ドミトリー・ロザー5
―ドイツのティーガーについて何かお話しいただけないでしょうか?
そりゃもうヘヴィな戦車だったよ!正面からだとシャーマンは何もできやしない。どうにかして相手が横腹を見せるようにもっていかないと。私たちが防御の構えを取っていて、ドイツ軍が攻勢に出ている時は、次のようなやり方があった。まずティーガー1両に対しシャーマン2両で当たる。そして1両目のシャーマンが敵の履帯を撃って破壊する。あの化け物は、それでもしばらくの間は履帯1本だけで動き続ける。つまりはその場でくるくると回ってしまうのだね。この瞬間に2両目のシャーマンがティーガーの側面を、できれば燃料タンクを狙って撃つわけだ。そういうわけだから、ドイツ戦車1両を2両1組で料理することになり、撃破の記録は両車のクルーが分かち合った。私の本の中でも、「ボルゾイ[ロシア原産の猟犬]の狩り」と題する一章でこの時の話を書いているよ。
―マズルブレーキには1つの大きな欠点がありました。これを装着した砲を発射すると、土煙が上がってこちらの位置を暴露してしまうのです。砲兵の中には、この問題に対処するため砲の前面に水をまく者もいたそうです。あなたの部隊では何らかの対策が講じられていましたか?
もちろんだとも!地面を踏み固めたり、防水布を敷き詰めたりとかだね。ただ、私は特に大きな問題があったとは思っていない。
―戦車の照準が埃や泥、雪などで塞がれることはあったのでしょうか?
特に困ったことはない。もちろん、雪に塞がれることはあったが、埃は大丈夫だった。シャーマンの照準器は外部に突き出てはおらず、逆に砲塔の中へ隠される形だったからね。よく守られていたよ。
―ドミトリー・フョードロヴィチ、イギリスのマティルダで戦ったソ連の兵士たちは、冬季に戦闘室の気温が低すぎたことを戦車の欠点として挙げています。固定装備の電気ヒーターは、ロシアの冬のような環境を想定しておらず、パワーが足りなかったというのです。シャーマンの場合はどうでしたか?
シャーマンは2台のエンジンを積んでいて、それらがお互いにクラッチでつながれていた。これは、長所でもあれば短所でもあったと言える。例えば、戦いの最中にエンジンの1台が破壊されてしまったような場合。そうなっても、戦闘室の中から壊れたエンジンのクラッチを切りさえすれば、もう片方のエンジンだけでどうにか戦場から逃げ出すことができた。しかしながら、エンジンは両方とも強力なベンチレーターを装備していて、これが問題だった。私らは「口を開けりゃ、尻から風が抜けていく」なんて言っていたものだよ。ヒーターどころの話じゃないだろう?ひどい隙間風にさらされ通しだったんだ!エンジンの熱があったことはあったが、それでも暖かいというほどじゃない。その代わり、戦車が止まったらすぐエンジンルームに防水布をかける。そうしたら車内は数時間は暖かくなって、戦車の中で眠ることができた。アメリカ人が毛皮製のつなぎを供与してくれたのも、理由あっての話だったわけだ。
―戦車ごとの砲弾消費量は規定で定められていましたか?
もちろんだよ。まず第一に、私たちは搭載数(BK)一杯まで砲弾を積んで戦闘に出ていった。これが長距離の襲撃戦となると、戦車の装甲の上にもう1か2搭載数の砲弾を積んでいく。例えばウィーンに潜入した時、私は指揮官から直々に2BKの砲弾を用意するよう命じられた。定数は戦車内に、もう片方の搭載数は装甲の上に、というわけだ。その他に、各戦車は分捕り品のチョコレート2箱ずつを載せただけで、その他の食糧は自分たちで見つけることとされた。当時の言葉では「婆さんの証明書で」食いつなぐ[兵士たちが遠征先の住民に食を求める行為を指した俗語だが、由来はよく分らない。すいません]、早い話が自給自足を求められたんだね。つまり、どこか遠くを目指して襲撃戦をやる場合、私たちは食糧やその他の備品を下ろして、代わりに砲弾を積み込んだんだ。部隊が持っていた車は全てアメリカ製のスチュードベッカー3トントラックだった。まさにこの車が大隊に砲弾を運んだのだ。
ここでもう1つ話しておきたいことがある。我が軍はどうやって砲弾を保管していたと思うかね?分厚くグリースを塗って、何発かずつに分けて木の箱へ収納したのだ。このグリースを拭き取るためには、何時間も座り込んで作業をしなくちゃならない。一方、アメリカ製の砲弾はボール紙のケースに3発ずつ収められていた。ケースを開けてみると、ピカピカに光り輝くきれいな砲弾が出てくるという具合だ!だから、すぐに戦車の中へしまうことができたんだよ。
―戦車にはどのような砲弾を積んでいましたか?
