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     第139回例会報告

               

                 『淀川を渡る赤川鉄橋ウォーク

 

       2013年7月21日(日)                                          

                                                                            参加者 6名 男性:3 女性:3

☆コース概要 距離約10キロ

阪急十三駅~十三大橋~淀川河川敷~新淀川大橋(新御堂筋)~JR東海道線~水道記念館(閉館中)~長柄橋~阪急千里線

~淀川大堰(毛馬閘門)~赤川鉄橋(仮橋)~城北公園~千人塚~平太の渡跡~豊里大橋~地下鉄守口駅

                                                            

淀川を渡る~赤川鉄橋ウォーク』レポート

721日、朝から好天気に恵まれ、9時過ぎで気温はもう30度近くまで急上昇。

定刻9:30に参加予定者が勢揃い。(と言っても6名だが・・・)駅前は混雑するので早速スタート。

十三駅西口から南下、ガードをくぐって駅の東側「十三駅前通」商店街の入り口に出て府道16号線(通称:淀川通)を横断して、

淀川河川敷に向かう。

       

            阪急十三駅                 十三駅前通商店街入り口アーケード

 

淀川右岸の河川敷に入り、阪急電車のガード下の日陰でストレッチ。汗がじとーっと背中を伝う。

阪急電鉄株式会社は、大阪梅田と神戸・宝塚・京都を結ぶ大手私鉄で営業線路は143.6㎞に及ぶ。

また、「宝塚歌劇団」を運営していることでも知られている。

創業は、明治40年(1907)に設立された「箕面有馬電気鉄道」が明治43年に現在の宝塚線・箕面線にあたる梅田~宝塚間、石橋~箕面間

を開業したことによる。

創業者の小林一三(いちぞう)は経営安定のため沿線開発に力を入れ、住宅分譲、宝塚温泉、宝塚歌唱隊(現在の宝塚歌劇団)などの事業

を多角的に展開した。

大正7年(1918)阪神間の輸送にも参入、社名を「阪神急行電鉄」に改称。現在まで続く略称の「阪急」はこれに由来している。

阪神間に参入したことで、以後既に阪神間で都市間連絡電車を営業していた「阪神電気鉄道」とは激しいライバル関係となった。

平成19年に創業100年、同22年に開業100年を迎え、宝塚歌劇団も今年100周年を迎える。

  

         ガード下でストレッチ                     阪急電車

 

堤防の斜面にはあっちこっちで花火大会の準備だろうか、ネットフェンスが張り巡らされている。

阪急電車のすぐ下流側に十三大橋がある。

かつて淀川の下流は、大川・中津川・神崎川に分流していた。ここ中津川は中国地方への交通の要衝に当たることから古くから

橋があったと言われている。

慶長10年(1605)の絵図には「渡し」が描かれている。近年の架橋は、明治11年(1878)当地成小路村村民による有料の十三橋

(木橋、橋長約155m、幅員3.6m)である。

明治18年の淀川洪水を契機に現在の淀川が開削され、新たに明治42年(1909)5月、十三大橋(鉄橋、橋長683.2m、幅員5.5m)

と同時に中津運河には十三小橋も架けられた。

淀川以北を市内に編入し拡張を続ける大阪市は、昭和7年に道路の拡幅と共に現在見られる十三大橋に架け替えた。

中央には市電が敷設されるよう計画されたアーチ橋で、大橋は橋長681.2m、小橋は34.2m、幅員はそれぞれ20mである。

 

