ドミトリー・ロザー4
―兵士や下士官がお金を受け取ることはありましたか?給料などは支給されていたのでしょうか?
通常の部隊、すなわち親衛隊の称号を持たない部隊に比べると、親衛隊の兵士と曹長以下の下士官の俸給は2倍、将校は1.5倍と定められていた。例えば私んとこの中隊長は800ルーブリもらっておった。私が大隊長になった時の給料は1200ルーブリだったかな、1500ルーブリだったかな、はっきりとは憶えていない。いずれにせよ、私たちは給料を全て手渡されていたのではないよ。お金は全て野戦貯蓄銀行に、それぞれの名前の口座で保管されていた。家族に送金することもできた。つまり、私たちはお金をそのままポケットに入れて持ち歩いていたわけじゃない。国のやり方は賢明だったと思うな。戦場にお金を持っていって一体何になる?
―手持ちのお金では何を買うことができましたか?
例えば、ゴーリキー[現ニージニー・ノヴゴロド]での部隊編成中、我が友コーリャ・アヴェリキエフと一緒に市場へ出かけたことがある。いい男だったが、文字通り最初の戦いで死んじまってなあ!そいつと2人で市場に行って、闇屋がパンを売っているのを見た。1かたまりを手にとったが、闇屋のカバンの中にはもういくつか入っていた。コーリャが「1ついくらだい?」と尋ねると、相手は「斜め3枚だね」と答えた。コーリャは「斜め」というのが何を意味するのか知らなかったから、3ルーブリを出してパンを取ろうとした。闇屋は「おめえさん、頭おかしいのか」なんて言いやがる。コーリャはあっけにとられてね。
「何なんだよ?あんたが斜め3枚って言ったから、3ルーブリ出したんじゃないか!」
「斜め3枚ってのはな、300ルーブリのことなんだよ!」これが闇屋の答えだった。で、コーリャはそいつに言った。
「貴様、何という疫病神だ!こんな闇商売やりやがって、俺たちゃ貴様らのために前線で血を流してんだぞ!」
私たち将校は個人の武器を携帯することが許されていた。コーリャが自分のピストルを取り出すと、闇屋は3ルーブリを持ったまま尻に帆をかけて逃げていった。
俸給以外にも、将校は月に1度の割合で食糧の特配を受けていた。その中にはバター200グラム、乾パン1包み、クッキー1包み、それにチーズも入っていたと思う。ちなみに市場での一件があってから数日後、私たちは特配を受け取った。そこであのパンを縦に切り、バターを塗って、上にチーズを乗っけた。それは豪勢なものだったよ!―特配の食糧はソヴィエト製でしたか、それともアメリカから送られてきたものでしたか?
色々だったね。いつもおんなじってわけじゃない。
―兵士や下士官(MKS)は、負傷した際に何かをもらうということはあったのでしょうか?例えばお金とか、食糧とか、休暇とか、その他の補償はありましたか?
いや、何もなしだ。
―敵の戦車や砲を破壊した時、どのような褒賞が与えられましたか?褒賞については誰かが決めていましたか、それとも何らかの規則があったのですか?敵戦車を破壊した場合、賞の対象となったのはクルー全員ですか、それとも乗員の一部だけですか?
