ボリス・ザハーロフ2


 間もなく、私たちは汽車に乗せられ、再びトゥーラ近郊のテスニツキエ野営地へ移動した。そして、122ミリ砲を搭載した新型のIS-2戦車を受領した。私たちはこの戦車に乗り、第2沿バルト戦線で戦うことになった。配属先は第10親衛軍で、軍直属の連隊としての編成だった。連隊は戦線の一員としてカリーニン州を進発し、プスコフ州を通ってラトビアに入りリガへ到達、その後はクールラント集団の包囲戦に参加した。1944年の夏はずっとラトビアで戦ったよ。あそこは森や沼地ばかりで、道路網はあまり発達していなかったから、ほとんどの戦いは道づたいに進撃する中で起き、歩兵の支援もないに等しい状態だった。にも拘らず、私たちの攻勢は大きな成功を収めた言っていいと思う。マドナ市をめぐる戦いのことはよく憶えている。連隊は、その地方では主要な道路となっていたアスファルトの舗装道を進んだ(戦車の集団が通った後では、アスファルトはほぼ完全に失われていたものだが)。ドイツ軍は道沿いに生えていたもみの木を切り倒してバリケードにし、横たえた木の梢の部分には対戦車地雷を仕掛けていた。ここで、私の戦車は先頭を進むことになった。危険を避けるため、私は木のバリケードの梢の辺りを榴弾で射撃した上、枝のない根元の部分を踏みつけながら進んだ。そうやって道路上を進撃したのだが、前方およそ300メートルのところで道が森から抜け、T字路になっているのが分かった。そこで私の戦車の砲長[照準手]ミーシャ・コザク、素晴らしい射手だった男だが、彼がT字路のすぐ近くで茂みがざわざわと揺れているのに気づいたんだね。後から分かったところによれば、ここにいたのは自走砲「アルトシトゥルム」[ソ連軍ではIII号突撃砲をこのように呼称していた]で、私たちに照準を合わせようと、車体の向きを少しだけ変えていたものらしい。私の戦車の砲にはすでに榴弾が装填されていたから、これを発射するしかない。初弾が命中、自走砲はすぐに燃え上がった!T字路に出たところで、私は左に向きを変えた。だが、後に続く戦車は機関手兼操縦手が上手く車体を制御できなかったため、道の右側にあった窪地に落っこち、動けなくなってしまった。私は自分の戦車を操縦手に委ねて飛び出すと、行動不能になった戦車の状態を確認し、これを引っ張り上げる手はずを考えた。それから3両目の戦車に近寄り、自ら指揮してロープを結ばせ、後進で引っ張らせた。私の戦車の装填手が叫びながら駆け寄ってきたのはこの時のことだ。
「敵の戦車が来ます!!!」
 私は2両のクルーに作業を続けるよう命じておいて、自分の戦車へ駆け戻ると席に着き、道がカーブしている地点まで戦車を前進させた。カーブの中ほどまで進んだ時、800メートルほど先から敵の戦車隊が列を組んで進んでくるのが分かった。ただし見えたのは先頭車両だけで、残りは土埃の向こう側だ。私の砲長は1発目の榴弾でこいつを炎上させた。2発目を込めるため、装填手が閉鎖機を開こうとすると、どうやっても開いてくれない。実は、照準手が機関銃の弾倉を取り替えようとしたらしいんだが、これを閉鎖機の上に置いていたんだね。そして1発目を発射した時に砲が後座したから、弾倉が駐退機のロッドの上に落下し、次に砲が復座すると、この弾倉を噛んでしまったというわけだ。そのため砲は完全に元の位置へは戻らず、薬莢も排出されなかった。ひん曲がった弾倉を何とか引っ張り出そうと大騒ぎをしている間にも、縦列で行軍してきた敵の戦車隊は破壊された車両を迂回し、こちらを目がけて撃ち始めた。私は機関手兼操縦手に後進でT字路まで戻るよう命じた。ドイツ軍はそれ以上前進してこようとはしなかった。この戦いが続いている間、私の部下の3両目の戦車は窪地から僚車を救い出し、引きずって(落ちた車両はどうやら履帯が引っかかっていたらしい)T字路へ戻すことに成功した。ところが、どこか横の方から、間違いなくパンツァーファウストの仕業だろうが、牽引をしていた戦車が攻撃を受け、燃え上がったのだ。砲塔のハッチは開け放たれているが、誰もそこから出てこない。戦車に駆け寄り、車内をのぞき込もうとしたまさにその瞬間、中から炎の柱が噴き上がったかと思うと、火に包まれた人間が飛び出してきた。機関手兼操縦手だった。私は彼の体から通話装置つき戦車帽とつなぎを剥ぎ取ったが、それらはぼろぼろになって燃えていた。その後で彼に、どちらの方向へ逃げればよいかを指示した。こうして私たちは、短時間の戦闘の結果、コバルジン中尉の戦車を失ったのだ…
 11月、私たちは再び汽車に乗せられ、またもやテスニツキエ野営地へ後送された。再度IS-2戦車を受領し、私も中隊長職を拝命すると、連隊はサンドミェシュ橋頭堡へ進出し、ここで第4戦車軍の指揮下に入った。連隊の到着は1944年12月12日のことで、それから1か月後には攻勢が始まった。我が連隊は中隊ごとに分割され、それぞれが第10義勇戦車軍団や第6機械化軍団などに配属された。進撃の速さには凄まじいものがあり、私たちはまだ街灯がともったり、レストランや店が開いたりしているような街へ入ったことがあるくらいだ。すぐに通りすぎていったよ…
