ボリス・ザハーロフ1


 私は1921年6月24日、ゴーリキー[現在のニージニー・ノヴゴロド]州ゴロデツ市に生まれた。両親は元々モスクワに住んでいたが、食糧難の時代に食べる物を求めてゴロデツへ移り住んだのだ。1940年にモスクワで中等教育を終えると、3人の同級生と一緒に戦車兵学校へ進もうと決めた。入学試験を受け、フルンゼ記念オリョール戦車兵学校に入ったのが1940年9月。1941年8月末に卒業し、中尉に任官すると、今度はチェリャビンスクへ送られ、指揮官の練成部隊である第30予備戦車連隊で勤務することになった。連隊では指揮官の技能向上コースを設けていて、私はここで中隊の技術担当副隊長に任じられた。勤務の内容といえば、機関手兼操縦手となるべく訓練を受けている候補生に対し、T-34やKVの機材に関する教育を施すことだ。1943年の初秋になってようやく、私はアフォーニン将軍からの愛顧に甘える形で連隊から抜けさせてもらい、出征できることになった。11月に予備戦車連隊で新型戦車IS-1を受領すると、戦場に慣れるため演習場で射撃や操縦の訓練を行い、いよいよ出陣となったのが12月だ。私たちはトゥーラ郊外のテスニツキエ野営地へ送られ、第13独立親衛重戦車連隊の一員となった。ちなみに、私はどうも13という数字に縁があったらしい。連隊に入ったのは1944年1月13日のことだし、着任の辞令も第13号だったよ。
 私はここで戦車小隊長に任命された。指揮するのは中隊長車[おそらく小隊長車を兼ねていたのだろう]と、それ以外の車両が2両。中隊の第2小隊は2両から成り立っていた(つまり中隊に所属していたのは5両のIS重戦車というわけで、連隊全部でも21両しかいなかった)。1944年の初め頃、私たちの連隊は第2ウクライナ戦線に配属された。最初はジュルジェンツィ村付近で守りについたが、2月15日の払暁、私たちはルィシャンカ村の陣地へ前進するよう命令を受けた。この陣地変更の途中で、私の戦車は地雷を踏んでしまったのだな。爆発の衝撃で第1転輪が脱落し、ギアボックスも動かなくなった。ただし誘導輪は無事だったから、私たちは履帯を張り直し、何とか戦車を目的地まで運んでいくことができた。また、私の小隊のもう1両は、減速機に[潤滑油の?]漏れが見つかった(IS-1の操向減速機は非常に脆く、すぐに使えなくなってしまったものだ)。こうして、小隊に残った戦闘可能な車両は1両のみ、中隊合計でも3両にすぎない。我が中隊を含む連隊は、ルィシャンカ前面に進み、木々で覆われた丘陵地に展開した。ここから村まではおよそ半キロほどで、村外れの様子がよく見え、線路の土手も視界に入っていた。製糖工場から積み出した砂糖をポタシ駅へ送るため、狭軌の鉄道が通じていたのだ。線路は村と並行するような形で続いており、その村を奪取しようとするなら、土手を乗り越えて進む必要があった。翌朝、連隊長はルィシャンカ村を攻撃すべしとの命令を受け、第1中隊で修理が終わっていた戦車5両全てを投入する決定を下した。中隊長はグミリャンスキー大尉だった…私が初めて参加した攻撃になるわけだが、これは辛く苦しい体験だったよ。辛いというのは、後に戦いの中で経験を積んでみると、この時の連隊長の決断は全く考えの足りないものだということが分かったからなんだ。偵察情報も何もなく、支援の砲撃もないまま、中隊は敵に向かって突進する羽目になった。5両の戦車は横一列に並んで進んだが、土手の斜面を登りにかかったところで、ルィシャンカの村外れに配置されていたドイツの対空砲部隊が射撃を始め、文字通り数秒の間に全ての戦車を破壊してしまった。何両かはそれでも前進を続けたが、雪の中にはまり込んで擱座し、何両かはすぐに炎上した。1個中隊が全滅したのだ…1974年、この地区の解放30周年が祝われた時のことだが、私は連隊の戦友たちと一緒に思い出の戦跡をめぐった。ルィシャンカにも立ち寄り、あの戦いがあった場所へ行ってみたよ。連隊が展開していた地点から少し右に寄ったところで、ちょっとした窪地を見つけた。つまり、もしもきちんと偵察をやっていれば、窪地に隠れる形でルィシャンカを迂回し、ドイツ軍の後方に出られたはずなんだ。それに、予備として後置した戦車は砲撃でもって攻撃隊を援護してもよかったのに、1両も支援任務を与えられたものはなかった。何故そんなことが、と思うだろう?[上層部は]新型戦車の強靭さを過大に見積もり、あらゆる砲弾をはじき返してくれるはずだ、なんて期待していたわけさ…
 この後で、連隊は第2ウクライナ戦線司令部直轄の予備に回された。私たちはそこで態勢を立て直したが、3月5日になると、第2ウクライナ戦線指揮下の第2戦車軍が突破作戦を開始した。ウマニ・ボトシャニ作戦[ザハーロフ氏は「ボタシャニ」と言っているが、地名としては「ボトシャニ」の方が正しいようだ]の始まりだ。それは春先のことだった。雪解けのおかげで、全ての道は泥水の流れる小川に変わってしまっていた。私たちは戦車の装甲の上に砲弾を積み、フェンダー上には燃料タンクを載せ、さらに短機関銃を持った歩兵の分隊を跨乗させると、西に向かって前進を開始した。ちなみに、IS-2で戦うようになった後の話だが、私たちは皆できるだけ多くの予備砲弾を持っていこうとしたものだ。というのも、IS-2の正規の弾数はわずか28発だったからで、私たちはこれに加えて15発の砲弾と装薬を床の上に置き、装甲上にも何箱かを積むようにしていた。
 ウマニまで30キロほどを残したところで、ゴールヌイ・チキチという小さな川に行き会った。ここへはイヴァニキ地区からアプローチしたんだったな。川岸はえらく険しくて、戦車の行く手を阻んでいる。村に架かっていた橋はといえば4輪馬車を支えるのが精々で、46トンもある戦車が通れるようなものじゃない。連隊の工兵隊は下流に別の橋を見つけたが、これには地雷が仕掛けられている。だが工兵たちは、しかるべき準備ができていないという理由で、地雷の除去作業を断ったんだ。それで、私たちの戦車軍団の工兵隊は、村にあった橋を強化することにした。日中はずっとその作業にかかりきりで、夕方頃になると、橋は戦車を通せるはずだという連絡が来た。私の戦車は一番手の位置にいたから、工兵隊の仕事ぶりを試すめぐり合わせになったわけだ。だが、真ん中ほどまで来たところで戦車は橋の左側を突き破ってひっくり返り、川の中へ転げ落ちてしまった。水面に出ているのは右の履帯だけ。私はその時、機関手兼操縦手用のハッチの前に座り、携行用の電燈で前方を照らしていた(ドイツ軍の空襲が怖かったから、戦車のライトは点けないでいたのだ)。だから、水の中に放り出されたものの、すぐに戦車の上へ、その後は橋の残骸へよじ登ることができた。しかし残りのクルーは戦車の中から出られなかった…連隊は他の場所で渡河点を見つけて前進したが、私は回収中隊の到着を待って戦車を引き揚げ、戦友たちを葬った。5月の初め頃になってからようやく、私はモルドヴァで原隊に追いついたよ。連隊ではほとんど全ての機材が失われていた。多くが機械的な故障で失われ、戦闘による損失も出していたから。

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(11.06.21)

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