賞金は全員に対して与えられ、それを乗員の間で公平に分けていた。
1944年も半ばの頃、ハンガリーでの話だが、私たちは集会を開き、敵兵器の破壊に対して支払われる賞金をみんなで貯めておくこと、それを戦死した仲間の遺族に送金することを取り決めた。そして戦後に公文書館で働いていた時、かつて自分自身が書いた送金リストを偶然にも見つけたことがある。3000ルーブリとか、5000ルーブリとか、そんな感じで戦友たちの遺族にお金を送っていたんだ。
バラトン地区で私たちの部隊はドイツ軍の背後へ食い込み、敵戦車の行軍縦隊を撃ちまくって19両を破壊した。そのうち11両は重戦車だった。自動車もたくさんあった。全部で29の兵器を殲滅したわけだ。破壊した戦車1両につき1000ルーブリずつもらったよ。
私たちの旅団はナロ・フォミンスク[モスクワ郊外の町]で編成され、補充兵もモスクワ徴兵司令部から送られてきたから、部隊の戦車兵の中にはモスクワっ子がすごく多かった。だから、私は戦後になって軍事アカデミーへ通い出した時、できる限り戦死者の遺族に会おうと努力した。勿論、そういう人たちと話をするのは辛かったよ。でも、やらなければいけないことだった。何故って、私は彼らの息子や父親、兄弟がどうやって死んだかを知る人間だったからね。それで、たくさんの遺族と会い、状況はこれこれでしたと話をして、日付を教えた。向こうも色々と思い出話をしたりして、その日は他のことが手につかなかったものだ。ともあれ、そういう次第で私たちはお金を受け取っていた。時には金じゃなく、戦利品を小包にして送ることもあったな。―つまり、撃破した戦車は乗員1人1人の個人記録としてとどめられたわけですね?
そうだよ。
―敵軍の損害は誰が記録していたのですか?
大隊や中隊の本部、それに隊長たちだ。技術部長も数えていたっけ。それ以外に、私たちのところでは破損車両の後送チームが編成されていた。後方にいた連中とごっちゃにしないでくれよ!チームは3~5人のメンバーと牽引車1台からなり、技術部長の指揮下にあった。彼らは戦闘部隊に続いて進み、敵味方問わず全ての損害を記録していたんだ。
―誰がどのような戦車もしくは砲を破壊したか、どうやって認定していたのですか?もしも複数のクルーが同じドイツ戦車を倒したと主張した場合はどうなりましたか?
たまにはだが、そのようなケースもあった。そうなると両方のクルーに記録をつけ、「共同撃破」と追記するのが一般的だった。報告書に載せる記録は1両分だけになるがね。一方、賞金は均等に分けられた。各車500ルーブリずつもらうわけだ。
―戦闘の最中に戦車が傷ついた場合、乗員はどのような行動をとるのですか?
戦車を救い、修理しようと努める。もしも乗員だけの力では修理できない場合、戦車の周りで防御態勢につく。戦車の放棄は厳しく禁じられていた。さっきも話した通り、それぞれの大隊にスメルシが配属されていて、もしも戦車を放棄でもしたら大変なことになる!私たちの部隊で数回あったケースだが、狡いやつらが攻撃の前に戦車の履帯を緩めおったのだ。だが、我々のスメルシはこれに気づき、彼らを逮捕した。そりゃ勿論、あからさまな怯懦というやつだからな!
―つまり、もしも乗員が不注意で履帯の手入れを怠っていた場合でも、明白な怯懦として告発される可能性があったのですね?
そう、あった。自分の戦車はしっかり管理する必要がある。さもないと、ちょっとしたことで懲罰大隊送りになりかねん。だから、戦いの前には毎度、履帯が緩んでいないかどうか確認するのが戦車長と中隊長の義務だった。
―同士討ちのケースはありましたか?