十三大橋から上流に向かって歩くと対岸の梅田界隈の高層ビル群がよく見える。中でもその特徴的なデザインの梅田スカイビル

が目に付く。

梅田スカイビルは平成5年(19933月に完成した、大阪市北区大淀中の新梅田シティ内にある、地上40階、地下2階の高層ビル

である。設計は原広司。その独特の形状により大阪のランドマーク的な観光名所の一つとなっている。

タワーイースト(東棟)とタワーウェスト(西棟)の2棟で構成され、その頂部を連結するように円形の空中庭園展望台を設置

した構造が特徴である。

この空中庭園は地上で組み立てられワイヤーロープで吊上げる「リストアップ工法」で施工され建築業界の話題を呼んだ。

超高層ビルの展望台としては珍しく屋上に設置され、360度の視界と全天候と風を感じながら眺められる展望台は大変人気があり、

開業15年で入場者数1,000万人を突破した。

空中庭園展望台には「空中庭園大明神」を祀る社がある。ご利益は恋愛成就。ロマンチックな夜景と相まって、若いカップルに

人気がある。毎年クリスマスには大きなツリーが飾られ、グリューワインやサンドイッチなど欧米の出店が出て賑わう。

  

            十三大橋                       梅田スカイビル

 

河川敷の芝生の上を上流に向かって少し歩くと、淀川右岸の波打ち際に、石と材木で作られた亀が2匹いる。

何時、誰が、何のために作ったのかは不明であるが、妙に親しみが沸く。

甲羅は石や煉瓦をセメントで固め、頭と前足は木で出来ている。リアリティがあって、今にも動き出しそう。

護岸工事の合間にでも作ったのだろうか。作者の洒落っ気に心が和む。

  

        河川敷の芝生の上を歩く                     淀川の亀?

 

更に上流に行くと水辺の施設や遊具がある「河川敷公園」がある。

夏休みに入って最初の日曜日とあって、家族連れや学童のグループで賑わっている。他には吹奏楽の練習や、若い女性いっぱい

に囲まれた男性一人の何かのサークル(羨ましい~)など色々。

バーベキューの準備をする者、テントを張る者、それぞれ楽しそうである。傍らに置いてある大量のビールには喉が鳴る。

淀川河川公園は淀川の河川敷に広がる公園で、上流は大山崎地区から下流は海老江地区まで、全21地区からなる、財団法人河川

 

環境管理財団が運営する公園である。

広大な敷地には公園施設の他、野球場・テニスコート・陸上トラック・サッカー/ラグビー場・ゲートボール・パターゴルフ・

バーベキュー施設などの運動施設や自然豊かな地区もあり、年間540何人以上の人々が利用している。

運動施設を利用するには事前の利用者登録をして淀川河川公園施設予約システム「よどいこ!」で申し込めば誰でも利用できる。

  

         梅田高層ビル群                        河川敷公園 

  

                          童心に還って  

 

河川敷公園でしばらく童心に還って遊んだ後、河川敷を歩く。

しばらく行くと、新御堂筋となぜか上を通っている地下鉄の下をくぐる。

  

                         河川敷を歩く

 

新御堂筋の先にJR東海道本線が通っている。JR東海道本線は、東京駅から横浜・静岡・名古屋・京都・大阪などの太平洋側の各

都市を経て神戸駅までを結ぶ全長589.5㎞の鉄道路線である。

明治5年(1872)新橋~横浜間が日本最初の鉄道として開業して以来、度重なる路線延伸を経て明治22年(1889)新橋~神戸間が

全線開通した。

東京~熱海間を東海道線(JR東日本)、熱海~豊橋間を東海道線(静岡地区)、豊橋~米原間を東海道線(名古屋地区)、

米原~京都間を琵琶湖線、京都~大阪間を京都線、大阪~神戸間を神戸線と細かく分けて通称で呼んでいる。

 

JRの先に野球のグランドがあり、少年野球の試合が行われている。バックネットに「ほっかほっか亭」の横断幕が張ってある。

協賛しているのであろう、お弁当は「ほっかほっか亭」で・・・!

