ニコライ・クジミチョフ1
私が生まれたのはペンザ州のベリンスキー地区、当時はチェムバル地区といっていたのだが、そこにあるヴェルシーナ村というところだ。ヴェルシーナ[「頂上」の意]とはだてにそう呼ばれていたわけじゃなく、私たちの村にはヴォルガとドンの双方に向かって水が流れ出していた、そんな場所があったんだよ。だから、村自体もヴェルシーナと呼ばれてたってわけだ。両親は農民で、後にはコルホーズ農民となった。私は39年に7年の教育を終え、予備中等学校、つまりShKM(コルホーズ青少年学校)の卒業資格を手に入れた。そこから先は進路を選ばなくてはならない。チェムバルの師範学校に入るか、それとも中等学校に進むか。だが、家が貧しかったから中等学校は無理だったし、教師にもなりたいとは思わない。それで、仲間たち4人で集まって、トゥーラ兵器工場の付属学校へ行くことにした。2年の教育を受けるというコースだよ。しかし、最終的に学校へ入ったのは私1人だけだった。あれは39年のこと…12月にフィンランド戦争が始まったんだったな。あの年の冬はえらく寒さが厳しかったよ。トゥーラでは-46℃まで下がったくらいだ。配給券はなかった。パンは充分ではあったけれども、備蓄に回せるほどではない。当時、学校では寮を用意することができず、私たちは市民の家に下宿するよう言われた。
40年になると、映画館では15分から20分の長さのニュース映画が上映されるようになった。国の内外の情勢だとか、タリンやカウナスではソヴィエト連邦への統合を求めてデモが行われているとか、そんな内容でね。また40年の秋頃には、政府だったか人民委員会議[内閣に相当]だったか忘れたが、勤労予備軍の創設に関する決議を採択した。それで、工場付属学校も職業学校と名前を変えられたんだよ。1940年12月に私たちは繰り上げ卒業となり、工場へ送られた。私は第5級の資格を持つ旋盤工として働くことになった。1940年12月の話だ。3交代制の職場だったね。8時から4時まで、4時から12時まで、そして12時から8時まで。もしも8時間の間にノルマを果たすことができれば、私は14ルーブリ70コペイカの賃金を受け取る。またもしノルマを超過し、例えば1.5倍の働きを示せば、7ルーブリ35コペイカが余計に払われる。700ルーブリは稼げるようになったよ。最初の月は312ルーブリ、翌月は400ルーブリ、とそんな具合で。すると、私よりもはるかに年上の、40くらいの旋盤工がやって来た。そしてこう言うんだ。
「コーリャ、あのな、お前さんは今は若いから何でもてきぱきとやっつけちまう。私らも昔はそうだった。しかし何年か経つと、お前さんも今みたいに速くはできなくなるから。考えてもみてほしいんだが、ずっと今みたいなやり方を続けると、みんなのノルマが引き上げられるんだよ。だから、1.5倍は超えないようにしようじゃないか」
そういうわけさ。ノルマの1.5倍で働くことにしたよ。
1941年、私は17歳になっていた。6月22日は日曜日で、私はちょうど第3班[つまり夜勤]での仕事を終えたところだった。ブラブラしようと街へ出かけた。12時にラジオで(街路の電柱に大きな拡声器が架かっていたからね)モロトフの、つまりモロトフ首相[正確には当時は人民委員会議長という肩書きだったはずである]の演説が流れたのだが、彼によれば戦争が始まったのだという。ヒトラーの軍勢が[不可侵]条約を破り、一切の警告なしに、卑劣にも攻撃をしかけてきたのだ。もっとも、我が国が目前に迫った戦争のことを知らずにいたなどとは言えない。みんな予想していたし、私でさえそうだったくらいだから。いつかは戦争が始まるだろうとは知っていた。だが、これほど早いとは思っていなかったし、信じたくもなかったね。物質的に恵まれていると言えるような生活が始まった、まさにその時期の出来事だったから。
ちょっと先走って話しておくけど、私は前線で戦うことになった時、歩兵たちの会話を聞いたものだよ。彼らが言うには、ようやくのことでよい暮らしが始まり、コルホーズとも上手くつき合えるようになったと思ったら、いきなりボカン!と喰らわされたわけだ。そういうことなんだ。全くね…