戦争というのはね、あらゆることが起こり得るものなんだよ。ユフノフの西で戦っていた時にそんな事件があったな。我が旅団はその地区に進出し、森の中で停止した。一方、私たちの前方3キロほどのところでは戦いが行われていた。ドイツ軍が何とかという小さな川沿いに橋頭堡を確保し、それを広げようとしていたのだ。軍団司令部は、私たちの隣にいた旅団に命令を出し、ドイツ軍に反撃するためマティルダ中隊を出動させた。敵は戦車を持っていなかったから、橋頭堡は首尾よく排除され、ドイツ軍は川を渡り退却していった。それで、マティルダ隊も戦いを終えて戻ってきた。一方これより少し先に、司令部は敵が突破した場合に備えて戦車駆逐大隊を派遣し、展開させていた。部隊は私たちより300メートルほど先で陣を布き、壕を掘った。砲兵たちは友軍の、しかも外国製の戦車がいるなどと知らなかったから、マティルダを見るや否や砲撃を始めたんだ。そして3両か4両がやられてしまった。残りの戦車は向きを変え、急いで姿を隠した。砲兵の大隊長は破壊された戦車の1両によじ登り、中を覗き込むと、そこには友軍の戦車兵が横たわっていて、1人は胸に勲章までつけているじゃないか。砲兵は頭を抱えてしまったよ。
もう1つの出来事は、第1ウクライナ戦線と第2ウクライナ戦線がズヴェニゴロドクで合流し、ドイツ軍のコルスニ・シェフチェンコ集団を包囲した時に起きた。南から第5軍の「34」[T-34のこと]が、北からは私たちのシャーマンが接近していた。「34」に乗っていた連中は、こちらからシャーマンが行くなどと警告されていなかったんだ。それで、彼らは大隊長ニコライ・ニコラエヴィチ・マスリュコフの乗る戦車を撃って燃え上がらせ、大隊長は命を失った。―彼らはどのような処罰を受けましたか?
知らないね。おそらく、誰かが罰を喰らったのだと思う。全てのアクシデントは後方の機関によって究明されていた。
―戦いの時、歩兵とはどのように連携を取っていたのですか?
戦車旅団は、定数それぞれ21両からなる戦車大隊が3個と、短機関銃を持った歩兵の1個大隊で成り立っていた。歩兵大隊は3個中隊編成で、つまりは各戦車大隊ごとに1個中隊の歩兵が割り振られていたわけだ。もっとも、私たちの旅団が3個大隊を持っていたのは1943年末から1944年初頭までの一時期だけで、それ以外は2個大隊で戦った。短機関銃兵たちとは、それこそ兄弟みたいなものだったよ。行軍の時には、彼らは私たちの戦車で運ばれた。戦車の上で暖まり、持ち物を乾かし、睡眠を取ったんだ。私たちがどこかに到着し、停止したとする。戦車兵は寝に行くが、短機関銃兵は私たちと戦車を守ってくれた。時が経つにつれて、戦車の乗員になる歩兵もたくさんいた。最初は装填手、その後は通信手になるといった具合でね。戦利品も公平に分けていたよ。彼らは私たちに、私たちは彼らに、それぞれ与え合ったんだ。だから彼らは、普通の歩兵よりは楽に戦争をしていた。
戦闘の時には、歩兵たちは砲撃が始まるまでは戦車の上に乗っている。ドイツ軍が私たちの戦車に向けて最初の一発を放つや否や、彼らはエンドウ豆をばらまいたかのように飛び降り、戦車の後に続いて走った。その際には、しばしば戦車の装甲で敵の機関銃や迫撃砲の弾を避けていた。―つまり、戦車の動きとスピードは制限されるわけですね。さもなければ、友軍の歩兵を踏み潰したり、あるいは歩兵が戦車から遅れたりしてしまったでしょうから。
そんなことはないよ。私たちは彼らを振り返ったりはしなかった。戦車が左右に向きを変えると、歩兵もこれに続いて動くものだ。問題は何もなかった。もしも戦車がやられてしまえば、歩兵にとってはより大変なことになる。だから、彼らが私たちを追っかけて走る方がいいのだ。
―攻撃の時に戦車の速度が限られることはありましたか?あったとすれば、それは何によるものでしたか?
もちろんあったとも!撃たなきゃならないじゃないか!
―射撃は一旦停止して行いましたか、それとも走りながら撃ったのでしょうか?
いろんなやり方があった。もしも走りながら射撃するとなると、速度が12キロを超えることはなかった。だが、私たちは滅多に走行中の射撃をやらなかったな。敵の戦列にパニックを引き起こそうとする時くらいだ。基本的には、言うまでもなく止まって撃っていた。射撃位置に走り込んで、数秒間停止して、撃って、再び前進するという具合だよ。
(10.06.16)
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