徹甲弾と榴弾だね。それ以外のタイプはなかった。ちなみに、榴弾は全体の三分の一程度で、残りが徹甲弾だった。
―おそらく、砲弾の比率は戦車によって違っていたのでしょうね。例えば、我が国のIS重戦車では逆でした。
それはその通りだ。ただ、ISはとんでもない「でかぶつ」を撃ち出すことができたから、1発でも当たればそれで充分だった。私たちがウィーンに突入した時の話だが、1個中隊3両の重自走砲ISU-152が配属されることになった。えらく迷惑な話だったよ!私のシャーマンだったら、街道上を時速70キロで突っ走ることができたのに、自走砲はのろのろとしかついてこれない。で、ウィーンでの出来事だが、これについては前に本の中で書いたことがある。街の中に入った後、ドイツ軍が数両のパンターで反撃してきた。パンターというのは重戦車だ。私はISUに、前進してドイツの戦車を射撃するよう命じた。「そら、ぶちかませ」ってね。そしたらぶちかましたよ!ところが、ウィーンの街路は狭く、建物は背が高かった上に、多くの者がISUとパンターの戦いを見ようとして路上にとどまっていたわけだ。で、ISUがものすごいやつをお見舞いすると、パンターは地面の上にへたばって、砲塔も吹っ飛んだ。距離は400か500メートルくらいだったかな。だが、この一発の衝撃で建物のガラスが割れ、上から降ってきたんだ。ウィーンでは多くの窓がステンドグラスで飾られていて、それらがみんな私たちの頭の上に降りかかってきた。今でも後悔しとるよ。何故もっと気をつけなかったのか、ってね!あれで何人が負傷したことか!私たちはまだ頭に戦車帽をかぶっていたからよかったが、それでも腕や肩にはひどい切り傷を受けた。私にとっては初めての市街戦で、苦い教訓だった。私らは当時から「賢者は街には入らない、賢者は街を避けていく」なんて言っていたものだ。だが、この時は街に突入するようはっきりとした命令が出ていたんだけどね。
―ウィーンはひどく破壊されたということでしょうか?
いや、そんなでもない。例えば、ワルシャワなんかとは比べ物にならないよ。私が受けた指令は、基本的には都心部と銀行を占拠せよというものだった。私たちは18トン分の金塊と、ほかにも様々なお金を手に入れた。戦友たちにはからかわれたなあ。「折角だから、1袋くらいかっぱらってくればよかったんじゃねえか!」ってね。私も言い返したよ。「たかだか1袋で、何年も流刑暮しを喰らったんじゃ割に合わんからな」
―燃料の補給はどうされていましたか?各大隊に数台ずつの油槽車が配属されていた。戦いの前には、必ず戦車に給油しなければならない。もしも長距離の襲撃戦や行軍が必要な場合には、戦車の上に予備の燃料タンクを載せたが、戦闘の前には取り外していた。一方、油槽車は大隊補給部から私たちのところへ燃料を運んできた。ちなみに、給油は全ての車がいっぺんにではなく、1台ずつ順番でやっていた。まず1台目が油を入れ終わって空になったら次に2台目、3台目、という具合だ。空っぽになった車はすぐに回れ右をして、旅団補給部まで燃料を補充しに行った。ウクライナでは、私たち戦車部隊が油槽車を牽引しなければならなかった。道がぬかるんでひどい有様だったからね。ルーマニアでは、我が戦車部隊がドイツ軍の前線を突破して後方へ回り込み、逆に敵軍が我々の後方に食い込んだこともあった。それで、私たちはガソリンと灯油を混ぜて、燃料のカクテルを作ったんだ。比率は憶えてないなあ。戦車はこんなカクテルでも走ったが、やはりエンジンは過熱してしまった。
―部隊に「馬なし」[乗機を失ったパイロットや戦車兵などを指す俗語]の戦車兵はいたのでしょうか?彼らは何をしていたのですか?
いないわけがない。ふつう、全人員の3分の1くらいが馬なしだった。彼らは何でもやったよ。修理を手伝ったり、砲弾の積み込みを助けたり、燃料を運んできたり、その他のあらゆる仕事をしていた。
―あなたの部隊には、迷彩塗装を施された戦車はいましたか?
いたことはいたと思うが、はっきりとは憶えていない。いろんなのがあったよ。ただ、冬になったら必ず白く塗ることにはなっていた。白墨を使ったり、ペンキで塗ったりしてね。
―迷彩をするにあたって、許可などは求められていましたか?また、「祖国のために」等々といった文字を戦車に書き入れる時にも許可は要りましたか?