  

         JR東海道線(京都線)                    少年野球の試合

 

野球のグランドから堤防に上がる。「水道記念館」を見るためである。

水道記念館は平成7年(1995)大阪市水道局が水道通水100周年を記念して、東淀川区の「柴島(くにじま)浄水場」の敷地内に

開館にした。

建物は、大正3年(1914)から昭和61年(1986)まで大阪市の主力ポンプ場として活用していた、柴島浄水場「旧第1配水ポンプ場」

を保存活用したもので、赤レンガと御影石との調和が美しい景観を創り出している建物で、平成11年に国の有形登録文化財に登録

されている。

大阪市の水道の歴史について楽しみながら学ぶことができる科学館で、琵琶湖・淀川水系の淡水魚、貝類などの飼育もしている。

貝や両生類、水草など計142種、9,274個体を飼育し、淡水魚の水族館としては全国有数の規模で、中には天然記念物のイタセン

 

パラや、絶滅危惧種のアユモドキなどの希少種も飼育している。開館以来累計入場者数は100万人を超えた。

一方、橋下徹大阪市長は“水道事業の府市統合”を主張し、魚の飼育について「水道局のやることなのか?水道局単体の事業と

 

してやるものではない」として水族館を休館させコストの削減を行った。

 

また、水道記念館の運営には、多額の経費を必要とすることから、事業の見直し費用効果の精査を行うため、平成24年4月1日

 

から一時休館している。

  

           堤防上で                     大阪市水道局水道記念館

 

堤防の上、長柄橋の陰で休憩。

長柄橋は北区本庄東と東淀川区柴島を結ぶ、全長656.4m、幅員20mのアーチ橋で、浪速の名橋50選に選定されれている。

長柄橋の歴史は古く、飛鳥時代の弘仁3年(812)に架設されたと言われている。架設工事は非常な難工事で「※長柄の人柱伝説」

でも知られる橋である。

現在の橋は昭和58年(1983)にできたもので、中央部がニールセンローゼ形式の美しいアーチ橋である。

※長柄の人柱伝説

推古天皇の時代(飛鳥時代)、古代の長柄橋の架橋は難工事で、人柱を捧げなければならないという状況になった。

 

そのことを垂水(現:吹田市)の長者・巌氏(いわうじ)に相談したところ、巌氏は「褌(はかま)に継ぎのある人を人柱にしな

 

さい」と答えた。しかし皮肉にも巌氏自身が継ぎのある褌をはいていたため、巌氏が人柱になった。

 

北河内に嫁いでいた巌氏の一人娘・照日(てるひ)は父が人柱になったショックで口がきけなくなったため実家に帰されること

 

になった。夫と共に故郷に向かう途中、一羽の雉が声を上げて飛び立ったので、これを夫が射止めた。

 

その様子を見た照日は「ものいわじ父は長柄の人柱、鳴かずば雉も射られざらまし」と詠んだという。

 

妻が口をきけるようになったことを喜んだ夫は、雉を手厚く葬って北河内に引き返し、仲良く暮らしたという。

長柄の人柱伝説は「長柄の人柱」や「雉も鳴かずば打たれまい」という“口は災いのもと”という意味のことわざの由来とされ

ている。

  

         長柄橋の陰で休憩                        長柄橋

 

長柄橋の上流に「阪急電車千里線」が通っている。

阪急千里線は、北区天神橋筋六丁目駅から吹田市の北千里駅までを結ぶ阪急電鉄の鉄道路線である。

千里丘陵に広がる千里ニュータウンの通勤・通学路線であり、大阪キタ・ミナミの両方へ乗り換えなしで移動できることも大きな

特徴である。

大阪市営地下鉄堺筋線と相互直通運転を行っており、乗り入れ先の終点、天下茶屋駅では南海電車との乗り換えができる。

 

阪急電車千里線の少し上流に「淀川大堰」がある。

淀川大堰は都島区毛馬4丁目と東淀川区柴島2丁目にまたがる、淀川本流に建設された堰である。

 

国交省と水資源機構が共同で管理を行う可動堰で、昭和39年(1964)に完成した長柄可動堰を改造して昭和58年(1983)に完成

 

した淀川最下流にある河川施設である。海水の逆流防止と、大阪府と兵庫県への上水道と工業用水の供給を目的としている。

 

