↑桜咲き乱れる早春の伊東(静岡県伊東市)

豆刕伊東
Tales Of Old Ancestors

●考察
唐突ではあるが、私の先祖は伊東祐親(いとうすけちか)と言われている。
こういう見解をホームページに載せたところ予想を上回る、多くの方々から、反論や貴重な意見を頂いた。
ある方から頂いたメールには、伊東氏の直系について「平氏が没落するのに呼応するように、伊豆から伊勢(平氏発祥の地)に下り、瀬戸内沿いに備後の守名代などを勤め大友氏に使え、1500年頃九州宗像大宮司に使え、訳あって、先祖の出生地伊豆を名乗るようになり伊東から伊豆と名のり江戸時代に赤間宿で大庄屋を勤め、つくり酒屋農業を専むとなっている。」とのご指摘を頂いた。

私がこのことに関して、知るところは「諏訪家系類項」からしかないのが現状である。
「諏訪家系類項」の家系考証資料には次のようにある。

「天津兒屋根命参拾九代參議藤原房前大臣五代後裔従五位下工藤伊豆守藤原憲是工藤氏出遠津祖也
其子伊豆守時理其子駿河守時信其子武者所-家次-良継次良-良兼三良-根田式部
(武者所より)-祐家-豆刕伊藤祐親-豆刕伊藤祖」
(諏訪家系類項・家系考証資料より)


天津兒屋根命(あめのこやねのみこと)は、藤原氏(中臣氏)の祖と言われる、古事記などに登場する神である。
その後、藤原氏の系図が述べられ、工藤氏の祖となった工藤爲憲(くどうためのり)について記述されている。爲憲の父は維幾(これちか)で母は平高望の娘であった。
関東に下向した、藤原維幾、爲憲父子は「平將門の乱」を平定。その後、遠江守に任じられ、合わせて木工助に任ぜられた。これがどうやら「工藤」という名の由縁らしい。

家系は爲憲(遠江守)-時理(遠江守)-時信-維永-維景(駿河守)-維職(伊豆押領使)-維次(狩野九郎)-家次(入道寂心)-祐家-祐親(「系図纂要・藤氏岡部 吉川 伊東 河津」による)と続く。
若干「諏訪家系類項」と「系図纂要」には誤差が見られる。「諏訪家系類項」には、爲憲の代で、すでに伊豆守となっているが、「系図纂要」では、維職の代で「伊豆押領使」となっている。


↑最誓寺にある「伊東家墓碑」(静岡県伊東市)

楠美鐵二著「工藤物語」によると、『豆州誌稿』内に「維景はじめ駿河守たり、任期満ちて伊豆国狩野に来住し狩野を族とす。」との記述を指摘している。
と、いった具合に、果たしていつ頃、工藤氏が伊豆に居を定めたのか・・・・はっきりはしない。


↑伊東市の館があった「物見塚公園」(静岡県伊東市)

●伊東祐親
伊東祐親は伊東氏の中でも最も著名な人物であろう。祐親の父は伊東祐家であったが、祐家は早くに亡くなってしまい家の実権は、祐親の祖父であり、祐家の父、寂心(家次)が握っていた。
寂心は年老いた後に妾に産ませた、祐継を後継にしようとしていた。嫡孫であるにも関わらず、祐親は河津荘に追いやられた。
祐親は惨めな、生活を強いられたが、偶然にも祐継は卷猟の帰りに、発病して伏せてしまった。その後、祐継は嫡男、金石丸(後の工藤祐経)のことを祐親に託してあっけなく死んでしまった。
そして、伊東祐親は金石丸の後見という名目のもと、伊東の主に復帰した。金石丸は、元服後、工藤祐経と名前を変えて、祐親によって京の都に遊学に出された。
伊東の実権は祐親が掌握したのである。


↑伊東祐親公銅像(静岡県伊東市)

「平家にあらずは人にあらず」

祐親の活躍した時代は平家の全盛期であった。摂関家である藤原氏の没落、院政の台頭の混乱期に「保元・平治の乱」に乗じて天下を取ったのが、平清盛であった。
伊東祐親は平家の旗の下で領地を保証してもらい、伊豆国地頭としての地位を確立していた。清盛は、平治の乱の謀反人、源義朝の遺児、頼朝を祐親のもとに預けた。
これが俗に言う、頼朝伊豆配流である。1160年(永暦元年)のことであった。
頼朝は謀反人ではあったが、祐親との関係も良好で屋敷の外に出ることを良しとするなど、流人とは程遠い生活を送り、多くのことを許されていた。

この頃、伊東祐親と工藤祐経は所領や家督の問題で争っていた。祐経は自分が伊東の惣領(祐継の子)であり、祐親が自分の後見人であることを知ってしまったのである。

「祐親殿は伊東の地が欲しい為に、自分を京に追い出したのだ・・・」

祐経の胸に疑心が立ち込めた。祐経はこの頃、平重盛(小松殿)のもとで寵愛されており、都での評判も高かった。
「訴訟を起こそう。」と考えた祐経は奉行所の訴訟を起こしたのであった。祐親はこれに対して多大な賄賂を奉行所に送り、京に出頭した。
奉行所は正当性があるのは、祐経の方であったが、祐親からの賄賂もあったため判断に迷った挙句に「伊東の所領は半分ずつ治めよ。」との判断を下した。

