ヨシフ・ヤムポリスキー3
―スターリングラードの防衛戦については、何百冊もの本、何千本もの論文が書かれています。ただ、街の中で起きた出来事について、ごく普通の兵士の回想は極めて少ないのが実情です。勿論、全ての[つまり1等から3等までの]栄光勲章を授与されたことで知られるエフィム・ミンキンが、シーモノフ[ソ連の著名な従軍作家]に優れたルポルタージュの素材を与えたような例はありますよ。またヴィクトル・ネクラーソフも、有名な著作[註1]の中であの戦いを描いています。しかしながら、ほとんどの回想は高級指揮官たちによって残されたものです。一方であなたは、戦車中隊や大隊の指揮官としてあの戦いに参加されています。あなたにとって、スターリングラードとは何だったのでしょうか?市街戦の中で、戦車はどのように使われていましたか?
42年の9月から10月初めにかけてのスターリングラードで何が起こったか、これを伝えられるような才能のある作家は、決して見つかることはないでしょう…新たなレフ・トルストイでも現れない限り…あれを体験した者は誰でも、自分は地獄の中にいたのだと言うはずです…そして、それは真実なのです。
ハリコフの悲劇の後、旅団は再編成のためスターリングラードへ送られました。街に到着すると、とたんに空襲が始まりました。私たちの列車はそれでもまだ被害が少なかったのですが、増援部隊を乗せて前線へ向かっていた列車、私たちの近くで待避線や隣の路線に停まっていた列車などは、ドイツ軍から散々な目に遭わされましたね。何百人もの死傷者が出ましたから。私たちの暖房車には、何人かの負傷者が投げ込むも同然に乗せられました。最寄の駅には病院がある、そこで「手足のない連中」は引き取ってくれるはずだ、とこういうわけです。けれども、その駅までたどり着くにはまる一晩かかりました。何しろ線路は爆撃にさらされているし、復旧するまで待たなければいけないのですから。私のすぐ隣には負傷した兵士が寝かせられましたが、彼は脚を吹き飛ばされていました。まだ意識があったのですね。それで、前線に行くのは3度目だったと話してくれました。けれども、その3度とも、前線に向かう列車がドイツ軍の爆撃を受けたのです!3度負傷しているのに、ドイツ兵を見たことは一度もない…彼は朝までに息を引き取り、私たちは何一つ手助けをすることができませんでした。私は、自分も再編成が終わると3度目の前線勤めを経験するのだ、という思いにとらわれたことでした。
ドン屈曲部での夏の戦いには参加していません。スターリングラードでは、8月の半ば頃までは平穏な生活が続いていました。しかしその後で、私たちの番がやって来たのです…
スターリングラード市の都市設計は独特です。ヴォルガに沿って伸びる数十キロの市街地も、幅はというと一番広いところで川岸から4キロほどしかないのです。8月23日、戦線の装甲部隊司令官であったシテヴネフ将軍が、トラクター工場地区に侵入したドイツ軍に対して攻撃をかけるよう、私たちに命令を下しました。大空襲の後、街は燃え盛っていました。貯蔵庫の石油も燃え、奔流となってヴォルガに流れ込んでいましたから。文字通り、川が燃えていたのですよ。空は一面、何百機ものドイツの爆撃機で覆い尽くされていました。私たちの旅団は第23戦車軍団の指揮下に入りましたが、これは先に7月の戦いで大きな損害を受けていた軍団です。軍団の司令官はアブラム・モイセーエヴィチ・ハーシン将軍で、この人は指揮官ひとりひとりと握手を交わし、戦いへ送り出してくれました。ドイツの戦車部隊は工場地区から1キロ半離れたところに展開し、味方の歩兵が集結するのを待っていました。もしもこの日、彼らがドイツ軍特有の几帳面さを捨て、命令など待たずに突進を開始していたなら、ヴォルガをめぐる戦いは起きなかったかもしれませんよ…
私がドイツ軍の戦車と真正面から激突したのはこの時が初めてです。私のクルーは、敵戦車の2両を炎上させることに成功しました。しかしこちらも損害を受け、少しずつ街の方へ退却しなければなりませんでした。
我が方に戦車はありましたし、トラクター工場も9月の末までは生産を続けていました。ただ、多数の戦車を一気に投入することはできなかったですね。2~3両ずつに分散し、歩兵を支援するため様々な地区に投入されるのが普通です。もしも戦車が撃破されると、その周りを土で覆い、トーチカに改造しました。一方のドイツ軍はというと、戦車の大群でこちらを圧倒してくるわけです。
今でもシリカ工場をめぐる戦闘は記憶に残っていますが、とりわけトラクター工場南部で反撃を行うため、ウドヴィチェンコ中佐やクリチマン中佐と共に旅団の戦力を結集した時、あの時の戦いは苦しいものでした。ドイツ軍は一挙に150両の戦車を繰り出してきましたからね。私たちもドイツ軍も、あそこで生き残った者はわずかしかいません。最初のうちは戦線も固定されておらず、どこに敵がいてどこに友軍がいるのかさえ分かりませんでした…
