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【社説】

3・11から8年 「次」はいつ、どこででも

 東日本大震災以上の規模とされる南海トラフ巨大地震。ほかにも大地震予測がいくつも。いつ起きるかは分からない。自分にできる備えは十分にしたい。

 「ここの地面は、海抜七・四メートル。避難場所まで七百メートル」-。こんな看板が、人影まばらな通りのあちこちに掛かる。太平洋を望む三重県南部の尾鷲市。外海に接していることもあって、有史以来、大地震に伴う大津波にたびたび襲われた。近いうちに起きるとされる「南海トラフ巨大地震」でも被害が予想される。

◆津波は、逃げるが勝ち

 同市の自宅で、地元の自主防災会会長、山西敏徳さん(86)がしみじみ話す。「『津波は、逃げるが勝ち』です」と。七十五年前、愛知、三重、静岡県などの沿岸部を襲ったマグニチュード(M)7・9の「昭和東南海地震」(震源・熊野灘沖、千二百二十三人犠牲)で発生した津波に巻き込まれた。

 発生は、一九四四(昭和十九)年十二月七日午後一時三十六分。この日時は、被災した市内のお年寄りの大半がスラスラと口にする。当時十一歳、国民学校六年生の山西さんは「体操で騎馬戦の最中だった。縦に横に激しく揺れて、どこからかブルドーザーみたいなごう音が聞こえた」と言う。

 「先生が『裏山に逃げろ!』と叫ぶのを聞き、蛇行する山道ではなくシダをかき分けて真っすぐに登った」。十分後、津波が沿岸部を襲った。政府などの資料には「夕方までに六回。最高十メートル」とある。

 自分は難を逃れた。しかし-。岸壁に近い自宅は流され、両親が犠牲になった。「山の上から自宅は遠かった。逃げなかったのは悲しい」と今も嘆く。東日本大震災の津波映像を見るたび、往時を思い出して胸がつぶれる。

 被災して二十年ほど後、テレビ局のインタビューに「津波は、逃げるが勝ち」と答えた。それが、標語になったという。今も市役所庁舎に横断幕で掲げられ、「揺れてから五分で逃げれば被災者ゼロ」とも書いてある。

 六十五歳以上の人口が四割を超えた尾鷲市。山西さん自身も高齢だが、心身とも丈夫。「私らの記憶を語り継ぐ後継者をつくっていきたい」と地元の小学校などで精力的に地震と津波の講演をする。

◆理科から社会へ

 山西さんらが被災した昭和東南海地震の二年後、終戦翌年の四六年十二月に、震源がやや西の紀伊半島沖で、M8・0の昭和南海地震(千三百三十人犠牲)が起きた。西日本の高知、和歌山、徳島の各県などで大きな被害が出た。江戸時代末期の一八五四年には、やはり震源が隣り合う「安政東海地震」など二つの大地震が三十二時間間隔で発生している。

 こうした分析などから、東海-九州で死者三十万人以上と予測される「南海トラフ」は、一度にではなく、東西別々に続けて起きる可能性がある-。これが、政府の中央防災会議の有識者会合が昨年想定した「半割れ」だ。最初に被災しなかった側の住民の一部にも一週間程度の避難を呼び掛ける。

 「南海トラフ」は、三十年以内に70~80%の確率で起きると予測される。もう、「発生する」が前提だ。でも「確度の高い地震予知」ではない。

 「半分ずつ二回」の場合、東西どっちが先か。間隔は二年か、三十二時間か。そもそも、最初の地震はいつ起きるのか-。政府はこうした「予知」を横に置き、「救済」に軸足を移した。有識者会合の主査を務めた名古屋大減災連携研究センターの福和伸夫教授は「理科から社会」の段階に入ったと話す。

 例えば「半割れ」で先に半分が被災したら、反対側の住民は(自分のリスクはあっても)救いに行くのか。福和教授は「正解のない難題」と指摘。国が枠組みやガイドラインを整備しているという。

 「南海トラフ」ほど巨大な想定ではないが、政府はM7程度の「首都直下地震」が今後三十年以内に70%の確率で起きるとしている。首都圏では、東日本大震災でも最大震度6強を観測し、死者・行方不明者六十一人を出した。直下地震での被害想定は「冬の夕方、風速八メートル」だと死者約二万三千人、建物全壊・焼失約六十一万棟-などとなっている。

◆首都直下なども

 このほか、政府の地震調査委員会は二月、東北地方の太平洋側でM7クラスの地震の今後三十年の発生確率が上昇したと発表。「東日本大震災後の東北は、依然として注意が必要だ」としている。

 地震学者今村明恒(一八七〇~一九四八)は、「災害予防のこと一日も猶予すべきにあらず」という言葉を残した。「日本では、地震はいつ、どこで起きてもおかしくない」と肝に銘じ、「防災、減災」の意識を高めたいと思う。

 

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