堰の全長は330m、中央に55mの主ゲートが4門と、それをはさむように両側に40mの調節ゲートが2門ある。普段の操作は調節

 

ゲートで行い、洪水の時は主ゲートも操作する。

 

淀川大堰の左岸側上流部に「毛馬閘門」がある。毛馬閘門(水門)は淀川と旧淀川(大川)を隔てる水門である。

 

大川に流れる水量を調整する役目と同時に、淀川と大川の水位差により困難になる船舶の通過をスムーズにさせるための設備で

 

ある閘門及び大川の水を強制排水するための機能を備えている。

  

        阪急千里線の下を通る                       淀川大堰

 

淀川大堰を過ぎて、左手ネットの向こう側に河川敷のショートコース「淀川ゴルフクラブ」を見ながら歩く。

淀川ゴルフクラブを過ぎた辺りから舗装された道路が続く。

  

                          舗装道路を歩く

 

しばらく歩くと今日のお目当て「赤川鉄橋」が見えてくる。赤川鉄橋の少し手前で堤防の上へ上がる。

赤川鉄橋をバックに写真を一枚。

  

           堤防の上へ上がる                  赤川鉄橋をバックに

 

赤川鉄橋は昭和4年(1929)に完成した全長610m、幅8.5m、18連のワーレントラス形式の鉄道橋である。

複線の幅を持っているが、現在に至るまで下流の単線で城東貨物線が運行している。

余った上流側のスペースを大阪市が借り受け、市道扱いにしている。

歩行者専用橋として木造の「赤川仮橋」が架かり、地域住民の生活道路となっている。

2000年に入ってから床部分を鉄製に改築するなどして地域住民から「歩きやすくなった」と好評価を受けていたが、平成30年の

大阪東線開業に伴い、平成25年秋頃から閉鎖されることになった。

本橋を含む城東貨物線は複電化され、一つの橋に鉄道橋と歩道橋の二面を併せ持つ珍しい風景もなくなる予定である。

閉鎖後は代替の歩道橋の架設予定もなく上流930m地点の菅原城北大橋に迂回することになり、地域住民の足に不便を強いること

になる。橋上からは淀川に生息する野鳥や葦(よし)が茂るワンドの様子が、川岸からとは別の角度から観察できるなど、独特の

景色が楽しめる。

  

                          赤川仮橋で

 

川の上は風があって涼しい。全長610mの赤川仮橋をゆっくり時間をかけて景色を楽しみながら歩いていると、都島側から機関車

がゴトゴトと音を立てて走ってきた。一日上下併せて8本しかない列車に遭遇できたかと喜んでいると、どうも貨物列車ではなく

機関車だけの回送運転のようである。それでも数少ない機関車が見られてラッキー!ではある。

  

           幸運にも機関車が                     鉄道橋と歩道橋

 

橋を渡り淀川左岸に出ると、東淀川区から都島区に入る。また、赤川鉄橋のすぐ上流側は旭区になる。

この辺りの河川敷には数多くの“ワンド”がある。

ワンド(湾処)は、川の本流とつながっているが、河川構造物などに囲まれて池のようになっている地形のことである。

 

魚類などの水生生物に安定した棲家を与えるとともに、様々な植生が繁殖する場ともなっている。

 

近年では河川にビオトープ(生物生息空間)を形成する手段として、人工的に作られるケースが増えている。

ワンドは、淀川の改修工事によって生まれたものであり、もともと局地的な用語であった。

明治期に行われた淀川の改修工事では、蒸気船が遡行しやすいように、あえて水路を曲折させて流れを緩める工事が行われた。

水路が曲がった部分は水圧の影響を受けやすいので、岸から川に向かって垂直に水制と呼ばれる河川構造物を設置した。

やがてこの水制に囲まれたところに土砂が溜まり、その上に水際を好む植生が繁殖し、現在のワンドの元が形作られた。

ワンドは水流が穏やかなので、淡水魚の生息に適しており、水生植物が繁殖するところは、魚の産卵や稚魚が暮らす絶好の場所

となっている。水の流れや深さなどが微妙に異なるため、それぞれのワンドは独自の生態系を形成している。

淀川のワンドが天然記念物の希少種イタセンパラの生息地として注目されるようになると、河川に生物多様性をもたらす要素の

一つとして、河川改修にあわせてワンドを整備するケースが増えている。

ワンドでは、釣り人がビーチパラソルの下で釣り糸を垂れてたり、子ども連れの夫婦が網とバケツを持って水辺で遊んだり・・・。

中にはパンツ一つで甲羅干しする人も・・・。

  