スターリングラードでは、人は最大でも3日しか生きられません。新しく来た隊員を知るよりも先に、彼らは死んでいきました。その中でもある兵士のことはよく憶えています。戦車長を務めていた中尉で年は18、もしも私の記憶が正しければ、名字はゲルシェゾンとかいわなかったかな。本当に感じやすそうな顔つきの若者でしたね。「もしも生き残ることができれば、戦争が終わったら詩人になるんじゃないのか」と思ったほどです。2週間後、彼らは空襲で死にました。中尉の遺品として地図ケースが回収されたのですが、その中には詩を書きつけたノートが入っていました。
「年老いた僕たちは、いつかスターリングラードに来るだろう。ヴォルガのほとりで若き日々を思い出すために」…
戦車兵になるのは選ばれた者ばかり、当時の言葉で言うところの「試薬品で実験ずみの」選りすぐられた兵士の集まりでした。しかし私たちでさえ、時には恐怖を感じることがありました。敵の砲火はあまりにも激しく、私たちの乗った戦車が炎上しているのに、乗員が脱出に二の足を踏んだくらいです。機関手兼操縦手は自分のハッチから外へ出ようとして、その場ですぐに戦死しました。私は力ずくで、あるいは罵りわめきながら、煙の立ちこめる中で残りの乗員を戦車の外へ「追い出す」羽目になりましたよ。1人目は上手く飛び出し、2人目は腕に負傷。私は最後に戦車から抜け出しました。匍匐で10メートルほど離れたところで、戦車は爆発しました…
負傷者も、自分の戦友たちを見捨てて下がることはできませんでした。私たちもドイツ軍も、お互い決死隊員のように戦い、一刻も早くあの世に行きたがっているのではと思われるほどで、狂気に近い状態でしたね。
今でも忘れられないのですが、私たちの大隊付き政治委員、私と同名で同郷の出身者だった人が、脚を吹き飛ばされ、夜中にヴォルガを渡って対岸へ後送されることになりました。政治委員は青白い、血の気を失った顔で横たわったまま、涙を流し続けています。彼を見送ろうと、私たちも川岸に集まりました。政治委員は言いました。
「傷が痛くて泣くのではないぞ。みんなと一緒に、汚らわしいファシストを倒すことができないのが悔しいんだ!頼む、ドイツ人どもの息の根を止めるまで戦ってくれ!」…
ある時、攻撃前の打ち合わせで歩兵部隊のところへ行ったことがあります。4階建ての家で、すっかり廃墟になっていました。突然、ドイツ軍の強襲部隊がなだれ込んできて、手榴弾を投げ込みながら、私たちを上の階へと追い立てました。持っていたTT[トカレフ拳銃]の弾は撃ち尽くし、死んだ兵士の小銃を拝借するしかありません…地下から4階まで逃げましたが、これ以上はもう死ぬしかないという局面でした。それでも私は、焼け残った雨樋を伝って下の階へ降りることができたのです。10人ほどのドイツ兵が私めがけて撃ってきましたが、あれはまさに奇跡でしたよ!1発の弾も当たらなかったんですから…夜遅くになってその建物は奪還されましたが、もう1人の歩兵が生きたまま救出されました。彼は重傷を負って意識を失い、ドイツ兵から死んだと思われていたのだそうです…
またある時には、確かグローズヌイ歩兵学校から来たのだと記憶していますが、生徒大隊の火力支援に回されたことがあります。攻撃に出た生徒たちのうち、生きて戻ってきたのはわずか8人でした。
スターリングラードの大地には、1メートルごとに死体が横たわっているように思われ、私たちは死体の上を行き来していたものです。どれが友軍の兵士でどれがドイツ兵かは、外套の色で見分けるしかありませんでした。地面はどこもかしこもささくれたようになっていて、平坦な場所などは残っていません。戦車の底面までの高さは十分あったにもかかわらず、[底部の]脱出用ハッチを開くことができなかったくらいです。死体だの金属やレンガの山だのに引っかかってしまって。戦争中に体験した中で最も恐ろしかったのは、それはハリコフ地区での猛爆撃やクルスク突出部の夜戦でさえなく、辺り一面で撃ち合いが行われているのに、状況が全く分からないことでした。どこに味方の戦車がいて、どこにドイツ軍がいるのか…
それから、太平洋艦隊から来た海軍歩兵大隊の突撃です。彼らは身をかがめることなく、猛烈な砲火の中、機関銃の真正面から進んでいきました。わずか数分の間に1000人が斃れたのです…一度、負傷者を乗せた平底舟が私の目の前でヴォルガの底に沈んでいったことがあります。ドイツ軍の爆撃により沈められたもので、川の水は地で赤く染まりました…昼も夜も、ヴォルガの上空にはドイツの爆撃機が「ぶら下がって」いましたよ。
10月の初め頃、私の戦車はまたもや撃破され、再び脚に負傷してしまいました。その日、私の戦車はヴォルガから100メートルの地点を守っていました。つまり、私たちの背後に残されたソヴィエトの土地はわずか100メートル。みんな、後退はあり得ないことを理解していました…