 私はポーランド領内の戦いで負傷した。状況は以下の通りだ。部隊は深夜の行軍を続けていた。我が第4中隊は連隊の最後尾を進んだ。とあるポーランドの村を通過したのだが、村の名前はもう忘れてしまったな。とにかく、私たちの兵団の先頭がこの村で休んでいた。確か、彼らは[私たちが通ったのに気づかず]目を覚まさないでいたと思う。村を通りすぎたところで連隊長は部隊を停止させ、分散して警戒態勢を取りながら次の指示を待つこと、また燃料と弾薬を各車へ補給することを命じた。そしてその瞬間、村の中で撃ち合いが始まり、すぐに何軒かの家が燃え上がった。実は、私たちの後ろからドイツ軍の車列が進んできており、それがあの村で休息を取っていた友軍と激突したのだ。連隊長は、私の中隊に展開と偵察を命じた。私は2両を連れて村に向かい、残りの戦車は丘の反対斜面で待機させたが、彼らには無線で状況を把握するよう、そして何かあったら砲撃で私たちを支援するよう言っておいたよ。突然、村からドイツの戦車が飛び出してきたが、その上には砲塔も何も見えないくらいにたくさんの兵隊が乗っている。まるでハリネズミだ!私は砲長に言った。
「目標、見えるか?」
「見えません」
「砲塔を左に回すんだ」
 その時には、もう敵は逃げてしまっていた。しかし照準手はこの戦車を見つけ、榴弾をお見舞いした。仕留めることはできなかったが、見ると戦車は丸裸で一目散に逃げていくじゃないか。爆発の衝撃で、乗っていた兵隊はみんなふるい落とされてしまったのだ。私は再び前進を開始した。キューポラの中からでは何も見えないので、身を乗り出してハッチの陰に隠れるようにしながら前方を監視するしかない。その後、車外通話装置を車内用に切り替える必要があったので、一瞬だけ砲塔の中へ下りることにした。かがみ込んだまさにその時、頭に強烈な打撃を感じた。目から火花が飛び出、戦車が燃えているんじゃないかと思ったくらいだ。私は砲塔の上に転がり出た。それから周りを見回したが、何ひとつ燃えているものはなかったので、再び車内に入った。実は、敵の砲弾が前方に開いたハッチへ命中し、これを打ち砕いてしまい、破片が私の戦車帽を貫いて頭を傷つけたのだった。もう1秒か2秒でも砲塔の中へ入るのが遅れたら、私の首は吹っ飛ばされていただろうね。車内にあった医療セットの包帯を頭に巻き、次の朝には救護所で傷の手当てをしてもらった。
 もう1つ、こんなエピソードが記憶に残っている。第6機械化軍団の先遣隊に加わってチャルナ・ニダ川へ向かっていた時のことだ。私たちは水車小屋の近くにかかる橋へ接近した。この橋が強度不足だと分かったので、偵察隊は浅瀬を探すため川をさかのぼっていき、残った私たちは分散して戦車を石垣の陰へ隠した。正午に近くなった時、後方の丘の上に装甲輸送車とも戦車ともつかないものが現れた。遠すぎるので撃つのは控えたよ。それはドイツ軍の偵察車両だったんだが、こちらを発見できず、後続の戦車と装甲輸送車の車列にそのまま前進するよう指示を出したらしい。敵の先頭車両が橋にさしかかった時、待ち構えていた私たちは一斉に射撃を開始した。一方的な殺戮だったよ。何しろ、敵は1発も撃ち返せなかったのだからね!数分後、路上には20もの燃え盛る残骸が横たわっていた…
 ベルリン郊外で、私たちの連隊はリュッケンワルドを初めとする小規模な居住区を占拠するための戦闘に参加した。私の中隊の人員は15名程度しかおらず、戦車ときたらこの頃までには1両もなくなっていた。4月の末、私たちは銃や鹵獲したパンツァーファウストで武装し、エニッケンドルフ村付近の十字路を守備するよう命じられた。戦車兵だというのに、ただの歩兵も同様の使われ方をしたわけだ…もっとも、実際に戦闘を経験することもなかったのだが。ただ一度だけ、4人からなるパトロール隊がドイツの装甲輸送車に出くわすという出来事があった。装甲車の上に座っていたドイツ兵たちはこちらにタバコを1箱投げてよこし、そのまま走り去っていった。敵も味方も、1発も撃ちはしなかったそうだ。それからもう1つ、夜中に兵隊が走ってきて「ドイツ軍だ!」と叫んだこともあったな。みんな急いで飛び起き、道路の脇の側溝の中に伏せた。ドイツ軍の車列を近くに引きつけ、一斉射撃の開始だ。するとドイツ兵たちはわめき騒ぎ、降伏するだとか何だとかというようなことを言った。射撃を止めて見ると、白旗を掲げた兵士が2、3人で進んでくる。結局、300人ほどを捕虜にして、隊列を組ませることになった。私は2人の短機関銃手[おそらく戦車跨乗兵として勤務していたのだろう]を選び出し、1人を先頭に、もう1人を最後尾に配置すると、捕虜たちをベルリンの方へ送らせた。その後、私たちは連隊の第2梯団として、急ぎの行軍でプラハへ向かわされた。戦争の話はこれで全部だよ…

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(11.06.21)

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