         淀川左岸(旭区)を歩く                  淀川左岸のワンド

 

淀川左岸の堤防上をしばらく歩くと優雅な姿の斜張橋「菅原城北大橋」が見えてくる。

菅原城北大橋は東淀川区と旭区を結ぶ有料の橋で、上下流にある豊里大橋と長柄橋の慢性的な渋滞を解消するため、その中間に

都市計画道路事業として架けられた橋である。

形式は、3径間連続斜張橋、全長は1,037m、幅員25.5mで、平成元年(1989)に5年の歳月を経て完成した。

大阪市で最初に有料道路事業を取り入れて建設された橋で、普通車の通行料が100円であることから百円橋とも呼ばれている。

橋の形式は上流に架かる豊橋大橋と同じ斜張橋であるが、数本のケーブルで力強く橋桁を支える豊橋大橋の男性的な印象と比べ、

数十本のケーブルに力を分散して支える菅原城北大橋の印象は優美で女性的と言える。

 

その橋のたもとに大小さまざまな球状の石が置いてある。公園のモニュメントだろうが、何を意味するのかまったくわからない。

思い思いのポーズで「ハイポーズ!」

  

          菅原城北大橋                        球状の石

 

石の隣に「千人つか」と書かれた石碑と小さな社がある。

昭和20年(194567日、119分~1228分、後に言う第3回大阪大空襲で大阪を攻撃したB29409機。

 

着弾点の1つは都島区高倉町であった。また、砲兵工廠に落とす予定の爆弾も都島区を中心とした大阪市北東部に投下され、城北

 

公園や淀川河川敷に非難した人々をP51の機銃掃射が襲い、悲劇となった。

 

大阪市内で数万人の死者を出したが、その内身元不明の人、千数百人の遺体は城北公園裏の淀川堤に集められ荼毘に付された。

このときの犠牲者の冥福を祈り、東浦栄二郎氏が庭石に「千人つか」と刻み、現地に置いたが、30有余年が過ぎ、この塚の謂れ

も忘れ去られてしまっていたので、昭和50年に、後世正亮氏が由来を刻し、ここに建立した。

千人塚由来記

『日本未曾有の大敗戦の昭和2067日 残存せる大阪を壊滅せる大空襲により戦災死者数万人中身元不詳の千数百の遺体を此処

に集め疎開家屋の廃材を以って荼毘に付す。

鬼哭啾々(きこくしゅうしゅう)たる黒煙天に柱し、三日三晩に及ぶ悉く市民の奉仕協力による。遺骨は其の侭土中にして此処に葬る

訴うるに声無き無辜(むこ)の国民の痛恨の空しく土に埋もれ草に掩(おお)われて世に忘れ去られんを憂いて巷間(ちまた)の義人

東浦栄二郎氏庭石に唯千人つかと刻して此処に置く。進駐軍治下と近畿地建の管理地なるを以ってなり

爾来三十有星霜香華(せいそうこうか)絶ゆる事なきも世人この塚の謂れを知らず茲に其の由来を刻しこの地下に眠る無無縁の霊位

の冥福を祈り国家安泰と軍官専横苛政(ぐんかんせんおうかせい)による国民塗炭(とたん)の痛恨と犠牲の再現を永く阻止し世界人類

の和平を祈願する日本国民の総意を世に問うものなり

                                             198055日 後世正亮』

 

