出していた。撃ち合いが行われていて、何だかうなるような、シュウシュウいうような音が聞こえたから、私はハッチの取っ手を握って閉めることにした。その瞬間に爆発だ!目から火花が飛び出し、息もできやしない!爆発はそれきり止んでしまった。私も我に返ったよ。戦車はそのままだが、2メートルほど離れたところにクレーターができていた。直径2~3メートルほど、深さは1メートル以上だ。1発だけで砲撃が終わって本当によかった。もうちょっとでも続いていたらおしまいだっただろうな…見ると、砲身に大きなくぼみができている。1月14日に攻勢が始まって以来、[砲身の]カバーはつけておらず、土埃が入らないよう砲口には紙を詰めていた。それを取り除いて見ると、砲身の中に出っ張りができており、射撃不能になっているのが分かった。このことを報告し、15日から16日の夜にかけて、故障車両集積所へ行き砲を交換してもらうようにとの命令を受けた。[整備兵たちが]破損箇所を調べた。私たちには「あんた方は寝たらいい」と言ってくれたよ。それで、私たちは防水布の上に横たわり、さらに防水布を上にかけてくるまった。もう暖かくなっていた時分のことだ。後から起こしてもらった。起きてみると物凄い騒音で、飛行機はあちらこちらを飛び回る、カチューシャが斉射する、砲も撃ちまくるという状況だ!私たちは寝入ってしまって、何ひとつ聞こえなかったのだ。整備兵たちは「[戦車を]引き取ってくれ」と言った。で、引き取ったよ。それから原隊に追いついた。
4月22日、私たちはベルリンの東の郊外にあるマルツァーン地区へ接近した。そこで夜をすごすことになった。着いた時にはもう夕方になっていたな。マルツァーンの景色は、我が国の街でいうと庭園地区に似た感じだった。パネル工法で建てられた1部屋だけの小さな家が立ち並び、その中にはソファが置いてある。窓の外には桜だのセイヨウミザクラだのの木が立っているんだ。破壊されたものは何もない。勿論、ここで戦いが行われたら家も果樹園も踏み潰されてしまうしかないのだが。さらにそこから先へ進んだ。そして、フランクフルター・アレーと交差する通りへ出た。フランクフルター・アレーというのは、ベルリンの都心部からフランクフルト・デル・オーデルの方向へ走っている通りだ。私たちはこれを横切った。その後はシュリッセンハートへ、またかつてはシュレジエン駅と呼ばれていたベルリン東駅へと進む。十字路の手前で停止したが、右手の角から砲身が見えていた。短機関銃手たちによれば、自走砲が穴を掘って隠してあるのだという。こいつを狙って[鹵獲した]パンツァーファウストを喰らわしてやったのだが、中には誰もいなかった。乗員はみな逃げてしまっていたから。戦友たちが先に立って前進し、私は少し遅れて右手を進んでいくと、砲兵隊がやって来て私に支援を要請した。フランクフルター・アレーと平行の通りへ来るよう頼まれたのだ。その通りは、フランクフルター・アレーとシュレジエン駅との間で、私たちがいた通りと交差する形になっていた。122ミリ曲射砲の砲兵たちだったよ。彼らはその通りに入ったところ、建物の上の階から撃たれて砲員を失い、砲を置き去りにして退却してきたのだそうだ。私は機関銃と砲とで上の階を攻撃し、一緒についてきた短機関銃手たちが建物を占領した。それで、砲も取り戻すことができた。(11.12.07)
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