祐親は内心は受け入れられなかったが、賄賂の効果があったことに感謝して、素直にこれを受け入れた。だが、祐経はどうにも、この判決を受け入れられない。
工藤祐経は祐親に対して、謀反を企てるが、このことが、祐親の耳に入り、祐親は激怒して、祐経のもとに嫁がせていた、娘を離縁させ、伊東に祐経を寄せ付けなかった。

祐親は頼朝や、周辺の国人たちを招いて大規模な卷狩を行なった。この記述は「曾我物語」に詳しいのだが、七日間続いたと言われている。この最中、祐親の嫡男、河津祐泰(かわづすけやす)の腰のあたりを一本の矢が射抜いた。祐泰は絶命した。この矢は、工藤祐経が伊東祐親を殺害しようと放たせた矢であったが、誤って祐泰を射抜いたのであった。(余談ではあるが、祐泰の二人の遺児は、後年になって富士裾野で工藤祐経を討ち取り父、祐泰の仇を討った。これが世に言う「富士裾野の仇討」である。)
祐泰の死で悲しみにくれる祐親のもとに、ここである事件が起きた。祐親在京の折に頼朝は祐親の娘、八重姫との間に子供を作ってしまったのであった。


↑頼朝と八重姫が愛を語らった「音無の森」(静岡県伊東市音無神社)

これに激怒した祐親は平家への聞こえもあったために孫である八重の子を殺害した。
頼朝は祐親に追われ命からがら韮山(現・静岡県伊豆の国市)の北条時政の屋形に逃げ込んだ。
北条時政は伊豆国の在庁官人で正室が、祐親の娘であった。時政の仲介もあってか、祐親と頼朝はその後、和睦をした。

●石橋山の合戦
1180年(治承四年)宇治において、以仁王が挙兵したのを切掛けに、源頼朝は伊豆国目代、山木兼隆を殺害して平家に対して反旗を翻した。
祐親はかねてよりの反目から反頼朝の行動を取った。その他の平家方の顔ぶれは大庭景親俣野景久梶原景時といった面々であった。しかしながら伊東氏の親戚にあたる狩野茂光宇佐美祐茂らは、頼朝方に味方した。他に三浦義澄和田義盛といった相模国人も頼朝に味方した。
頼朝は三浦、和田の援軍を待っていたが、一向に来る気配がない。酒匂川が増水しており渡ることができなかったのである。頼朝は石橋山に陣を取ったが、大庭・伊東の平家方は頼朝勢の十倍であった。
支えきれなくなった、頼朝は舟で房総に脱出して、祐親たち平家方はこの戰に大勝した。


↑三浦氏が石橋山合戦の後、畠山重忠と戦った「由比ガ浜」(神奈川県鎌倉市)

しかし、この後、房総に逃れた頼朝は千葉氏や上総氏の援助のもと、大軍を結集させる。また、関東では貴族化した平家に愛想をつかした武士たちが頼朝のもとに集結し、頼朝の力は増すばかりであり、祐親は孤立した。
「富士川の戦い」で伊東祐親の属した平家方は敗退。その後、祐親は伊豆鯉名浜で捕らえられたが、娘婿である三浦義澄の尽力もあって命は助けられた。だが、このことを恥じた伊東祐親は伊豆鯉名浜において自害した。
1182年(寿永元年)二月のことであった。

その後、祐親の後継者となった、祐親の次男、伊東祐清は源氏からの要請を断り平家方についた。
これも父、祐親の遺言を忠実に守ってのことであろう。平家の棟梁、平清盛はこの前の年に病死している。頼朝の首を見ることなく熱病で苦しみながら清盛は死んだ。
勢いを失いかけた平家方は北陸道から進軍する源氏方の木曽義仲を討つべく平教盛(清盛の弟)、維盛(清盛の孫)を北陸道に派遣した。
どうやらこの平家の軍勢に伊東祐清は加わったらしい。これを迎え打つのは源氏一門の木曾義仲である。
義仲の奇策が功を奏した「倶利伽羅峠(くりからとうげ)の合戦」で平家方は大敗し、平家一門は命からがら加賀(現・石川県南部)まで後退したそうである。翌年五月。一路、都へ北陸道を南下する平家の軍勢に背後から木曽義仲の軍勢が襲いかかった。
「篠原の戦い」である。永井秀尚著の「修羅の巨鯨」によると、この戦いで伊東祐清は奮戦し命を落としたと言われている。
同年六月。木曽義仲は入京を果たし、平氏はついに西国へ奔った。しかし、横暴を極めた義仲と当時の都の権力者である後白河法皇は折があわず、法皇は頼朝に義仲の討伐を依頼した。
頼朝の命を受けた源義経が翌年の1184年(元暦元年)一月に入京し、近江において木曽義仲を討った。


↑木曾義仲廟所(長野県木曽福島町)

この後、平家を滅ぼした源頼朝は鎌倉幕府を開く。源義経や奥州藤原氏を封じる「奥州征伐」を行ない天下を掌握した・・・。

つづく

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