千人つかから堤防を下りると広大な「城北公園」が広がっている。

城北公園は大阪市旭区にある、旧淀川の河川敷を利用して造られた公園である。

遠くからでもよくわかる背高ノッポのメタセコイアをはじめ、樹木が多く市民の憩いの場として親しまれている。

開園は昭和9年5月20日。9.5haの広大な園内の真ん中には大きな池があり、池をめぐる桜並木の散策路や梅林、遊具の丘などが

設けられ、休日をのんびりと過ごす家族連れやグループで賑わっている。

昭和39年に開設された回遊式の花菖蒲園は1.3haで、約250種の花菖蒲が栽培されている。

花菖蒲園の開園期間は毎年5月下旬~6月上旬。入園料:200円。大阪市在住の65歳以上無料。

  

            千人つか                     城北公園のメタセコイア

 

池のほとりの藤棚で昼食。池を渡って吹いてくる風が涼しい。

  

                           昼食風景

 

昼食後、池を巡って公園内を散策。公園のど真ん中を、菅原城北大橋のコンクリートアーチ橋部分が貫いている。

公園内の有効利用のためか、アーチをかけて地上からの柱を減らしている。アーチの曲線が美しい。

地面には無数のセミの穴が空いている。「セミの穴がいっぱい」と言うと「エ~!なにこれ?セミの穴?初めて見たワ~!」だって。

木々の間では熊ゼミがけたたましく鳴いている。今年のセミは異常に多い。コニタンに手掴みで捕まえられるどんくさいセミも・・・。

池を一周廻って再び堤防上へ。

  

        菅原城北大橋のアーチ橋                  セミ時雨の中を歩く

  

         池のほとりで一休み                      再び堤防上

 

菅原城北大橋の下をくぐって、堤防上を上流へ歩く。しばらく歩くと、豊里大橋の手前に「平太の渡し跡」の石碑が建っている。

ここは去年「東海道57次守口宿W」で歩いたところ。

平太の渡しは、延宝4年(1678)頃、左岸の今市(現在の大阪市旭区)と右岸の平太を結ぶ個人経営の渡し舟として発足した。

当時大坂の渡し舟は民営が一般的で、船頭は世襲の家業とされていた。その後個人経営の許可期限切れを契機に府営となった。

昭和30年代まで手漕ぎの和舟が用いられ、大きな淀川を渡り切るのに20分も要した。

利用者の増加に伴い昭和35年に21人乗りの発動機船が投入された。

1日に3,000人の乗客と600台の自転車を運んだとされ、ポンポン船は川面にエンジン音を響かせながら市民の足として活躍した。

 

平太の渡し跡の上流に「豊里大橋」が架かっている。

豊里大橋は大阪市東淀川区豊里と旭区太子橋とを結ぶ、全長561m、幅員19.5mの斜張橋で国道479号線が通っている。

昭和45年、日本万国博覧会の関連道路として整備された。当時は大阪では初めての斜張橋で、中央径間216mは日本一を誇って

いたが、5年後には末広大橋(徳島市)にその座を譲る。

因みに現在の斜張橋日本一は、しまなみ海道の「多々羅大橋」中央径間890mである。

なお豊里大橋の下には地下鉄今里線が通っている。

  

         平太の渡し跡の碑                       豊里大橋

 

堤防を歩いていると所々に四角い石柱が立っている。河口からの距離が書かれた表示柱で、側面には小学生が書いたと思われる

「淀川」の文字が刻まれ、足元にネームプレートが埋め込まれている。

  

            淀川左岸堤防                      距離表示柱

 

太子橋野球場付近から堤防を降りて、住宅地を歩く。

  

          堤防を降りる                       住宅地を歩く

 

狭いバス通りを10分ほど歩いて、地下鉄守口駅にゴール。

地下鉄で梅田へ出て、反省会。

  

          地下鉄守口駅                       梅田で反省会?

 

お疲れさまでした。

真夏の太陽をたっぷり浴びて、こんがりと日焼けした10キロでした。

 

byブー長

 

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