私は真夜中にヴォルガを渡って後送され、左岸のコムソモーリスコエに収容されました。当時、負傷者の半数は渡河点で命を失うのが普通でした。膨大な数の負傷者が送られてきて、病院では麻酔薬がなくなったほどです。私は受傷の直後に向こう岸まで送ってもらうことができたのですが、多くの者は地下室や衛生大隊に横たえられたまま2週間も待たなければなりませんでした。軍医には、今日中に手術しなけりゃ壊疽でお陀仏だと言われましたよ。コップ2杯のアルコールを流し込まれ、4人がかりで手足を押さえつけ、外科医が手術をする。そんな有様でした。
それからサラトフの病院へ送られた後、2か月で前線に復帰しました。再びスターリングラード地区でのお勤めです。前線へ向かう車内で、私は頭も心も悲哀に囚われてしまっていました。今度こそおしまいだろう、運命と何度も「オルリャンカ」[コインを投げて裏表のどちらが出るかを賭ける遊び]を続けられるものではない、ってね。けれども、並んで行軍している味方の部隊を見ると、みんな意気高揚たるもので、敵を打ち負かしたいという希望に燃えている。私は、自分だけ気をくさらせていたことが恥ずかしくなったくらいです。そして、[前線到着後は]フィリッペンコ旅団に配属されました。
43年の2月初め、私はスターリングラードの中心部にやって来ました。見るのもむごたらしい光景でした。全ての地下室が、負傷や飢え、寒さのため死につつあるドイツの将兵でいっぱいになっていました。彼らの苦しみを目の当たりにするのは確かに辛いことではありましたが、前年の秋の戦いを経験した後では、ドイツ人に対して憐れみの念を抱く者は誰もいませんでしたね。私たちの医務班はドイツ兵に手当てをしようとしたのですが、しかしすでに手遅れでした。捕虜を殺害してはならない、という命令が出ていたことは確かです。それでも友軍の兵士の一部は、負傷者の中に親衛隊員がいないかどうか探し回っていました。もしも服装でSSに所属していることが知れると、その捕虜はすぐに銃殺されました。もう一つ私を驚愕させたのは、ドイツ軍の軍服を着ている者のうち、10人に1人くらいは元の赤軍兵士が混じっていたという事実です。彼らもまた、手心を加えられることはありませんでした。極限に近い過酷さが人々を支配していました。街路は凍死したドイツ兵の遺骸で埋め尽くされています。ドイツの捕虜たち自身が、人や車が道を行き来できるよう、死体を両脇に取り片づけました。鉤を鼻の穴に引っかけて、引きずっていくのです。ドイツ兵たちはまた、死んだ戦友から長靴を脱がせていました。やり方は簡単ですよ。バールでくるぶしのところを殴りつけると粉々になりますから、それで楽に長靴を取ることができるわけです・・・これくらい詳しくお話すれば充分でしょうか?・・・―繰り返しになってしまいますが、スターリングラードの戦いについては数多くの本が著されています。それでも、あなたが記憶されている中で、歴史家の大著にも収められていないような出来事はなかったでしょうか?
そういうことは歴史家に聞いて下さい。彼らは全ての記録を手にしているはずです。
ただ、トラクター工場でのあの出来事は、多分まだ知られていないか、少なくとも出版されたものの中には収められていないかもしれません。42年9月の段階で、両軍は鹵獲した敵戦車を盛んに利用していました。私も一度、ドイツ兵が乗ったT-347両を撃退する羽目になりましたし、逆に戦利品のドイツ戦車を改造したトーチカで数日間すごしたことさえあります。彼らの戦車には、まるで便利な部屋の中にいるような居心地のよさがありました。それはともかく、我が方の戦車20両ほどが列を組んで、修理を受けに向かっていたのです。そこへドイツの戦車4両が、薄暗がりにまぎれて「割り込み」をしたのに、誰一人としてこの企みに気づくことはなく、ドイツ戦車はトラクター工場内の修理場に紛れ込み、四隅に分散しました。それから、戦車や人員や修理設備を狙って撃ち始めました。最終的に彼らを殲滅するまでの間、私たちは大変な損害を受け、血なまぐさい「宴」に参加させられたわけです…自分を犠牲にできるという点では、ドイツ人も私たちと変わりませんでした…
44年の春、ウクライナにいた頃のこと、1人の[ドイツ人捕虜の]少佐が銃殺されたのですが、彼は私たちに真正面から唾を引っかけ、私には「ユダ公!ブタ野郎!」と罵り叫びました…彼らもまた誇り高く死ぬことができる人々だったのです…
そういうわけで、私たちは強大で、経験豊かな、そして命を惜しまず戦う敵軍を相手にしていたのですよ…
註1:ソ連の作家であり、技術将校としてスターリングラードの戦いに参加した経験を持つヴィクトル・ネクラーソフの小説『スターリングラードの塹壕にて』のこと。1946年という非常に早い段階で発表されたものであり、ソ連の戦争文学を代表する大作として名高い。
(11.06.01)
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