いや、迷彩の許可なんてのはなかったな。それは本人の希望次第で、塗りたければ塗り、塗りたくなければ塗らないという風だった。ただし文字を書く場合には、確か政治将校の同意を得ることになっていたはずだ。あれは一種の宣伝で、政治的な性格を持っていたから。
―ドイツ軍では、迷彩塗装は広く行われていました。あれは実際役に立ったのですか?
うん、役に立ったよ。時には、ものすごく役に立ったと言っていいほどだ!
―それでは、どうして我が軍はあまり迷彩をしなかったのでしょうか?
そりゃ、貧しかったからねえ。私たちのところには、そんなにたくさんの種類のペンキがなかった。保護色のペンキがあれば、それを塗っておしまいだった。というのも、戦車を塗るにはとんでもない量のペンキが要るのだよ!もしも違う色のペンキを手に入れられたら、迷彩をすることも可能だっただろう。それに、他にもやるべき仕事が山ほどあった。修理だとか給油だとか、その他色々な仕事があふれていたんだ。
ドイツ人は、私たちよりは豊かだった。迷彩を導入したばかりでなく、重戦車をセメントでコーティングしていたくらいだ。
その他にも、彼らは自分の戦車に履帯を吊していた。時としてはそれがえらく効果的だったものだよ!砲弾が履帯に当たると滑ってしまうんだ。―戦車に弾が当たった場合、それが装甲を貫通しなくても、乗員は衝撃で脳震盪を起こすものなんでしょうか?
一言で決めつけることはできないね。どこに当たるかで違ってくる。例えば私が砲塔の左の席に座っていたとして、すぐ耳元のところに命中した場合、衝撃は感じるけれども脳震盪を起こしはしない。もしも車体のどこかに当たったのなら、全く音が聞こえない場合もある。何度かそういうことがあった。戦闘が終わってからの話だ。戦車を見ると、装甲の何箇所かがへこみ、まるで熱したナイフでバターをなぞったようになっている。それでも、私には音が聞こえなかったのだ。時には操縦手が下から「左に当たった!」と叫んでくることもある。だが、大きな音はしなかった。もちろん、ISU-152のような怪物が一発喰らわすと、それはよく聞こえたものだよ!敵戦車の砲塔も、乗ってるやつらの頭と一緒に吹き飛ばしてしまう。
もう一言つけ加えておきたいのだが、シャーマンの装甲は柔軟なものだった。我が国のT-34では、命中した砲弾が貫通しなかった場合でも、乗員が負傷することがあった。というのも、装甲の内面の破片が剥がれ飛んで、クルーの手だの眼だのに当たるからだ。シャーマンでは、そんなことは一度もなかった。―最も危険な敵は何でしたか?砲ですか?戦車ですか?それとも飛行機ですか?
最初に1発撃ってくるまでは何だって危険だ。だが全体としては、砲が一番厄介だったな。見つけるのも破壊するのもたいそう難しい。砲兵たちは穴を掘り、砲身が地を這うような形で偽装するから、わずか数センチ突き出た防楯で見つけるしかない。砲が撃ってきたとして、そいつにマズルブレーキがあって埃が舞い上がればもうけものだ!だが、冬だとか雨降りだとかの場合はどうしようもないだろう?
―戦車の中では敵がどこから撃ってきたか分からないのに、跨乗歩兵には見えていたというケースもあったと思います。彼らはどうやって敵のいる方向を指示したのですか?
ある時は砲塔をガンガン叩いたり叫んだりした。またある時はそちらに向かって曵光弾を撃ったり、信号用ロケットを発射したりもした。それから、私たちが攻撃をかける時、戦車長はしょっちゅう砲塔から身を乗り出して外を見たもんだよ。何といっても、ペリスコープや車長用のキューポラでは充分に周りが見えなかったから。
―指揮官や他の戦車とはどのように連絡を取り合っていましたか?
無線を使っていた。シャーマンにはKVとUKVという2種類の無線機があったが、性能は非常に素晴らしかった。KVは上級司令部、旅団との連絡用だった。一方のUKVは中隊や大隊の中で使うためのものだった。クルー同士の意思疎通は、TPUすなわち車内通話機で行った。とても便利だったよ!だが、戦車がやられた場合、戦車兵は何よりも最初にヘッドホンと喉あてマイクを外さなくてはならない。それを忘れて戦車から飛び出そうとしたが最後、首を吊ることになってしまうからね。
(了)
(10.06.16)
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