好評です!
ほぼ日のアプリあります。

logo_1101

2019-03-29

おしらせ

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・ぼくの耳に入ってきたことわざは、
 祖母の口から出てきたものが圧倒的に多いと思う。

 「七度探して人を疑え」は、そうやって知った、
 ぼくにとってのいちばん痛いことわざである。
 なにかを紛失したときに、人はよく、
 だれかが盗ったのではないかと騒ぎ出す。
 幼いころのぼくが、そういうことを言ったのだった。
 じぶんがどこかに落としたとか、しまい忘れたとか、
 ただ単に目に入らなかっただけであるとか、
 そういうありがちな可能性を疑うことなく、
 「だれかが盗んだ」という仮説を持ち出して、
 犯人探しをしたり、その動機を妄想したりする。
 じぶんが、いっぱしの探偵にでもなったようなつもりで、
 目に見えている世界に疑いを投げつける。
 そういう場面で、おばあちゃんが言ったのだ。
 「そういうことを言うもんじゃない。
 七度探して人を疑えっていうものなんだよ」
 何度も何度もよく探して、どうしても無かったら、
 はじめて盗られたかもしれないと言えるのだと言った。
 ぼくは当然のように、「何度も何度も探したよ」と、
 言い訳のように言ったことだろう。
 結果は言わずともわかるようなことだった。
 どこにも犯人はいなかった、だれも盗んではいなかった。

 これだけ書いたところでは、
 ただの子どもの不注意の物語になってしまう。
 しかし、書いてないところになにがあったかと言えば、
 「疑いをかけられた無実の人」と、「薄暗い疑い」と、
 「だれかを盗人と疑ったわたし」がいたのである。
 さらりと語れば、軽率な人の物語のようだけれど、
 実は、不信と悪意の物語だったのである。
 「うっかりしてた、ごめんごめん」と頭をかいて、
 なんとなく済ませてしまおうとしたときには、
 じぶんの「下衆な妄想」や「失礼この上ない推理」が、
 隠されてしまうことになるのだけれど、ほんとはちがう。
 正直に言うが、「七度探して人を疑え」を知ってからも、
 ぼくは人を疑い、得意そうに下品な推理をしてきた。
 知らない他人についてもまだそういうことをやっている。
 直ったところもあるけれど、まだ直ってはいない。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
「人を疑う」ということの、重さ痛みは忘れたくないだよ。


ここ1週間のほぼ日を見る コンテンツ一覧を見る



カート