仕事はすぐさま12時間ごとの2交代制に変わった。次の週に始まったんだが、朝の8時から夜の8時まで、そして夜の8時から朝の8時までだ。1週間後、私は朝に仕事を終え、天気も悪くなかったから、飯でも食おうかという気になった。どこへ行ったものだろうか?どこもかしこも配給券しか受けつけてくれず、それどころか券を持ってたってありつけるとは限らない。ビールだけは配給券なしで手に入った。ソヴィエツカヤ通りにビアホールがあって、ビールを頼むとジョッキ1杯にオープンサンドを1つずつ、もも肉か赤身の魚を乗せたやつをつけてくれる。私はオープンサンドを2切れは食べたかったものだから、ジョッキを2つ注文したよ。そのビールというのがニガヨモギのように苦い代物で、私は初めて飲んだのだが、ジョッキを空けることはできなかった。オープンサンドは2切れとも平らげたものの、すっかり酔っ払ってしまった。言うまでもないことだが、私たちは友軍が後退しているというニュースに強い衝撃を受けていた。当時は「我ら他国の土地を求めず、しかし自らの土地は寸土も敵手に委ねることなし」なんて歌が歌われていたんだからね。なのに、実際には退却してたんだ!年取った人々はどう考えていたか分からないが、私たちのような若い世代は、最後は敵に借りを返してやる、敵どもが我々にかなうはずはない、と信じていた。しかしながら、私たちの思いとは関わりなく、ドイツ軍は9月までにオリョールを占領してしまった。これはトゥーラからわずか70~80キロのところにある街だよ。前線は刻一刻と近づいてきていた。
初めての空襲を経験したのは10月だった。夜8時よりも後のことだ。私は駅の近くを歩いていた。橋を渡り、150から200メートルほど離れたところで、ふと見ると飛行機が低空飛行で鉄道に接近しているじゃないか。その日の夜はそれほど暗くはなく、翼に描かれた十字のマークがよく見えた。飛行機はまさに鉄道を目指しているところで、そこには川が流れ橋が架かっていた。橋を爆撃に来たのだ、という考えがすぐさま頭に浮かんだよ。そして、爆発音が聞こえた。私にとっては初めてとなるドイツの飛行機、ドイツ空軍との出会いだった。もっとも、爆弾は的をそれたんだけどね。
リャーシスク方面への疎開が始まった。100キロかそれ以上は[トゥーラから]遠ざかった頃だったと思うが、爆撃機の群れが飛んできた。列車はその場で停止。乗っていた者は皆、汽車から離れて逃げ出した。私たちは17歳で、脚も速かったからね。しばらくは伏せて隠れてたんだが、汽車はその間に動き出していて、私は置いてきぼりを食ってしまったわけだ。最寄りの駅まで歩いたが、私の乗るべき列車はもういなかった。後続の列車に便乗して乗換駅まで行ってみる。そこにもいない。どうしたらいいんだろう?私は貨物列車に乗せてもらってリャーシスクまでたどり着き、それから家まで歩いて、10月の半ばまでには帰ることができた。塹壕[掘り]へ行かされたよ。ペンザよりも西に、対戦車壕だの塹壕だのを掘っていたところがあったんだ。その後で家に帰った。私の父は年老いていて、すでに60を超えた年寄りだった。第1次世界大戦でドイツ軍と戦い、オーストリア・ハンガリー帝国の捕虜になった、そんな経歴の持ち主だ。父は言った。
「お前は手に職を持っているんだから、地区の中心市にあるトラクター製作工房で旋盤工として働くがいい」
私は第5級ではなく第6級の資格で雇われたが、当時はこの等級が賃金に響いたんだ。トラクター製作所では7か月間働いた。そして1942年の8月10日、私は軍へ召集され、7年の教育を受けていたこと、それに39年から就労していたことが認められ、ウリヤノフスクの戦車学校への入学が決まった。ウリヤノフスクには2つの戦車学校、第1と第2とがあった。第1の方は親衛学校の資格を持つ重戦車隊員の養成機関、また第2は41年にミンスクから移ってきた歩兵学校を改編してできた学校だ。T-70戦車での教育が中心だったが、他にもT-60やT-37、38といった戦車を訓練用に保有していた。
(11.12.07)
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